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禁忌の手前で暮らす——樹海縁連作短編集  作者: 蒼月よる


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6/11

口伝えの寸法、曇りの工房

 曇りの日は、木の匂いが重くなる。


 湿気を吸った板材が膨らんで、鉋屑の甘さと樹液の青臭さが市場の通りまで漂ってくる。晴れていれば気にならない程度のものが、曇天だと鼻の奥に居座る。灰枝の工房通りは、だからいつも天気が分かる。


 その日、市場の東端で屋台が傾いていた。


 傾き、というには控えめな表現で、屋根の右端が拳二つぶん下がっている。布幕が斜めに垂れて、朝の仕込みをしていた干物売りの婆さんが竿を抱えたまま立ち尽くしていた。


「おい、どういうことだ」


 屋台主のドムが、工房主のヤンツの胸ぐらを掴んでいる。ドムは市場で干し肉と塩漬けを売っている太い男で、声も太い。


「言った通りに切った」


 ヤンツは腕を払おうともしない。木工房を二十年やっている男が、仕事の不備を指摘されたときの顔をしていた。怒りではない。困惑だ。


「言ったのと違う。柱が短い。屋根が下がってるだろうが」


「寸法は伝えられた通りだ。腕二本」


「腕二本と拳一つだ! 拳一つ足りてない!」


 わたしはちょうどギルドへの届け物の帰りで、通りがかっただけだった。けれど「言った通り」と「言ったのと違う」が同時に正しい顔をしている場面は、この仕事をしていると見慣れてくる。


 ナタリアが受付台から出てきたのは、怒鳴り声が三度目のときだった。


「止めて。揉めるなら経緯を出して」


「経緯もなにも、俺は息子に言って——」


 ドムが言いかけて、口を閉じた。自分で何かに気づいた顔だった。


「息子に言った?」


「ああ。俺は市場から動けなかったから、息子に工房まで走らせた」


「息子は直接ヤンツさんに伝えた?」


 ヤンツが首を振る。


「来たのは弟子だ。息子さんが弟子に話して、弟子が俺に伝えた」


 三人経由。屋台主ドムから息子へ。息子から工房の弟子へ。弟子から工房主ヤンツへ。


 わたしは傾いた屋根の柱を見た。切り口はきれいだ。腕の悪い仕事じゃない。ただ、短い。


「ドムさん、息子さんを呼べますか」


「あいつは今、渡し場だ。昼には戻る」


「弟子は」


 ヤンツが顎で工房のほうを示した。


「いる。呼ぶか」


「お願いします」


 弟子が来るまでの間に、わたしはナタリアと柱の寸法を測った。灰枝では標準の測り方がある。腕を伸ばした長さが「腕一本」、握った拳の幅が「拳一つ」。人によって多少の差はあるが、市場の修繕程度なら十分な精度だ。


