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ツヴァイヘンダー。
多分、そういう名前の剣なはずである。凪の持つマテバといい、その手のアイテムの名称がわかってしまうのは小学生時代に信じられないほど読み漁った歴史本やゲーム攻略本、雑学サイトが理由である。彼もかつてはそういう少年だった。
両手で振り回せるよう鍔の先の刀身側にも持ち手があるその剣は、実際に持つとちょっと引いてしまうくらい大きかった。アニーかうららの身長くらいは長さがありそうだ。
そんなサイズの鉄の塊を持って、テツジは徒歩で農地を駆け抜けていた。一体自分は何をしているのかと思うとシュールな気持ちにもなったが、新月機関と凪のこれまでの努力を想って笑うのはなんとか踏みとどまった。
シュールでは済ませられない、ここはそういう世界だ。
クロエから聞いた話が呼び水になったのであろう。テツジは走りながら、この不完全な世界のことを考えていた。どう考えても家庭用ゲーム、をモデルにした小説や漫画……を、モデルにしようとして失敗した世界。
ただ夢破れただけなら、うまく紡げなかっただけならどうでもよかった。都合の良い世界を夢見ることだって楽しいなら正義だ。奴隷魔法も趣味としては寒いものかもしれないが、妄想であるうちは、この世に存在が許されない嗜好なんてない。
なぜ本当に作った?
うまくいかなかったのにどうして人を住まわせた?
それすら制御できなかったのか?
悲しいことに、この世界は生きている。フィクションではない。適当に作った建物なんて機能しないし、魔物も生き物なのだから理想通りには動かない。不思議と軽く持てる剣はそれでも重く硬く、柄の皮には汗と血の匂いが染み付いている。便所はいつも不便で寒い。鳥が少ないせいか虫とネズミばかりが繁殖する。農地の肥やしや魚の生臭さ、奴隷たちの不潔な体臭……匂いは生命の隣人だ。肉は時間が動く限り代謝を止めず、剥がれ落ちた死の香りはいつだってまだ生きている生活に絡みつく。
だからこそ、時折爽やかに吹き抜ける風や、詩やメロディが運んでくる幻想が心地よいのだ。
きっと命は美しい。
だがこの世界を作った人間は心底気持ち悪い。
誰がこんな世界を作った?
誰が奴隷魔法なんて考えた?
なぜ、新月機関なんて悽愴な集団が生まれなければならなかったのか。
言うまでもなく、テツジ自身も被害者の一人である。家族も友人も残してこの世界に誘拐されなければいけない道理なんてない。
テツジも、うららも……。
うららは農地からはやや離れた位置にある入り江にいた。視界が通りにくい危険地帯なので、基本は転生者である彼女が担当することになっているらしい。いずれは干拓地を作る候補地の一つである。
湾に注ぐ小さな川の向こうには切り株が並んでいて視界は通っているが、時間が時間なのでどうしたって暗い。
うららは小さなカンテラのような灯りの側、入江沿いに転がった大きな岩に腰掛けていた。身長大の弓を携えているが構えてはいない。話しかけやすい空気とは言いがたかった。
「うららちゃん!」
少し緊張したが、うっかり魔物と勘違いされないために、わざと大きな声で彼女を呼んだ。
案の定うららは飛び跳ねそうなくらいに驚いて、彼の方を振り返った。テツジはなだらかな傾斜を剣を引きずったまま下り、足早に彼女に近づく。小石が切っ先と絡みジャラジャラと音を鳴らした。彼女も慌てて立ち上がる。光晶にぼんやりと照らされたうららの顔は、暮れの闇の中、まるで浮かんでるように白飛びして見えた。反対側から見た自分の顔も同じだろうか、とテツジは考える。
2メートルより少し近づいて、立ち止まった。
「見学に来ました。いざというときは僕も戦えた方がいいから」
建て前をとりあえずはそのまま言う。
彼女はしばらく黙ったままだった。深く、何度か鼻で息を吸ってから、テツジの持つ剣に目を向ける。
