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禁忌の手前で暮らす——樹海縁連作短編集  作者: 蒼月よる


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帳簿の空行、夜番の灯り

 魔石灯の芯が切れかけると、青白い光は揺れずに細くなる。


 その夜、写本屋の戸を叩いたのは、宿場の夜番をしている老人だった。名をゴルツという。背中が丸く、外套の肩には夜露の跡があった。


「遅くにすまない」


 ラクスが机から顔を上げる。


「用件」


「帳面を見てほしい」


 ゴルツは懐から紙の束を取り出した。折り癖のついた粗紙が六枚。半年分の賃金明細だった。


「合ってるかどうか、わからない」


 確かめたいだけ、という声だった。


 わたしは灯の近くに紙を広げた。


 宿場「川辺亭」の名が入った帳面。月ごとに基本賃金、控除、支給額が一行ずつ並んでいる。数字は丁寧な手で、間違いなく同じ筆だ。


 ただ、気になる行があった。


 四ヶ月目と五ヶ月目の控除欄に、灯油代と修繕費が入っている。その二行だけ、筆圧が浅い。墨の色も、本文の濃い墨に比べて少し薄かった。


「ゴルツさん。この灯油代と修繕費、最初から書いてありましたか」


「さあ。字が読めないから、渡されたときも見てない」


 ラクスがわたしの手元を覗いた。


「空行だな」


「はい。最初から空行を残して帳面を作って、あとから書き足してる」


 控除額を足すと、半年で銀貨三枚分。夜番の月賃を考えれば、一割以上が架空の経費で引かれていた。


 翌朝、わたしはナタリアに報告した。


「宿場の帳簿、空行に後入れされた経費控除がある」


「宿主は誰」


「バルド」


 ナタリアは目を閉じて、二拍ほど黙った。


「呼ぶ」


 午後、集会所にバルドが来た。四十手前の、がっしりした男だ。帳面を差し出すと、眉一つ動かさなかった。


「経費は正当だ。灯油は実際に使う。修繕だって、夜番の詰所が傷めば直す」


「使ったとして、筆が違います」とわたしは言った。「本文と控除行で墨の濃さが違う。後から書き足してる」


「書く順番なんか決まってない。月末にまとめて書くこともある」


 嘘とは言い切れない。帳簿の書き方に決まりがなければ、順番のずれは言い訳になる。


 ゴルツは隅の椅子に座って、黙って聞いていた。


 バルドが少し声を落とす。


「なあ、ゴルツ。文句があるなら言ってくれりゃよかったのに」


 ゴルツは首を振った。


「文句じゃない。合ってるか確かめたかっただけだ」


 その一言で、バルドの言い逃れが妙に浮いた。


 ナタリアが机を指で叩いた。


「事実確認。灯油の実費は帳面の額と合ってる?」


 バルドは少し間を置いた。


「……多少、丸めてる」


「修繕費は」


「まとめて入れてる。全額が夜番分じゃない」


 つまり、実費はあるが水増ししている。全部が嘘ではないから、全部が本当でもない。字が読めない者の帳面には、いつの間にか行が増える。


 ヘレムが口を開いた。


「帳簿の運用を変えよう。過去は追わない。これからの話だ」


 バルドの肩が少し下がった。


 わたしはラクスと一緒に用意した帳簿紙を広げた。


「三つ、変えます」


 一、帳面の余白に格子を入れる。行を後から差し込めないようにする。


 二、月末に締め印を押す。締め印のあとの追記は、新しい行として翌月に繰り越す。


 三、賃金を渡すとき、金額を声に出して読み上げる。受け取る側が復唱する。


 バルドが格子入りの紙を見て、口の端を曲げた。


「面倒だな」


「面倒な形にするんです」


 ラクスの口癖だった。後で足す方が簡単な紙は、そもそも間違いだ。


 ヘレムが締め印の朱肉を出す。


「締め印は神殿と宿の双方で押す。片方だけでは無効にする」


「そこまでやるか」とバルド。


「やる」ヘレムは静かだった。「帳面で一割抜かれる町は、人が残らない」


 バルドは何か言いかけて、やめた。


 その日のうちに、川辺亭の帳面を作り直した。格子入りの紙に、基本賃金と控除を移す。灯油代は実費に修正し、修繕費は按分を明記した。


 差額は銀貨一枚と銅貨数枚。半年分の水増しの正体は、その程度だった。大金ではない。でも、夜番の老人にとっては冬の外套一着分だ。


 夕方、わたしはゴルツに新しい帳面を見せた。


「来月から、この形式になります。月末に金額を読み上げるので、復唱してください」


「復唱」


「声に出して確認する、ということです」


 ゴルツは紙を見た。格子の線をなぞるように、節くれた指が動く。字は読めなくても、行が埋まっていることは分かるらしい。


「今月の分を、試しにやってくれるか」


 わたしは帳面を開いた。


「基本賃金、銅貨四十二枚。控除、灯油実費、銅貨三枚。修繕按分、銅貨二枚。支給額、銅貨三十七枚」


 ゴルツは唇を動かした。


「……銅貨、三十七枚」


 声は小さかった。でも、自分の口から出た数字だった。


「合ってるか」と老人が聞く。


「合ってます」


 ゴルツは頷いて、泣きも笑いもせずに、紙を丁寧に畳んで懐にしまった。


 帰り際、ゴルツは戸口で立ち止まった。


「シアさん」


「はい」


「半年、おかしいと思ってた。でも字が読めないから、おかしいかどうかも分からなかった」


 わたしは何も言えなかった。


「分からないことが分からない、ってのは——きついもんだな」


 老人は頭を下げて、夜の通りに出ていった。魔石灯の青い光が、丸い背中を照らして、すぐに暗がりに溶けた。


 店に戻ると、ラクスが新しい格子紙を裁断していた。


「川辺亭だけじゃ足りないだろう」


「宿場は灰枝に五軒あります」


「五軒分、刷る」


 版木刀の音が、夜の店に小さく響いた。


 翌週、ナタリアが宿場組合に格子帳簿と締め印の運用を通達した。反発はあった。けれど「面倒だ」以上の反論は出なかった。面倒は、不正より安い。


 月末、川辺亭から報告が来た。


 ゴルツが賃金を受け取るとき、初めて自分から金額を読み上げたという。正確には、隣の若い番人に数字を読んでもらい、それを声に出して繰り返した。


 銅貨三十九枚。先月より二枚多い。修繕按分が減った分だ。


 大きな変化じゃない。


 でも、「知って受け取る」と「知らずに受け取る」の間には、帳面の格子一本分くらいの線がある。


 その線を越えた夜、写本屋の魔石灯はいつもより少しだけ長く灯っていた。


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