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禁忌の手前で暮らす——樹海縁連作短編集  作者: 蒼月よる


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8/11

借用札の数字、月夜の港

 月夜の港は、昼より静かなぶん、声が遠くまで届く。


 夜講習の終わりに、一人だけ帰らない女がいた。


 三十前後。日焼けした腕に荷紐の跡がある。港の荷運びだ。名をドーラといった。


「残ってどうした」とラクスが聞く。


「数字を読みたい」


 ドーラは懐から一枚の札を出した。粗紙に墨書き。上端に「借用」の二文字。


「毎月返してるんです。でも、減ってる気がしない」


 わたしは灯の近くに札を置いた。


 元金、銅貨六十枚。利息、月八枚。返済期限、十二ヶ月。


 指で追って、すぐに気づいた。月八枚を十二ヶ月返すと、利息だけで九十六枚になる。元金より多い。


「ドーラさん、これまでいくら返しましたか」


「七ヶ月で、銅貨五十六枚」


「それは利息だけの額です。元金はまだ一枚も減っていません」


 ドーラの目が揺れた。怒りではない。自分の足元が急に柔らかくなったような、そういう顔だった。


「でも、あの人は"決まりだ"って」


「貸し手は誰ですか」


「港の仲買の、ヨルグって人です」


 翌日、ナタリアを通じてヨルグを呼んだ。


 五十過ぎの、首の太い男だった。集会所の椅子に座ると、机の上の借用札をちらりと見て、不安げに顎を引いた。


「何か問題があったか」


「利率です」とわたしは言った。「月八枚は元金の一割三分。年で換算すると元金を超えます」


 ヨルグは首を傾げた。


「一割三分?」


「銅貨六十枚に対して八枚。六十を十で割ると六。八は六より大きいので、一割を超えています」


 ヨルグの顔に浮かんだのは、悪びれでも開き直りでもなかった。困惑だった。


「……親父がこの書式で貸してた。俺はそのまま使ってるだけだ」


「計算はご自分でされましたか」


「いや。数字はそのまま写した」


 ラクスが低く言った。


「書式の写し間違いか、元の利率が高すぎるか。どちらにしろ、確認した者がいない」


 ヘレムが腕を組んだまま口を開く。


「金銭に関わる知識の拡散は、神殿としても慎重にならざるを得ない。利率の仕組みを広く教えること自体が、別の問題を生む可能性がある」


「全部を教える必要はありません」


 わたしは用意した紙を広げた。


「借用札を受け取るとき、声に出して確認する。元金がいくら。利息がいくら。いつまでに返す。貸し手と借り手の両方が読み上げる」


 ナタリアが続ける。


「利率の表記も変える。"月八枚"じゃなくて、"銅貨十枚につき一枚、月ごと"。実物で対応させれば、計算できなくても多い少ないが分かる」


「銅貨十枚につき一枚なら——六十枚だと六枚か」


 ヨルグが指を折って数えた。自分で出した数字を見て、目が少し開く。


「八枚じゃなくて、六枚が正しいのか」


「"正しい"かどうかは貸し手が決めることです。ただ、今の書式では貸し手自身も利率を把握できていなかった」


 ヨルグは黙った。机の上の借用札を見つめている。自分が書き写した数字に、初めて意味が付いた顔だった。


「……ドーラには悪いことをした」


 わたしは首を振った。


「騙すつもりがなかったことは分かっています」


「つもりがなくても、取りすぎたのは事実だ。差額は返す」


 ドーラが隅の椅子で小さく息を吐いた。ゴルツのときと似ている。怒りより先に安堵が来る人は、ずっと黙って耐えていた人だ。


 ヘレムがヨルグに向き直った。


「今後、借用札の書式を統一する。元金、利息、期限の三項を所定の位置に書く。利率は実物対応で表記。計算表は写本屋に保管して、誰でも照会できるようにする」


「計算表?」


「"銅貨十枚につき一枚"なら、元金ごとの利息額を一覧にした表です」とわたしは説明した。「貸し手も借り手も、表を見れば確認できます。計算そのものを覚える必要はありません」


 ヨルグは頷いた。


「あった方がいい。俺も、親父の数字をそのまま使ってて——合ってるかどうか聞ける場所がなかった」


 その言葉で、集会所の空気が少し変わった。


 夜、港の桟橋でドーラに新しい借用札の書き方を見せた。月が水面に映って、紙の上にも薄い光が落ちている。


「ここが元金。ここが利息。ここが期限。受け取るとき、三つとも声に出してください」


「声に出す」


「はい。貸し手も一緒に。片方だけが読むのでは意味がありません」


 ドーラは札を持ち上げて、月明かりに透かした。


「前の札は、数字が並んでるだけだった。どれが何の数字か、分からなかった」


「今度は分かりますか」


「……元金。利息。期限」


 三つの言葉を、ドーラはゆっくり読んだ。声が小さかったのは、まだ慣れていないからだ。でも、自分の口から出た言葉だった。


 帰り道、ラクスと並んで歩いた。港の匂いが風に混じる。魚と潮と、荷を縛る麻紐の匂い。


「計算表、明日刷る」


「何部ですか」


「港に二十。市場に十。ギルドに五」


「多いですね」


「足りないくらいだ」


 ラクスは夜でも声が変わらない。必要なことを必要な量だけ言う。わたしはその寡黙に、いつも少し救われる。


 写本屋に戻ると、机の上にヘレムが置いていった書付があった。


 ——借用に関する照会窓口の件、神殿として週二回の受付を設ける。ただし、利率の計算指導は行わない。照会と確認のみ。


 禁忌の線はここにもある。知識を広げすぎない。でも、確認の手段は塞がない。その間の、細い道を歩く。


 わたしは灯芯を替えながら、ドーラの声を思い出した。


 元金。利息。期限。


 三つの言葉は、銅貨の重さより軽い。でも、その三語を知らないまま七ヶ月を過ごすのと、知って一ヶ月を過ごすのとでは、港の夜の見え方が違うだろう。


 月が窓から差し込んで、計算表の下書きを照らした。明日にはこの紙が、港の壁に貼られる。


 数字は読めなくても、声に出せば分かることがある。分かれば、聞ける。聞ければ、次は間違えにくい。


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