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禁忌の手前で暮らす——樹海縁連作短編集  作者: 蒼月よる


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7/11

地図の傷、雨の街道

 雨は、灰枝を出て半刻で本降りになった。


 街道の石畳は濡れると色が変わる。灰が黒になり、苔が光り、轍の泥が足首を掴む。荷を積んだ馬車は揺れるたびに軋み、幌の隙間から水が垂れて荷札を叩いた。


「札、濡れる前に見てくれ」


 行商隊の隊長、ハーゲンが幌の下から声をかけた。四十を過ぎた男で、顎髭に白いものが混じっている。灰枝と東の街道を十年往復しているらしい。声が太い。


 わたしがここにいるのは、ラクスの代理だった。荷札の照合——行商隊が灰枝に持ち込む荷と、ギルドに届け出た品目が合っているかを出発前に確かめる仕事。普段はラクスがやるが、今朝は版木の修繕で手が離せなかった。


「頼むぞ。分岐まではすぐだ」


 荷台に潜り込み、油紙に包まれた荷札を一枚ずつ開く。塩袋二十、干し肉十二束、革紐六巻。品目、数量、荷主印。指先が冷えて、紙の端がめくりにくい。


 分岐に差しかかったのは、雨脚が一段強まったときだった。


 街道が二手に分かれる。右は正規の東街道。左は旧道で、樹海の縁に沿って曲がりくねる。


 道標が立っていた。石の柱に刻まれた文字と矢印。だが、雨で苔が膨らみ、下半分が読めない。上の文字も輪郭がぼやけて、目を凝らさないと判別できなかった。


「左だ」とハーゲンが言った。


 わたしは荷札の最後の一枚を閉じたところだった。


「左?」


「旧道のほうが近い。この雨だ、早く抜けたい」


 ハーゲンが懐から地図を出した。折り癖のついた粗紙。墨で街道と分岐が描かれている。左の道に、赤い点線が引いてあった。通行路の印だ。


 嫌な予感がした。


「待って。わたしの原本を見せます」


 荷台の底に押し込んでいた筒を引き抜く。ラクスが持たせた灰枝の街道原図。防水布で三重に巻いてある。広げると、同じ分岐が描かれていた。


 左の旧道には、×印。


 その横に、小さな文字。


 樹海寄り・通行不可。警告年、五年前。


 ハーゲンの写しには、×印がなかった。道が一本、何の注記もなく伸びている。


「この×は何だ」ハーゲンが原本を覗き込む。


「警告印です。旧道は禁域に近い。五年前に閉鎖されてる」


「聞いてない」


 ハーゲンの顔が強張った。十年この道を通っていると言った男だ。地図を疑うことに慣れていない。


「この写しで何度も通った。問題なかった」


「いつ写したものですか」


「……七年前に東の宿場で買った」


 七年前。閉鎖の二年前の版だ。


「版番号は」


 ハーゲンが地図の端を返す。番号はない。日付もない。誰が写したかも分からない紙だった。


 雨が幌を叩く音が大きくなった。馬が鼻を鳴らし、後ろの荷車の御者が怒鳴る。


「どっちだ! 止まってると轍にはまる!」


 わたしは原本を指した。


「右です。正規路」


 ハーゲンは動かなかった。


「遠回りだ。半日は余計にかかる」


「旧道は禁域に寄ってます。雨で道標も見えない。入ったら戻れなくなる可能性がある」


「可能性だろう。俺の地図では通れる」


「その地図に警告印がないんです。版が古い」


 ハーゲンは地図を握ったまま、雨を見た。隊の馬車は三台。荷運びが六人。全員がこちらを見ている。誰も字は読めない。隊長の判断だけが道になる。


 わたしは地図を二枚並べた。原本と写し。雨に濡れないよう、幌の下で膝に広げる。


「ここ。この分岐から先、旧道は樹海の端を通ります。原本の×印は、道の先に禁域があるという意味です」


 ハーゲンの目が×印に留まった。禁域、という言葉を聞いたとき、荷運びの一人が小さく息を呑んだ。灰枝の外でも、その恐れは同じらしい。


「……知らなかった」


 ハーゲンの声は低かった。怒りでも言い訳でもない。ただ、知らなかったという事実をそのまま口に出した音だった。


「右に回ります」


 隊が動き出す。雨の中、三台の馬車がゆっくり右へ曲がった。旧道の入口が、幌の隙間から遠ざかる。苔に覆われた道標の石柱が、雨に沈んでいくように見えた。


 あの先に何があるかは、わたしも知らない。知らないまま、近づかないようにする。それが灰枝の流儀だった。


 正規路は確かに遠回りだった。泥に車輪を取られ、馬が嫌がり、荷が偏るたびに止まって積み直す。半日どころか、灰枝に戻ったのは日が暮れてからだった。


