第10話 これは悪役令嬢と呼ばれた原作者が、自分の物語を書き直す話
断罪イベントのあの日から、だいたい数か月。
アルノルド王国王宮、大舞踏会場。
同じ場所、同じ赤い絨毯、同じ眩しいシャンデリア。
違うのは、今度の演目が「婚約破棄」ではなく、「婚約発表」であるという一点でした。
扉の前で一度深呼吸し、私は隣に立つアレクシスをちらりと見上げます。
「緊張していらして?」
「まさか。……と言いたいところだが、あの時と同じ会場だと知ってから少しだけ心拍数が上がっている」
「大丈夫ですわ。今回の台本は、前よりずっと出来がいいですもの」
私がほほ笑むと、アレクシスの口元も柔らかく緩んだ。
「なら、作者を信じるとしよう」
その一言で、胸の奥が少しだけ温かくなる。
そう、今度の脚本は私のもの。
締切も、炎上リプライも、上司の無茶な修正指示もない、完全版です。
扉がゆっくりと開かれ、光と音の海がなだれ込んできました。
先に聞こえてきたのは、楽団の澄んだ弦の音。
テンポもタイミングも、今日は完璧ですわ。
(あの日はBGMの入りが半拍早すぎましたのよね)
そんなプロ目線の愚痴をひとつ胸の中で転がしながら、私は赤い絨毯へと一歩踏み出した。
貴族たちの視線が一斉にこちらを向く。
ささやき声、ため息、拍手の波。
視界の端には、半透明の文字列が静かに流れていました。
Event ID:10-1 王宮大舞踏会・婚約発表イベント
改変権限:リディア・ヴァレンスタイン
監視権限:聖銀王冠・聖女ルナリア
(ええ、その通りですわ。今回は最初から、私のエンディングですもの)
王座の前まで進むと、国王陛下が立ち上がった。
「諸君。本日ここに、ヴァレンスタイン公爵家令嬢リディア・ヴァレンスタインと、その従兄にして次期当主アレクシス・ヴァレンスタインの婚約を、王家の名において認める」
高らかな声と同時に、大広間が拍手と歓声に包まれる。
どこかで汽笛のように鳴り響いていた不吉なフラグ音は、もう聞こえません。
陛下が笑みを浮かべてこちらを見た。
「リディア殿。……世界を守ってくれたこと、改めて礼を言う」
「身に余るお言葉ですわ、陛下。わたくしはただ、少しばかり台本を整えただけですもの」
そう応じると、国王は苦笑した。
「その『少しばかり』が、王としても父としても、頭の上がらぬ大仕事だったよ」
王妃殿下もまた、扇で口元を隠しながら目を潤ませている。
その横に並ぶのは、王太子セドリック。
以前よりもわずかに精悍になった横顔が、こちらを真っ直ぐに見つめていた。
◇
式次第が一段落し、披露のダンスが始まる前。
人の波が少しだけ緩んだところで、セドリックが静かに近づいてきた。
「リディア、少しだけ時間をもらってもいいだろうか」
「ええ、殿下。……いえ、今はセドリック様とお呼びした方がよろしいかしら?」
軽く頭を下げると、彼はどこか照れくさそうに笑った。
「どちらでも構わないよ。君の好きな方で」
大広間の片隅、柱の陰。
人目はあるが、言葉は届きにくい絶妙な位置。
ゲーム時代ならイベントCGが差し替わるスポットです。
しばしの沈黙のあと、彼は深く息を吸い込んだ。
「君を傷つけたこと、愚かだったこと……遅すぎるが、正式に謝らせてほしい」
青い瞳に宿った後悔の色は、前よりもずっと深い。
あの断罪イベントの時、彼は台詞をなぞっていただけ。
けれど、その結果として私の人生を大きく揺らしたのも事実でした。
「殿下」
「セドリックだ」
「では、セドリック様」
私はそっと首を振る。
「ヒーロー役だって、脚本が悪ければ迷子になりますわ。あの時の台本は、世界も、わたくしも、そしてあなたも、誰一人幸せにしない出来でしたもの」
「それを、書いたのは……」
「ええ。原作者としての責任は、きちんと受け止めていますわ」
前世の私が妥協した瞬間。
締切という化け物に追われて、心を削り落としたページ。
「だからこそ今世では、あなたに別のルートを用意しましたの。愚王ではなく、一人の人間として学び直すルートを」
セドリックは目を丸くし、それから小さく笑った。
「最近、地方での仕事が忙しくてね。毎日が学び直しの連続だよ。……それでも、この方がずっと健全だと分かった」
「それは何よりですわ」
「いつか胸を張って、もう一度ここに立ちたい。その時は、君の書いた台本に頼らず、自分の言葉で話せる王子になっていたい」
その決意は、以前の彼ならきっと口にできなかったものだ。
私は軽くスカートの裾をつまみ、礼を返した。
「その日を楽しみにしておりますわ。観客席から拝見させていただきます」
それで十分だとでも言うように、彼は晴れやかな笑みを浮かべ、再び人の波の中へ戻っていった。
◇
セドリックの背を見送っていると、今度は別方向から、ややぎこちない気配が近づいてきた。
