第9話 悪役令嬢、今度こそ自分のエンディングを選ぶ
王都から戻って数日、ヴァレンスタイン公爵領は、いつも通りに回っていた。
魔導街灯は落ちる事なく灯り、街路では子どもたちが教本を抱えて走り回り、孤児院の窓からは合唱の声が聞こえてくる。
どれも、私が前もって「バッドエンドを潰すため」に書き換えておいたシナリオ通りの光景だ。
だからこそ、妙に実感がない。
世界崩壊フラグは折った。
王都の断罪劇もやり直させた。
聖女も王太子も、宰相も教会も、誰一人として「処刑エンド」にせずに、再出発の位置まで送り出した。
前世の炎上レビューで叩かれたあの脚本を、ようやく「完成版」に差し替えたはずなのに。
「……終わった、はずなのだけれど」
ペン先が止まる。
机の上には、領地の今後の復興計画や、新たな教育制度の案が山のように積まれている。書類の隅で、うっすらと世界のパッチノートが揺れた。
《世界安定度:良好
瘴気発生率:規定値以下
重大なバグ:検出されていません》
優等生の通知表みたいなログ。
それを見て、安堵よりも空虚感が先に立つ自分に、私は少しだけ苦笑した。
「また、やってしまいましたわね……」
世界を直す。
物語をマシな方へ書き換える。
その作業に夢中になっている間は、怖くない。
締切も炎上も、目の前のバグも、すべて「処理すべきタスク」に変換されてくれるから。
けれどタスクを全部片づけてしまった瞬間、残るのは白紙だ。
真っさらな原稿用紙と、疲れ果てた作者だけ。
前世も今世も、結局そこは変わらないのかもしれない。
コンコン、と控えめなノック音が思考を遮った。
「リディ、入るぞ」
聞き慣れた低い声。
私が許可を出すより先に、扉は半分ほど開いて、鋼色の髪の男が顔をのぞかせた。
「今、少しよろしいか」
「アレクシス様。はい、ちょうど一区切りついたところですわ」
全く区切れていない書類の山を背に、私は貴族令嬢らしく微笑んでみせる。
従兄にして、この領地の次期当主。
前世の私が「攻略対象にしたかったのに実装できなかった推しキャラ」のモデルとなった男。
本人はその事実を知らないけれど。
「その表情でよくもまあ、区切りなどと」
「顔に出ていました?」
「パッチノートがぐるぐる流れている時の顔だ」
さらりと言われて、私は目を瞬いた。
「そんな顔、していましたかしら」
「していた。昔からな。難題を抱え込んで、まだ自分の睡眠時間を削るつもりの時の顔だ」
アレクシスはため息をつきながら、盆を机に置いた。湯気の立つ茶と、焼き菓子が数枚。
「まずはこれを飲め。王都から戻ってから、まともに休んでいないだろう」
「そんなことは……ありますけれど」
「素直に認めるな」
くすり、と笑いがこぼれる。
幼い頃からそうだ。私がどれだけ格好をつけても、彼の前ではすぐボロが出る。
カップを手に取り、一口。
ふわりと香ばしい香りが広がった。
「少し苦めですわね」
「お前は甘い物を取りすぎる。たまには苦いものも飲め」
「世界を甘くするために、せめて舌ぐらいは甘くしておきたいのですけれど」
そんな軽口を交わしながらも、胸の奥の空白は埋まらない。
アレクシスは黙って向かいの椅子に腰を下ろすと、しばらく私の顔を見つめていた。落ち着いた碧眼にじっくり見つめられると、さすがの私も視線をそらしたくなる。
「……なにか、ついておりまして?」
「いいや。ただ、世界を救った直後の顔にしては、あまりにも晴れやかじゃないと思っただけだ」
真正面から指摘されて、カップを持つ指先がぴくりと揺れた。
「世界を救ったなどと、そんな大げさな」
「事実だ。王も、教会も、騎士団もそう認めている。街の連中に至っては、さっそく『世界を書き換えた公爵令嬢』と噂しているらしいぞ」
「……なんだか、タイトルの字面が重いですわね」
前世で企画会議に出したら、プロデューサーに即却下されそうな長さだ。
「なのに当の本人は、まるで『締切明けの午前4時』みたいな顔をしている」
ぴたりと時間まで図星を刺されて、私は思わず吹き出した。
「その比喩は、さすがに分かりにくいと思いますの」
「つまり、限界を超えて働いて、そのくせ『まだやれる』と机にしがみついている作者の顔だということだ」
前世の私を知っているかのような言い方に、胸がちくりと痛んだ。
知らないはずなのに。
