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辻小春花。
彼女は端的に言えば、胸を切り落とされた性犯罪被害者である。男であるテツジから話しかけるのは相当重荷な相手ではあることは間違いないので、彼女の方からある程度距離を詰めてくれたことには下心抜きにホッとしていた。
視察ごっこを続けていたある日のことだった。黒ずんだ木材で組まれた船といかだの上に網奴隷の男が運び込まれていく様を、うららと二人で、少し遠くの丘の上から眺めていた。そこが比較的虫が少なかったのだ。奴隷たちが毎日踏み荒らすルート上なので草も生えていない。この孤島はよく強い風が吹くのだが、この時はこの一週間の中でも比較的穏やかな模様だった。
「あの人たちのああいう仕事は、去年から一気に増えました」うららは言う。「それまではずっと魔物と戦ってましたから」
先行して沿岸に出ていたボロ船からバシャンバシャンと白波が立っている。海に飛び込んだ男たちは海底で蟹を探して、そして凪に命令されるまま、生き餌として蟹に体を食いちぎられながら死ぬという。
「うららちゃんも、ずっと戦ってたんですよね?」
「昔は新月機関みんなで戦ってました」
「今は4人だけ?」
「ほとんど……そうです、はい。私たちが戦わないで済むようにするために、凪さんはどんどん呼び出す性犯罪者を増やしていって……こうなったって感じです」
ではなぜうららは戦い続けているのか。テツジはそれを聞こうかとも思ったがやめた。なんとなくだが察せられるところではあったからだ。
温い風が潮の香りを運んできた。空には風に千切られた雲が繋ぐ手もなく不規則に漂っている。
「今日はもうお昼にしましょうか」
テツジは言った。
「いつもお弁当運んできてくれて、ありがとう」
「どういたしましてです」
彼女の笑顔は今日の空のようにどこか半端でぎこちない。
「……今更なんだけど、うららちゃん」
「はい、なんでしょう?」
「うららちゃんって、日本のどこらへんに住んでたの?」
なんてことのない、人によっては全く無意味で煩わしい、社交辞令のような質問だっただろう。
しかし彼女がずっとそういうのを待っていたことは、陽が差すように切り替わった表情だけでもすぐにわかった。
*
「そっかぁー……もう完結してるのかあ。5年だもんなぁ……」
凪の屋敷の一室で、テーブルに顎を乗せたまま、うららが唸る。
「めっちゃ読みたいぃいいぃ」大きな目をぎゅっと細め、ドンドンと卓を叩く。「何巻まで続いてたとかわかります? 多分、私が読んだのって18巻くらいだった気がするんですけど」
「ごめん、そこまではわかんないかな」
テツジはアゴをかく。食事はとっくに終わっていた。
「うーん、5年前ってどれくらいだろう。流行ってた曲とか覚えてます?」
「あの、あの、ええと、素晴らしい世界に乾杯? みたいな曲わかります? 多分なんかのアニメの主題歌だったと思うんですけど」
「あー、そっか、そんな前か」
「やっぱ新曲いっぱい出てるんだ!?」ガバっと顔を上げる。
「そう……ね、メチャクチャ出てるね。アイドルのやつとかもまだだっけ?」
「なんすかそれちょー気になる!」
「はは……言わないほうが良かったかな?」
「え、ヤですもっと聞きたいです。何なら歌ってほしいです」
「勘弁してよ」苦笑いで首を振った。「僕が歌うんじゃ全然良さ伝わらないよ」
「うぅ」
「歌詞もそんな覚えてないし」
「ですよね……」
はーっと彼女は大きくため息をついて、また顔を突っ伏した。
「聞きたいなぁ……お母さんと友だちとライブ行く予定だったのになあ……」
「……辛かったね。きっと僕には想像もつかないくらい大変だったよね」
彼女はテツジの顔を見て何かを言おうとしたのだが、うまく言葉が紡げなかったのだろう、困ったように眉をひそめたまま腕枕の中に顔を埋めてしまった。それでも楽しそうなのは伝わってきたので、テツジは素直にホッとしていた。
うららが彼にこういう会話を期待していたこと自体はわかっていた。彼女にとってテツジは凪以来の、まともに会話ができる日本人なのである。思い出話でもなんでも元の世界のなにかが欲しいと感じるのはとても自然なことだ。
その想いを共有するには、凪という人間は異常すぎたのだろう。
お茶の最後の一口を飲み干しながら、テツジはうららの横顔の、陶器のように艷やかな輪郭を見つめていた。あまりにもキレイである。どうしようもないほどに美少女である。
多分、日本一可愛い女の子だと、テツジはそう思った。
ほとんど確信していた。
きっとそういう〝指定〟でこの世界に呼び出されたのだから。
(……クソが)
心が珍しくシンプルな悪態を吐いた。
(浅ましいにもほどがある)
知らぬ間に難しい表情をしていたのだろう。気がつけば、うららの目がテツジの顔色をうかがっていた。
「……どうしたんですか?」
「ごめんね」テツジは謝る。
「え、何がです?」
「こういう会話、なかなかできなくて」
真珠のような黒目が彼を見つめる。思考が追いつく前の、そういう隙のある表情が彼女はきっと一番愛らしい。
「あ、いやいや、違うんです!」
彼女は体を起こして首を振った。
「そんなのだって全然、立場が逆で……」
「立場が逆?」
「私のほうがずっと先にこの世界にいるんだから、ホントは私が色々気を回さないと……あ!」
「え?」
「ごめんなさい……気を使わせちゃって……」
「ああ、そんなつもりはなかった、ごめん。僕も楽しいし、こういう話ができるうららちゃんがいてホッとしてますよ」
「それは……よかったです」
うららは目を伏せた。
彼女はだいたい、こんな感じだった。経験してきたことが過酷だっただけに色々と複雑なパーソナリティが形成されているように思える。辛い目に耐えてきた分我慢強いし精神年齢も高いが、社交的な部分にはどことなく不慣れであどけない部分が見え隠れする。
そしてそういうわかりやすい特徴とは別に、彼女は時々、ひどく暗い表情で黙り込んでしまうことがあった。この時がまさにそうで、単純に黙っているだけのときとは明らかに顔色や雰囲気が変わってしまう。目も合わせず口をぎゅっと結んでいて、とても話しかけられたものではない。原因はテツジには測りかねたが、それはつまり吐き捨てたくなるほど暗い過去に起因するものかもしれないので、安易に立ち入るわけにもいかなかった。
うららにとって、テツジという男はどう映っているのか。
(ほんとにこの調子で敬語を抜いていって良いものか……)
沈黙に甘えて、後から考えればバカバカしすぎた悩みに耽っていた彼を異世界の現実に引き戻したのは、外から響いた、地鳴りのように恐ろしいナニカの叫び声だった。
テツジはすぐに立ち上がり、窓を見て、そして外へと確認に走った。気まずかったからとかでは本当になく、竜が現れてからまだ1週間、油断ができる状況では決してなかったからだ。
後ろからうららもついてくる。
外に出たテツジはまず空を見上げ、次に海を睨み、そして凪のいる『センター』の方へ視線を向けた。
裸の巨人が、天に向かって唸っていた。