振り向けば、薄いラベンダー色の髪に淡い水色の瞳。
「リディア様」
聖女ルナリア。
あの頃より少し痩せた頬に、代わりに穏やかな色が宿っている。
「ご婚約、おめでとうございます」
「ありがとうございますわ、ルナリア様」
軽く会釈を交わす。
かつてこの会場で、彼女は涙ながらに私を告発した。
今、その瞳には、あの時のような刺々しさはない。
「……似合ってます」
「え?」
「アレクシス様と並んでいるリディア様。すごく、似合ってます」
不意打ちのような言葉に、思わず瞬きをする。
「あら。てっきり『推しはセドリック殿下一択』と主張なさると思っていましたのに」
「今でも大好きですよ? わたしの人生を救ってくれた物語の、看板ヒーローでしたから」
そう言って、ルナリアは肩をすくめて笑った。
「でも、こっちのルートを見たら、もう元のルートには戻れません。プレイヤー的にも」
「それは光栄ですわ。原作者冥利に尽きます」
少しだけ笑い合い、ふと視線が交わる。
その一瞬に、前世の炎上ログと、あのブラックボックス空間でぶつけ合った本音が、全部よぎった。
「ねえ、リディア様」
「何かしら」
「もし、次にゲームを作るなら……どんなエンディングがいいです?」
前世では、ユーザーから飛んできた殺意高めの問いかけ。
今世では、少し照れたような、けれど純粋な好奇心を含んだ声。
「今度は、悪役令嬢もヒロインも、ちゃんと幸せになれるルートがいいです。推しもサブキャラも、できるだけ全員」
ルナリアは両手を胸の前で組みながら、夢見るように言った。
「ライター泣かせにも程がありますわ、その要望」
「ですよね」
2人でくすりと笑う。
「でも、挑戦する価値はありそうですわ。少なくとも、前世の私が投げ出したシナリオよりは、ずっと面白そう」
「じゃあ、その時は……また、読者席から叫びますね」
「ほどほどのボリュームでお願いできます?」
「う……善処します」
苦い思い出と一緒に、どこか愛おしい温度が胸に溜まっていく。
「ルナリア様は、これからどうなさるの?」
「各地を回る予定です。わたしが改変して壊しちゃった場所、まだいっぱいありますから。聖女として、ちゃんと手作業で直していかないと」
それは、ゲームで言うところの「地味で長い周回プレイ」だ。
派手な必殺技も、ド派手なイベントもないかもしれない。
「大変な作業ですわよ」
「ええ。でも……今度は、ちゃんと人の顔を見ながらやります。数値とかパラメータじゃなくて、その人自身の話を聞いて」
世界の端っこで、誰かが静かに泣いているかもしれない。
その涙を、数値の上下ではなく、指先の温度で感じ取ろうとする聖女。
「作者って、思ってたより面倒で、思ってたより優しいんだなって、この世界に来てから少し分かりました」
「それは褒め言葉として受け取ってよろしいのかしら」
「たぶん、すごく褒めてます」
ルナリアはそう言って、今度こそ心からの笑顔を見せた。
「だから、わたしも“読者のわがまま”だけじゃなくて、“物語を一緒に作る側”としてやっていけたらいいなって」
「歓迎しますわ。作者とガチ勢が手を取り合う世界なんて、前世の私が聞いたら腰を抜かすかもしれませんけれど」
互いに軽く会釈して別れるとき、私の視界に小さなログが浮かぶ。
聖女ルート:新役割『癒し手』に再設定
読者権限:共同制作モードへ移行
(ふふ。ようやく、世界の方も空気を読みましたわね)
◇
その後は、怒涛のような挨拶ラッシュだった。
宰相ヘルマンは「今後とも現実的な助言役としてお役に立てれば」と、相変わらず腹の読みにくい笑みを浮かべて頭を下げる。
大司教イザークは、以前より一段階控えめな声量で「教会としても、世界の安定に尽力する所存です」と述べた。
どちらも、心の底から改心したとは言い難い。
けれど、少なくとも「誰か一人に全部押し付けて終わらせる」台本からは、外れてくれたようだ。
ログにも、そんなニュアンスが滲んでいる。
宰相ルート:悪役固定フラグ解除
教会ルート:組織改革イベント継続中
完璧なハッピーエンドなど、きっとどこにも存在しない。
それでも前よりは、ずっとマシなエンドロールに近づいているはず。
◇
ダンスの時間になり、アレクシスが私の前に差し出した手を取る。
1曲目は、婚約者同士の披露のダンス。
かつて断罪宣言が響いた場所の、まさに真ん中。
「リディ。歩きにくくないか」
「大丈夫ですわ。何度も夢想したシーンですもの。振り付けは完璧に覚えております」
軽口を交わしながら、私たちはゆっくりと円を描く。
弦と管の音が重なり、シャンデリアの光が揺れ、ドレスの裾がふわりと舞う。
あの日、赤い絨毯の上で背中に浴びたのは、軽蔑と好奇の視線だった。
今、同じ場所で浴びているのは、祝福と期待。
(演出と照明、それから脚本。全部揃えば、ここまで景色は変わるのですわね)