知らないはずなのに、この人はいつも、私の一番痛いところだけは綺麗に言い当ててしまう。
「……慣れてしまったのですわ。世界や物語のために動いている間だけ、自分のことを考えなくて済むから」
私がぽつりと言うと、アレクシスの視線がわずかに柔らかくなった。
「王都でもそうだった。断罪をやり直し、裁判で皆の落としどころを決め、世界崩壊フラグを折り……ずっと『舞台裏の仕事』に徹していた」
「それが、私の役目でしたから」
「そうだろうな。だが」
彼は一度言葉を切り、静かに続けた。
「そろそろ、舞台に上がってもいいんじゃないか」
「……舞台に?」
思わず聞き返すと、アレクシスは苦笑した。
「比喩を使って話す癖は、どうやら君から移ったらしい。つまりだ、リディ。世界を何度でも救ってくれて構わないが、そのたびに自分を幕の裏に置いておく必要はないということだ」
胸の奥で、何かがひゅうっと鳴った。
「わたくしは、悪役令嬢ですわよ?」
「知っている。原作者でもある」
「悪役と原作者が、舞台の真ん中で目立つなど……客受けが悪そうですわ」
「それを決めるのは観客だけじゃない」
アレクシスは身を乗り出し、そっと私の手からカップを外した。
「物語を書いてきたのは君だ。そして、この領地の人間は、君をもう『悪役』としては見ていない」
「それは、都合よく改稿した結果ですわ」
「改稿の結果で何が悪い」
きっぱりと言い切る声。
「前世の君は知らないが、今世の君は、何度も自分を削って他人のエンディングをマシにしてきた。その終わりに、君自身のエンディングが白紙のままなのは、納得がいかない」
ああ。
その言葉を、ずっと待っていた気がした。
だけど同時に、聞きたくなかった気もする。
白紙のエンディング。
前世で、私はそれを恐れて逃げた。
上司の指示や締切を言い訳にして、「本当は書きたかった話」を切り捨てた。
悪役令嬢を救わず、ヒーローを迷子のままにして、炎上レビューに晒された。
今世では、世界全体を改稿してようやく「それなりにマシな終幕」を作った。
けれどそこにも、私自身は含まれていない。
「……わたくしのエンディング、ですか」
「ああ」
アレクシスは真っ直ぐに私を見る。
「その中に、俺がいてもいいなら、喜んで一緒にいる」
静かな告白だった。
花束も指輪も、劇的な演出もない。
けれど、それはどんな大げさな台詞よりも、心臓に刺さる。
「アレクシス様は」
声が少し震えた。
私はそれをごまかすように、いつもの調子で皮肉を乗せる。
「ご自分が、どれほどずるい台詞をおっしゃっているか、自覚していらっしゃいます?」
「君ほどではないつもりだが」
くすっと笑って、それから彼は立ち上がった。
私の机の前まで歩み寄り、片膝をつく。
見慣れた顔が、見慣れない高さにある。
「王都で、一部の貴族が君を王妃に推そうとしていたのは知っているな」
「ええ。耳には入っておりますわ。随分とややこしいルートへの分岐条件を用意してくださると、内心頭を抱えておりました」
「その話は、既に潰してきた」
思わず瞬きをした。
「潰して、いらしたのですか?」
「ああ。王にも、公爵にも、こう伝えた。リディアには、彼女自身が選ぶエンディングがふさわしい。政治的な都合で押しつけるのではなく、本人が『はい』と言った先に立つ相手でなければ意味がないと」
さらりと言う内容ではない気がするのだけれど。
「もちろん、そう言った以上、その『相手』に名乗りを上げないわけにはいかない」
アレクシスは胸元から、小さなケースを取り出した。
パチンと開かれた中には、聖銀鉱を細工した指輪が収まっている。
淡い銀色の光が、執務室の灯りを反射してきらめいた。
「聖銀鉱の一番良質な塊を、こっそり取っておいた。世界法則と王権をつなぐ王冠の素材と同じ石だそうだ」
「それを、こんなところで使ってしまってよろしいのですか」
「世界の法則より、君と俺の契約の方が大事だ」
口数の少ない男が、こんな時だけよくもまあ、とんでもない台詞を重ねてくる。
「リディア・ヴァレンスタイン」
あらたまった声音で名を呼ばれ、私は背筋を伸ばした。
「世界を何度救っても構わない。物語を何本でも書き直せばいい。その傍らに、俺を立たせてくれないか」
王都の大広間で、王太子から婚約破棄を宣告された時。
私は涼しい顔で、軽口すら叩いてみせた。