「……凪さんが昔使ってた剣ですね」やっと小さな声が漏れた。
「らしいね」
「その剣で、凪さんはあいつを……」
そこまで言って、彼女は言葉を切る。
「ごめんなさい、この話はいいです」
うららはテツジがその時の話を知っていると思っていないのだろう。彼は黙って先を聞いた。
「……凪さんもテツジさんも、すごいですよね。なんで、こんな世界に来てすぐにそんな、人のために動けるのかな……」
「うららちゃんとは状況が違うよ」
普通に答えたつもりだったが、なぜか冷たい言葉だったかもしれないとテツジは感じた。
「……凪さんと僕は少なくとも成人だし、自由だった。中学生でひどい目に遭って、それなのに新月機関として今まで働いてきたことの方が、ずっと大変だよ」
「私なんか何もしてない」
口元だけ彼女は笑ってみせた。
「だって、この世界で生まれた人たちは、ずっと魔物だらけの世界で大変な思いをしてきたんだし……」
「それはちょっと違う」テツジは言う。「僕らは日本で生まれた。親や社会に守ってもらうと約束されて、複雑な社会を理解できるよう教育も受けた。そういう世界で今後も生きていくと思ってた。奪われることの方が、最初から何もなかったことよりも辛いと感じるのは自然じゃないかな。どう考えても、この世界で一番可哀想なのはうららちゃんだよ」
うららの目が彼を見つめた。潤んでいるようにも見えるが気のせいかもしれない。
天使がそこにいるように美しかった。
「多分、似たようなこと、クロエさんも言ってたんじゃない?」
テツジはそう続けた。
「……頭いいなぁ」
こぼれるように言葉が落ちた。
頭が良い。
高校生の頃、初めて付き合った相手に、それが嫌だとなじられて別れたことを彼は思い出す。
「ダメだな、私」またうららは俯いた。「こんなはずじゃなかったのに」
「どうしたの?」
「なんで私、まだ来たばっかのテツジさんになぐさめてもらってるのかなって」
「ネガティブだなあ」テツジは少し無理に笑ってみせた。「うららちゃんは滅茶苦茶立派だと僕は思うよ。それに、これを今言うのが正解なのかわからないけど、僕だって見かけほど平気じゃない。電子レンジと紅茶がないだけで世界がこんなに寒くなるとは思ってなかった。凪さんのメンタルが異常なだけだよ」
「……紅茶、好きなんですか?」
「だいすき」
くすっと、彼女の肩が揺れた。また強く息を吸い込んで、少し上目遣いにテツジを見据える。
「あの、さっきはごめんなさい。テツジさんの顔見たら、なんか、わかんないんですけど急に、元の世界のこと思い出しちゃって」
「……そうですか」
テツジは考えた。
今の言葉、本当か嘘か、考えるべきかを考えた。
そもそも辻小春花とはどういう人間なのか。
これまでうららが彼に見せてきた顔は、あくまでごく一般的な、中学生まででも現代日本で生きた経験がある人間ならほとんど誰もが演じられるありふれたペルソナでしかないとテツジは感じていた。意地の悪い言い方をすると、猫を被っている。
その裏には言うまでもなく闇がある。
(近道したいなあ……)
テツジはついついそう考えた。悪い癖だった。母親には何度も「てっちゃんはお父さんに似て面倒くさがり」と言われてきたが、完全に同意しかない。
恋愛は回り道が近道と母は笑っていた。
恋愛。
ついにその言葉が頭に浮かんでしまったかと、テツジは思った。魔物うごめくこの世界で、凪という殺人鬼に守られながら、その悪業を見て見ぬふりをし、挙げ句恋愛なんて意識してるお前は何者だと……そう考えるとまた変にシュールな気持ちになってきたので、彼は考えるのをやめた。
何もかもシュールなんかでは済ませられない。
なぜならこの世界は、死が、その吐息が耳にかかるほど近くに潜んでいるからだ。
それを瞬時に思い出させるくらい不気味な獣が、川向こうの切り株の中に佇んでいたことに気がついたとき、テツジとうららは同時に悲鳴を上げていた。