 柱は腕二本ぶんだった。拳一つ足りない。


 弟子のコルトが来た。十六か十七の、まだ手の皮が薄い少年だ。


「コルト、屋台の柱の寸法、なんて聞いた」


 コルトはヤンツとドムの顔を交互に見て、唾を飲んだ。


「腕二本、です」


 ドムが声を上げる。


「違う! 拳一つもあっただろう!」


「俺は……腕二本って聞きました」


 わたしは手を上げてドムを止めた。


「コルト、伝えてくれたのはドムさんの息子だよね。そのとき、他に何か言ってた?」


 コルトは目を泳がせる。思い出そうとしている顔だ。


「急いでて。走ってきて、息が上がってて。腕二本、柱、早めに、って。それだけだったと思います」


 ドムの拳が緩んだ。怒りが行き場を失ったときの緩み方だった。


「……あいつ、拳一つを落としたのか」


「落とした、というより」わたしは言葉を選んだ。「口伝えは縮むんです。大きい方の数字だけ残って、小さい方が消える」


 ヤンツが低くうなった。


「そういうことか。弟子は悪くない」


「俺の息子も、わざとじゃない」ドムは舌打ちした。「けど柱は短い。屋根は傾いてる。雨期までにやり直しだ」


「やり直す」ヤンツは頷いた。「材料費はうちで持つ」


「いや、伝え方が悪かったのはうちだ。折半でいい」


 揉めごとが収まる方向に動いたのは、どちらにも悪意がなかったからだ。灰枝の揉めごとは、悪意がないときの方が厄介なことが多いけれど、今回は逆だった。


 ナタリアが帳面を閉じかけたとき、わたしは口を開いた。


「同じことが、また起きます」


 三人がこちらを見た。


「口伝えは必ず縮む。今回は拳一つで済んだけど、大きい修繕で寸法が違ったら、柱が折れるかもしれない。人が下にいたら」


 ドムが顔をしかめる。


「じゃあどうする。毎回、本人が工房まで行くのか。市場を空けられない日だってある」


「紙に書けばいい」


 ヤンツが肩をすくめた。


「うちの弟子は字が怪しい。読み間違えたら同じことだ」


「字じゃなくていい」


 わたしは腰の書き物袋から紙と炭筆を取り出した。通りの端にしゃがんで、簡単な図を描く。


 まず縦線を一本。柱だ。横に短い線を引いて、長さの目盛りを刻む。腕一本ぶんの長さに大きな刻み、拳一つぶんに小さな刻み。線の横に数を書く。二と一。


「これなら、字が読めなくても棒の長さと刻みの数で分かる。数字が読めれば確実だけど、読めなくても刻みを数えればいい」


 ヤンツが紙を受け取って、目を細めた。


「……なるほど。棒が柱で、刻みが寸法か」


「口で伝えるときも、この札を一緒に渡す。受け取った人は、口で聞いた数字と札の刻みを比べて、合わなかったら聞き返す」


 ドムが腕を組む。


「紙一枚で済むのか」


「紙一枚と、確認の手間が一つ。それだけです」


 ナタリアが帳面を開き直した。


「名前をつけて。運用に乗せるなら」


「寸法札」わたしは言った。「仕事の指示を出すとき、口頭だけで渡さない。寸法札を必ずつける」


 ヤンツが弟子のコルトを見た。


「お前、これ見て分かるか」


 コルトは紙を覗き込んで、指で刻みを数えた。


「二と一。腕二本と拳一つ。……分かります」


「聞いた数字と合わなかったら?」


「聞き返します」


「それだけだ」ヤンツは紙をコルトに渡した。「それだけのことが、なかった」


 午後、工房通りのヤンツの作業場で、わたしは寸法札の見本を五枚作った。柱、板、梁、棚板、戸枠。よく出る仕事の分だけ。


 ヤンツは鉋を止めて、札を一枚ずつ確認した。


「線の太さは統一した方がいいな。細いと曇りの日に見にくい」


「炭筆の太い方で引きます」


「あと、ここ」ヤンツが梁の札を指した。「幅と厚みも要るだろう。長さだけじゃ足りない」


「それは別の線で。縦が長さ、横が幅。交差するところに丸を打って、寸法を書く」


 ヤンツは少し考えて、頷いた。二十年の経験がある職人は、足りないものに気づくのが速い。


 コルトが木屑を掃きながら、小さな声で言った。


「前にも、一回あったんです」


 ヤンツが振り向く。


「棚板の仕事で、幅を聞き間違えて。そのときは親方が気づいて切り直してくれたから、揉めなかった。でも、ずっと気になってた」


「なぜ言わなかった」


「言ったら怒られると思って」


 ヤンツは何か言いかけて、やめた。代わりに寸法札を一枚取って、コルトの前に置いた。


「明日から、指示を受けるときはこれを書け。口で聞いただけで動くな」


「はい」


「聞き返すのは恥じゃない。切り直す方がよほど高くつく」


 コルトは札を両手で受け取った。持ち方が、道具を受け取るときの持ち方だった。


 夕方、市場に戻ると、ドムが新しい柱の横に立っていた。今度は寸法札が柱に紐で結ばれている。ドム自身が書いたらしく、線はがたがただったが、刻みの数は正確だった。


「息子にも持たせる。走って伝えに行くときは、必ずこれをつけろって言った」


「息子さん、数字は読めます?」


「読める。刻みも数えられる。あいつが読めないのは契約書の小さい字だけだ」


 ドムは少しだけ笑った。怒りが収まった男の笑い方だった。


 三日後、ヤンツの工房に別の注文が入った。宿場の窓枠の交換。注文主は宿の女将で、例によって使い走りの少年に口頭で伝えさせようとした。


 コルトが少年を止めた。


「寸法札は」


「なにそれ」


「口で聞いただけだと怖い。紙に描いてきて。線と刻みでいいから」


 少年は首を傾げながら宿に戻り、女将と一緒に札を作って持ってきた。線はへたくそだったが、数字は合っていた。


 ヤンツがそれを見て、コルトの肩を叩いた。何も言わなかった。職人が弟子の仕事を認めるときは、だいたい言葉が要らない。


 その夜、写本屋に戻ると、ラクスが寸法札の見本を眺めていた。わたしが置いていった一枚だ。


「単純だな」


「単純じゃないと広がらない」


「広がるかどうかは、最初に使った人間が怖がらずに続けるかどうかだ」


 ラクスは札を棚に戻した。


「弟子が自分から求めたなら、もう大丈夫だ」


 窓の外では、曇りの空が薄暗いまま暮れようとしていた。拳一つ。たったそれだけが、三人の口を経由して消えた。悪意はない。急いでいた。息が上がっていた。大きい方だけが残った。


 声は残らない。けれど、線と刻みなら残る。


 工房通りの紐には、寸法札が一枚ぶら下がっている。明日もきっと、木の匂いは重いだろう。


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