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禁忌の手前で暮らす——樹海縁連作短編集  作者: 蒼月よる


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3/5

沈黙の運搬票、霧渡しの夕

 霧渡しの鐘は、夕刻になると音が低くなる。


 理由は単純で、川面の湿気で金属が重くなるからだ、とラクスは言う。本当かどうかは知らない。でも、あの鈍い音を聞くと、灰枝の一日は「間に合うかどうか」の顔になる。


 その日、ギルドの掲示板に赤札が貼られた。


 粉倉庫の第三区画、立入停止。


 理由は「喉焼けの苦情多発」。


 わたしが見に行くと、倉庫前には小麦袋が山になっていた。運び手は荷に触れた指を何度も擦り合わせ、監督役は鼻と口を布で覆っている。


「吸うな!」


 マレンの声が飛ぶ。


「粉じゃない。胞子だ」


 袋の口から漏れていたのは、灰色の細かい粒だった。小麦粉より軽く、魔石灯の光に浮いて見える。


 ナタリアが帳面を閉じる。


「運搬票はどこ」


 監督役が震える手で紙を渡した。わたしは受け取って、二行目で止まった。


 乾燥酵母鱗粉。


 禁搬区分、黄。


 黄区分は「防塵布推奨」。赤なら「必須」。問題は、診療所の初期検査でこの胞子が赤相当だったことだ。


「区分、間違ってる」


 監督役が首を振る。


「間違ってない。票に黄ってある」


「票が間違ってる」


 周囲の空気がすぐ尖った。区分違いは、責任が重い。荷主、倉庫、運搬、全員の財布に穴が開く。


 そこへ、息を切らせた少年が走ってきた。渡し場の使い走りだ。


「霧渡しで同じ袋が二十。今、降ろしてる!」


 ナタリアが即座に指示を飛ばす。


「第三区画封鎖。霧渡しにも停止札。シア、運搬票の原本を取って」


 原本はギルドの票庫にある。鍵を開ける手が滑る。紙をめくる音がやけに大きかった。


 見つかった原票には、こう書いてあった。


 禁搬区分、赤。


 配布票は黄。


 一文字ではなく、一色違い。色一つで、人の喉が焼ける。


 集会所には、夕方のうちに関係者が揃った。荷主の代理、倉庫番、運搬親方、神殿の衛生補佐、そしてヘレム。


 テーブル中央に、原票と配布票を並べる。色欄だけが違う。


 荷主代理の女が言う。


「うちは原票通りに申請した。赤で」


 倉庫番が即座に返す。


「受け取った票は黄だった」


 運搬親方は拳を握ったまま黙る。怒鳴るより先に、何を言えば賃金を守れるか探している顔だった。


 ヘレムがわたしに視線を向ける。


「差分の発生点を」


「票庫から写し出す段階です。原票は赤、配布票は黄。文字欄は一致してる」


「なら、誤記ではない」とヘレムが言う。「判別不能な運用ミスだ」


 ラクスが机を指で叩いた。


「文字だけに頼ってるからだ。色を言葉に置き換えろ。区分記号を併記する」


 ナタリアが頷く。


「赤は“R”、黄は“Y”、白は“W”。票の右肩に大きく打つ」


 荷主代理が唇を噛む。


「記号を増やすと、また“禁忌の拡張”って言われる」


 ヘレムは短く答えた。


「新知識ではない。既存区分の誤伝達防止だ。線の内側」


 その言い方が定着してきたのを感じる。誰かが反発しそうになる前に、「どの線の内側か」を先に置く。灰枝ではそれが効く。


 わたしたちはその場で運搬票を作り直した。


 一、色欄に加えて区分記号を併記(赤/R、黄/Y、白/W)。

 二、危険荷は票の上端を切欠き加工(赤は二つ、黄は一つ)。

 三、荷降ろし前に「区分読み上げ」を実施。


 切欠き加工は、紙の角を小さく切るだけだ。文字が読めなくても、指で触ればわかる。


 運搬親方が疑うように言う。


「切っただけで防げるか?」


「防げる範囲を増やす」とラクス。「一手で全部は防げない。三手で潰す」


 夕闇が落ちる前に、霧渡しへ向かった。


 現場には、すでに二十袋が並んでいた。荷運びたちは布を巻いたまま、遠巻きに袋を見ている。誰も触れない。


 わたしは新しい票を掲げた。


「これから区分を読み上げる。赤は二つ切欠き、黄は一つ。触る前に、票と角を両方見る」


 最初に手を挙げたのは、先週まで講習に来ていた織り子の娘だった。今は渡し場で手伝いをしている。


「読んでいい?」


「お願い」


 彼女は票の右肩を指でなぞり、ゆっくり声に出した。


「R。赤。切欠き二つ」


 周りが同じように復唱する。


「R。赤。切欠き二つ」


 そのとき、古株の荷運びが一袋を蹴って言った。


「これは一つだ。黄だろ」


 袋の角を見ると、確かに切欠きが一つだけだった。わたしは票を見直す。票はR。


「袋と票が食い違ってる。触るな」


 ナタリアが即座に停札を貼る。


 検査すると、その一袋だけ、別荷の黄色区分が混ざっていた。倉庫で積み替え時に取り違えたらしい。もし票だけで動いていたら、黄色扱いで開封していた。もし袋角だけで見ていたら、赤荷に黄手順を適用していた。


 紙と現物を二重で見たから、止められた。


 夜半、封鎖区画の換気が終わるまで、わたしたちは荷札を一枚ずつ点検した。単純作業ほど、眠気が敵だ。指先は粉でざらつき、喉は乾く。


 わたしが水桶を抱えて戻ると、ヘレムが倉庫壁にもたれていた。


「疲れた顔だ」


「疲れてます」


「それでいい。疲れを自覚している運用は、まだ壊れにくい」


 ヘレムは票を一枚取り上げる。


「“沈黙の運搬票”という言葉を知っているか」


「いいえ」


「誰も読み上げない票のことだ。黙って回る票は、必ずどこかで嘘を抱える」


 言葉は少し芝居がかっていた。でも、意味はまっすぐだった。


 翌朝、ギルド掲示板に新しい運用札を貼った。


 票は黙らせない。


 その下に、手順を三行。


 区分記号を読む。

 切欠きを触る。

 開封前に復唱する。


 三日後、喉焼けの苦情は止まった。ゼロになったわけじゃない。けれど、増えなくなった。


 五日後、渡し場の少年がわたしに紙切れを見せてきた。練習用の票だ。右肩に大きな字で「R」と書いてある。


「これ、俺にも読める」


「読めるね」


「じゃあ、危ないのも止められる?」


 わたしは少し考えて答えた。


「一人で全部は止められない。でも、最初の一回は止められる」


 少年は頷いて、紙を胸にしまった。あの紙はすぐ汗で滲むだろう。それでも、持っている間は目印になる。


 夕刻、霧渡しの鐘がまた低く鳴る。


 倉庫前では、荷運びたちが荷札を声に出していた。上手い読み方じゃない。けれど、黙ってはいない。


 灰枝で一番危ないのは、読めないことだけじゃない。読まないまま流すことだ。


 票が声を持つようになってから、わたしはようやく、あの鈍い鐘の音を少しだけ静かに聞けるようになった。


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