 写本屋に着くと、ラクスが版木を拭いていた。


「遅い」


「分岐で止めた。ハーゲンの地図に警告印がなかった」


 ラクスの手が止まる。


「旧道か」


「うん。七年前の写し。版番号もない」


 ラクスは拭き布を置き、棚から街道原図の控えを出した。広げて、分岐の×印を指で押さえる。


「この印、俺が入れた。五年前に道標の確認に行ったとき、旧道の先で樹海の青が濃くなってた。あれは寄りすぎてる」


「写しに反映されてないものが、どれだけあるか分からない」


「そういうことだ」


 翌日、ギルドの窓口でナタリアと話した。


「地図の写しに管理番号がない。誰がいつ写したか追えない」


 ナタリアは帳面を開いて、行商隊の登録簿を引いた。


「灰枝を経由する隊のうち、地図を自前で持ってるのは七割。そのうち版番号があるのは……半分もないだろうね」


「警告印が抜けてる写しが出回ってたら」


「旧道に入る隊が出る。今回はたまたまシアがいた」


 たまたま。その言葉が刺さった。


 ヘレムに相談したのは、その日の夕方だった。神殿の裏庭で、ヘレムは古い祈祷書の綴じ直しをしていた。


「地図に版番号と更新日を入れたい。それと、写しを作るときに警告印が落ちないよう、照合印を義務にしたい」


 ヘレムは糸を切り、綴じ針を置いた。


「地図の管理か。版番号は問題ない。照合印も、既存の文書管理の延長で通る」


「禁忌には触れませんか」


「新しい知識を作るわけじゃない。既にある警告を落とさないようにするだけだ。むしろ、落とすほうが危うい」


 ヘレムは少し間を置いてから続けた。


「ただ、地図には描けない場所がある。禁域の正確な位置は、地図に載せられない。載せれば、そこを目指す者が出る」


「だから×印なんですね。場所ではなく、方向だけを示す」


「そうだ。"この先に近づくな"であって、"ここに何がある"ではない。その区別を守れるなら、運用に問題はない」


 三日後、写本屋の机の上に新しい書式が並んだ。


 地図照合票。


 記載事項は三つ。版番号、更新日、警告印の有無。


 写しを作る者は、原本と照合して三点が一致していることを確認し、写本屋で照合印を受ける。印のない写しは、ギルドの荷札確認で使用不可。


 ラクスが照合印の版木を彫った。小さな丸に、縦線が一本。単純だが、偽造しにくい位置に押す。


「場所は紙の左下。ここは普通、何も書かない。だから印があること自体が目印になる」


 ナタリアが行商隊の登録簿に新しい欄を足した。


「地図照合日。次回の入町時に確認する。照合切れの地図を使ってる隊には、更新を案内する」


 最初の照合依頼は、意外にもハーゲンだった。


 東街道から戻ってきた日、写本屋の戸を叩いて、古い地図を差し出した。


「これに番号を入れてくれ。あと、×印も」


 わたしは原本と並べて、一つずつ確認した。分岐の旧道。北寄りの沢筋。南の崩れ斜面。×印が三つ増えた。


 ハーゲンは新しい印を見て、しばらく黙っていた。


「地図に描けない場所がある、って聞いたことはあった」


「はい」


「でも、どこが描けないのか分からなかった。分からないから、気にしなかった」


 ハーゲンは地図を丁寧に折り直した。


「×があるだけで違う。行くなって意味だろう。それだけで十分だ」


 戸口で振り返り、ハーゲンは付け加えた。


「あの雨の分岐で止めてくれなかったら、俺は左に入ってた。十年通ってたから、疑わなかった」


 わたしは頷いた。十年の経験は、七年前の地図を正しいと信じさせる。経験が長いほど、紙を疑わなくなる。


 ハーゲンが去ったあと、ラクスが奥から言った。


「地図の照合、定期でやるか」


「やる。行商隊が来るたびに、荷札と一緒に確認する」


「仕事が増える」


「増える」


 ラクスは鼻で笑った。でも、版木を棚に戻す手は丁寧だった。


 夜、わたしは原本の×印を一つずつ確認した。旧道。沢筋。崩れ斜面。地図の上では小さな記号だ。でも、それがなければ人は道を間違える。


 地図に描けない場所がある。描けないから、その手前に×を置く。


 魔石灯の青い光の下で、わたしは新しい照合票に日付を入れた。雨の街道で見た、苔に沈む道標を思い出す。石に刻んだ文字でも、雨と年月で消える。だから紙にも写す。紙が濡れたら、また写す。


 消えかける警告を、繰り返し引き直すこと。それが、禁忌の手前で地図を扱う者の仕事だった。


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