けれど今、目の前の男から差し出されたのは、私が前世からずっと欲しかった台詞だ。
締切も、上の意向も、炎上も関係ない。
売上だのアンケートだの、どんな数字にも換算されない、たった一人の人間としての告白。
だからこそ、怖い。
「……アレクシス様」
私はそっと、自分の胸に手を当てた。
鼓動が、少し速い。
前世の記憶の中にいる私は、モニターの前でひとり、没になったルート案を眺めていた。
本当は書きたかったけれど、尺がない。売れ線ではない。
そうやって何度も諦めた、「地味で真面目で、けれど誰よりも頼りになる従兄ルート」。
「あなたは、前世の私が、一番書きたかったのに、書けなかったルートの主役ですのよ」
思わず口からこぼれた本音に、アレクシスが目を瞬いた。
「……そうか」
「はい。予算も尺も足りなくて、真っ先に削られました」
「それは、なかなか根に持っていい話だな」
「ええ。本当に。だから」
私はゆっくりと立ち上がり、彼と同じ高さまでしゃがみ込む。
驚いたように目を見開いたアレクシスの額に、そっと自分の額を寄せた。
「今世くらいは、締切も尺も気にせず、わたくしのわがままな恋物語を書いてみたいのです」
自分で言って、顔が熱くなった。
けれど、一度口にしてしまえば、案外怖くはなかった。
「その相手として、あなたが必要ですわ。アレクシス様」
彼の碧眼が、大きく揺れた。
次の瞬間、ぐっと強く抱き寄せられた。
「……なら、全力でそのわがままに付き合おう」
耳元で落とされた声が、少しだけ震えている。
この人にも、この人なりの恐れがあったのだと思うと、胸が温かくなった。
「ただし、一つ条件がありますわ」
「条件?」
「執務室での抱擁は、書類の山が崩れない程度にしていただけます?」
「それは……検討しよう」
くすくすと笑い合い、ようやく腕が緩む。
アレクシスは改めて私の左手を取り、聖銀の指輪を薬指にはめた。
ぴたりと、驚くほど自然に収まる。
《新規イベント発生:個人ルート確定
タイトル『公爵領共同運営恋愛ルート(仮)』》
視界の端を流れたパッチノートに、私は小さく吹き出した。
「何が見えた」
「いえ。世界の方でも、ちゃんと記録してくれたみたいですわ。私とアレクシス様の、新ルートを」
アレクシスは「そうか」とだけ答え、そっと私の指をなぞった。
「では、次は何をする。世界はひとまず安定している。君の言う『エンディング』の準備か?」
「ええ。まずは、公爵家と王家への正式な根回しと、領民への発表と、それから」
言いながら、私は机の上の白紙を一枚抜き取った。
ペンを握る手に、久しぶりに心地よい震えが走る。
恐怖ではなく、期待の震え。
「結婚式の台本ですわ」
「台本?」
「当然でしょう。ここまで来たら、最高に盛大なハッピーエンドにしなければなりませんもの。世界に、そして前世の私自身に、『ざまあ』と言えるくらいに」
前世で投げ出したシナリオたち。
締切に追われて諦めたエンディングたち。
炎上レビューに怯えて、狭めてしまった可能性たち。
全部まとめて、笑い飛ばせるようなエンディングを。
「今度こそ、わたくしのための物語を書きますわ。アレクシス様と一緒に」
「ああ。最後のページまで、隣にいる」
彼のその言葉を、私は胸の一番大事な場所にしまい込んだ。
窓の外では、ヴァレンスタインの夜空に星が瞬いている。
世界は安定している。
六つの誓約も、王冠も、聖女も、もうすぐ新しい形で回り始めるだろう。
その中心に、私たちのエンディングがある。
今度の物語は、締切なし。
売上も炎上も関係ない。
ただ、私と彼と、この世界の人たちが笑っていられる未来のための、わがままな恋物語だ。
ペン先が、真っ白な紙の上を滑り始める。
私の新しいエンディングは、ここから始まる。
ここまでお付き合いありがとうございます!ついに「削られた従兄ルート」が正式採用になりました。前世で没にされた恋が、今世でがっつり逆襲していく予定です。
とはいえ世界もまだ完全安定とはいかず、ハッピーエンド準備の裏で、こっそり新しい火種も転がっています。
「リディとアレクシスの今後が見たい」「続きが気になる」と感じていただけたら、評価やブックマークをぽちっとしていただけると、とんでもない励みになります。次話以降も全力でざまあな幸せを書いていきますので、見届けていただけたら嬉しいです!