胸の奥でそんな感想をこっそりメモしていると、アレクシスが小声で尋ねてきた。
「さっきから、視線が遠い」
「職業病ですわ。つい、カメラ位置とカット割りを考えてしまって」
「今は、ここに集中してくれ。せっかくのエンディングシーンだ」
「そうですわね」
私は彼の手に指を絡め、意識を彼一点に絞る。
世界も誓約もバグも、いったん舞台袖。
スポットライトの下にあるのは、ただこの人と私だけ。
(これは、悪役令嬢と呼ばれた一人の原作者が)
(自分を蔑ろにしてきた過去と世界に、ささやかなざまあを返して)
(たった一人の人と、自分のためのエンディングを書き直した物語ですわ)
心の中で、そっとナレーションを入れる。
これでもう、十分。
◇
パーティがひと段落した夜。
王宮の客間のバルコニーから見下ろす王都の灯りは、前よりも少しだけ明るく見えた。
アレクシスが隣でグラスを傾ける。
「疲れていないか」
「少々。けれど、嬉しい疲れですわ。前世の修羅場進行に比べれば、八割方休暇みたいなものです」
「それは安心していいのか分からない比喩だな」
苦笑し合い、しばし無言で夜風を浴びる。
遠くで楽団の余韻のような音が聞こえた。
「リディ」
「はい」
「これから先の台本は、もう決まっているのか」
その問いに、私は手すりに置いた指先を軽くとんとんと叩いた。
「大まかな骨組みだけですわ。ヴァレンスタイン領のさらなる改革と、六つの誓約の運用改善と、聖女様の現場レポートをまとめた白書と、王太子殿下の地方修行記録と」
「詰め込み過ぎだ」
「そこに、わたくしとアレクシス様の個人ルートが並走しますの。公爵領共同運営恋愛ルート、というタイトルで」
冗談めかして言うと、彼は少しだけ目を細めた。
「悪くないタイトルだ」
「でして?」
「ただ、ひとつだけ条件がある」
「条件?」
「その物語の著者欄には、君の名前だけでなく、俺の名前も小さく載せておいてほしい」
彼の碧眼が、真剣に私を映す。
「世界を何度救ってもいい。物語をいくつ書き直してもいい。その全部の傍らに、共同作者として立たせてほしい」
ああ。
王太子から婚約破棄を宣告されたあの日、私は涼しい顔で笑えた。
けれど、本当はずっと、こういう言葉を誰かに言ってほしかったのだと思う。
「もちろんですわ。クレジットにはしっかりと記しておきます」
「それは光栄だ」
グラスを置き、私は両手で彼の手を包み込んだ。
「今度こそ、わたくしのための物語を書きますわ。アレクシス様と一緒に」
「ああ。最後のページまで、隣にいる」
その約束を胸のいちばん大事な場所にしまい込み、私は夜空を見上げる。
星々の輝きの向こうで、ログが静かに更新されていた。
世界状態:安定
六つの誓約:新運用版へ移行中
メインストーリー:完結
新規ルート:公爵領共同運営恋愛ルート 進行度0%
「ふふ。ここからは、締切なしの長編ですわね」
ペン先ならぬ、私の人生そのものが、真っ白な紙の上を滑り始める。
これは、悪役令嬢と呼ばれた原作者が、自分の物語を書き直す話。
そして、ここから先は、ハッピーエンドの、そのまた先。
私と彼と、この世界の人たちが笑っていられる未来のための、わがままな恋物語ですわ。
ここまで『婚約破棄された悪役令嬢は炎上シナリオライター ~原作者チートで聖女MODを修正しつつ辺境内政無双して王太子&教会にざまぁされ従兄公爵に溺愛されます~』にお付き合いいただき、本当にありがとうございました! ブクマや評価でそっと支えてくださった方も、完結のタイミングで一気読みしてくださった方も、ひとりひとりの「読んだ」が、この悪役原作者令嬢の物語を最後まで走らせてくれました。画面の向こうでページをめくってくださったあなたに、心からお礼を伝えさせてください。
もしこの「悪役令嬢×原作者×メタ視点」な感じを楽しんでいただけたなら、完結済みの異世界ラブコメ『婚約破棄された悪役令嬢ですが、敵国で最愛王子に溺愛されているうちに、元婚約者の国ごと救う羽目になりました~「二度と顔を見せるな」と言ったのはそちらでしょう? 今さら助けを乞われても困ります~』もおすすめです。同じく「物語の外側から世界をいじる」系で、今回とはまた別ベクトルのざまぁ&甘さ多めになっています。
完結作品にとって、評価とブックマーク、そして感想は「次の物語への燃料」です。★ひとつ、ブクマひとつ、短い一言感想でも、作者にとってはとんでもなく大きなご褒美になります。「ここが好きだった」「このキャラ推せる」など、ざっくりしたものでも大歓迎です。もし少しでも面白い・続きが気になると思っていただけたなら、ぜひ評価・ブクマ・感想で、この物語のエンディングに花束を投げてやってください。それでは、また次の物語でお会いできますように。




