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禁忌の手前で暮らす——樹海縁連作短編集  作者: 蒼月よる


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4/5

祈祷札の裏面、煤壁の市場

 市場の煤壁は、晴れた日ほど黒く見える。


 雨が続いたあとの朝、灰枝の中央市場で小火が三件続いた。どれも大事には至らなかったが、焦げた匂いが通りの石に染みついて、昼を過ぎても消えない。


 最初の火元は乾物屋。次は宿の裏棚。三件目は祈祷具屋の軒先だった。


 共通していたのは、炉の横に貼られた小さな札。


 家内安全祈祷札。


 神殿印つき。


「印があるなら安全だと思った」


 乾物屋の主人は、煤で汚れた指を見ながら言った。


「貼る位置まで書いてあるって」


 わたしは焦げた札を拾い上げた。表はいつもの祈祷文。裏面に細字で指示があった。


 暖炉脇の高所に貼付推奨。


 問題は、ここで言う“高所”が、店ごとの炉構造を考えていないことだ。乾物屋の棚は炉口の真上だった。紙札に熱が当たり続ければ、いずれ燻る。


 マレンが札を覗き込む。


「しかも油引き紙だ。防湿のつもりだろうけど、火に弱い」


 ナタリアが帳面に印をつける。


「配布元を特定する。神殿印の番号、読める?」


 下端の朱印を見た瞬間、わたしは眉をひそめた。印番号の桁が一つ多い。正規印にない並びだ。


「偽印です」


 祈祷具屋の老婆が息を呑む。


「偽物……? でも、神殿の補佐が回ってきて、貼り方を説明してたよ」


 ヘレムが顔を上げる。


「誰だ」


「白い外套だった。若い男」


 神殿補佐の名簿に、その特徴の者はいない。


 偽札。偽補佐。火。市場は一気に疑心へ傾いた。


「神殿ごと信用できねえ」


「祈祷札は全部燃やせ」


「印なんか意味がない」


 声が上ずる。恐れが広がる速度は、いつも火より速い。


 ヘレムは正面から言った。


「神殿の不備だ。否定しない。だが、今燃やすべきは札ではなく、曖昧な運用だ」


 わたしはその言葉を拾って、ナタリアに向いた。


「市場向けに“貼付位置票”を作りましょう。祈祷文と別で。裏面だけで判断させない」


 ナタリアが頷く。


「貼っていい場所を図で示す。文字だけだと漏れる」


 ラクスが低く言う。


「そして紙を変える。耐熱布札に」


「高い」と祈祷具屋の老婆。


「高い。だから全部は替えない。炉の近くに貼る分だけ」


 集会所で緊急会合が開かれた。市場組合、神殿、ギルド、工房主、宿主。


 最初に揉めたのは責任の所在だった。


「偽補佐が回れた時点で神殿の管理不足だ」


「市場側だって印照合をしていない」


「うちは読めない客相手に説明する余裕がない」


 いつもの循環。誰も完全には間違っていないし、誰もそれだけでは足りない。


 わたしは卓上に、焦げた札と正規札を並べた。


「違いは三つあります」


 一、印番号の桁。

 二、紙質。

 三、裏面の“貼付推奨”の文言。


「正規札は“火元から腕一本以上離す”。偽札は“暖炉脇の高所”。言葉が似てるから、急いでると見分けにくい」


 ヘレムが付け加える。


「今後、祈祷札は裏面指示を廃止。貼付位置は別紙で配る。別紙はギルドと市場の掲示板に同時掲示し、版番号を明記」


 工房主が手を上げる。


「掲示板を読めない人は?」


「図を使う」とナタリア。「丸が安全、三角が注意、×が禁止。炉の模式図で示す」


 老人の一人が顔をしかめた。


「図記号なんて、新しい知恵をばら撒くのか」


 ヘレムは落ち着いた声で返す。


「新しい知恵ではない。火傷を減らす手順だ。禁忌の外側に出ない」


 老人は不満げだったが、反対は続かなかった。三件の小火を見たあとの市場では、抽象的な恐れより、現実の焦げ臭さが勝つ。


 その日のうちに、わたしたちは“炉前掲示票”を作った。


 表面は図。


 炉口の真上は×。

 煙道の折れ角は×。

 壁から腕一本以上離れた柱面は○。


 裏面は三行だけ。


 印番号を確認。

 紙質を確認。

 迷ったら貼らずに持参。


 紙は厚手布紙。端に青い糸を通す。神殿印は朱一つ、ギルド確認印は黒一つ。二印が揃わない札は無効。


 夜、最初の配布を市場で始めた。


 店主たちは札を受け取ると、まず炉の上を見上げる。今まで“なんとなく”貼っていた場所を、初めて疑う顔だった。


「うちはここでいいか?」


 乾物屋の主人が指差したのは、炉口の斜め上。


「×です。熱だまりができる」


「じゃあ、どこだ」


「柱の外側。ここ」


 わたしが柱を叩くと、主人は素直に頷いた。小火を経験した人は、学ぶ速度が速い。


 宿の女将は札を両手で持って言った。


「読めない客にも伝えたいんだけど」


 ナタリアが笑う。


「だから図にした。○と×だけ覚えて」


 その言葉通り、客間の入口に貼られた掲示票は、子どもでも見てわかる形になった。


 深夜、市場の見回りに出ると、祈祷具屋の老婆が店先で待っていた。手には古い木箱。


「これ、偽札の残り。全部出す」


 箱の中には未使用の札が四十枚。どれも偽印。


「どこから入れたんですか」


「先月、安く卸すって話が来てね。若い男が“神殿の簡易版だ”って」


 老婆は俯いた。


「わたしが、安さに負けた」


 わたしは首を振る。


「一人で負けたんじゃない。確認の手順がなかった」


「手順があれば、次は止められるかい」


「止める人を増やせます」


 翌朝、神殿前の掲示板には「祈祷札照合窓口」が新設された。印番号の照会、紙質確認、貼付位置相談。受付は週三回、夜。


 夜講習にも新しい項目を入れた。


 印番号。

 紙質。

 貼付位置。


 たった三つ。それでも、覚えるには十分な量だ。


 講習の終わり、祈祷具屋の老婆が前に出た。手には新しい布札。


「わたし、読めないんだけど、確認の仕方は覚えた」


 老婆は札の端を持ち上げ、青糸を見せる。


「糸が青。印が二つ。図は○が柱。これでいいね」


 受講者たちが頷く。誰かが小さく拍手した。


 それは大げさな達成じゃない。でも、灰枝ではこういう小さな合図が町を持たせる。


 三日後、小火の報告は途絶えた。


 市場の煤壁は相変わらず黒い。でも、焦げた匂いは薄れた。炉の近くに貼られた札は、前より少し離れている。


 祈りの文句は同じまま。


 違うのは、その祈りを貼る手順に、確認が挟まったことだった。


 夕方、わたしは市場の端で新しい掲示票を貼った。


 信じる前に確かめる。


 ヘレムが横でそれを見て、苦く笑う。


「神官が言うには不向きな標語だな」


「でも、今は必要です」


「そうだな。信仰を守るにも、まず火事を減らさないといけない」


 市場の鐘が鳴る。店じまいの合図。


 煤壁に夕陽が当たって、黒が少しだけ赤く見えた。


 わたしはその色を見ながら、札箱の蓋を閉める。明日もまた、貼る場所を聞かれるだろう。印の読み方を尋ねられるだろう。


 同じ問いが続くのは、悪いことじゃない。


 問いが続く限り、火は広がりにくい。


 禁忌の手前で暮らすというのは、たぶん、そういう地味な確認を毎日続けることだ。


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