第1話 断罪イベントなのに、台本と違いますわ?
楽団の音が、途中でぷつりと切れました。
大広間を満たしていたワルツが止まり、絹の裾の擦れる音と、人々の息をのむ気配だけが残ります。
魔導灯の光がきらきらと反射する舞踏会場の中央で、金の髪の王太子殿下が、こちらをまっすぐに見据えていました。
「リディア・ヴァレンスタイン」
よく通る声。音響は良好。ですが──。
私は、扇をゆるく口元に当てながら、内心で首を傾げました。
今の呼びかけ、半拍早いですわね。
本来なら、楽団が音を落としてから、心地よい沈黙が数秒。そこで王太子が一歩前に出て、皆の視線を集めてから名前を呼ぶ。
そうすると、観客の感情の準備も整って、断罪台詞が一番映えるのですけれど。
「きみとの婚約を、ここに破棄する」
ああ、来ましたわ。お決まりの婚約破棄宣言。
大広間の空気が、一気にざわめきで満たされます。
ささやき声、押し殺した悲鳴。視線が一斉に、私と王太子殿下のあいだを行き来しました。
……ですが。
違う。
台詞が、微妙に違います。
本来なら、ここはもっと芝居がかった言い回しのはず。
例えば、国家だの、名誉だの、長々しい前置きがあってからの
「よって、きみとの婚約を破棄する」
そういう流れで、王子の愚かさと聖女の正しさを強調する構成でしたのに。
今のは、あまりにもあっさり。
悪く言えば、雑。
良く言えば……いえ、褒めるところはありませんわね。
王太子殿下、セドリック・アルノルド。
このアルノルド王国の次期国王と目されるお方。
青い瞳には決意らしき光が宿っておりますが、その奥に、どこか迷いも見えました。
台本のない舞台に放り出された役者の顔です。
「せ、セドリック殿下……本当に、あの噂は……」
「やはり、ヴァレンスタイン嬢は」
「聖女様をいじめるなんて……」
周囲の令嬢たちが、口々に私を責める声を上げ始めます。
待ってくださいな。段取りが早すぎますわ。
本来なら、ここで一旦、音楽が静かに再開し、その上から聖女様の震える声が響くのです。
「わたし……リディア様に、ひどいことをされました」
そう、ちょうど今のように。
白銀がかったラベンダー色の髪を揺らして、聖女ルナリア・シュタインが、私と殿下のあいだに一歩差し出ました。
涙に濡れた水色の瞳。
細い指が、私の方をかすかに指し示します。
「リディア様は、わたしに冷たい言葉を……。皆さまの前でも、陰でも。お祈りをさぼっていると決めつけられて……。それに……」
言葉を詰まらせ、ルナリアは肩を震わせます。
やれやれ。
演技としては、合格点ですわ。
ただ、やはり。
過剰演出です。
この場は、もっと抑えた告発で充分でしたのに。
彼女は、自分の涙の価値を、分かっていない。
泣きすぎれば、視聴者──いえ、周囲の評価は鈍っていくものです。
「ルナリア……なんて、かわいそうに。リディア、きみは彼女を妬み、繰り返し侮辱していたと聞く」
セドリックが、苦悩を滲ませた顔で私を見下ろしました。
あら。そこは、本来なら少し間を置いてからの台詞でしたのに。
やはり、どこか全体のテンポが早い。
楽団も、沈黙の取り方を間違えている。
指揮者はどなたですの。あとでお名前を控えておきませんと。
私は、胸の前で組んでいた手をほどき、ゆっくりと裾をたくし上げました。
貴族令嬢としての完璧な礼を、まずは形どおりに。
「セドリック殿下」
私は顔を上げ、にっこりと微笑みました。
私の瞳は、赤く。殿下の瞳は、澄んだ青。
色の対比としては悪くありません。
ただ、それを活かすだけの演出が、今の舞台には欠けているだけ。
「婚約破棄を宣言なさるおつもりでしたら、その理由を、この場の皆さまにも分かるよう、簡潔にお示しくださいませ」
ざわ、と人垣が揺れます。
泣き崩れる悪役令嬢を期待していた方々には、少々、拍子抜けかもしれません。
ですが、これでも私は忙しいのです。
茶番に付き合っている暇はありませんわ。
「……きみは、聖女ルナリアに対し、度重なる嫌がらせを行った。祈りの場で彼女の衣を汚し、彼女の言葉を嘲り、王太子妃としてふさわしくない態度を取り続けた。王家は、そのような者を将来の王妃としては迎えられない」
ほう。
羅列としては悪くありませんが、証拠の提示が弱いですわね。
これでは、読者が納得しません。
……いえ、ここは私の前世の職業病でしょう。
つい、場面構成を点数で採点してしまう。
そのとき。
視界の端を、薄い光の帯が走りました。
ふとした瞬間にだけ見える、半透明の文字列。
この世界に転生してから、何度も見てきた、不愉快なログ。
Event ID: 1-1 王宮大舞踏会・断罪イベント
台詞改変 発生タイミング改ざん
改変権限:不明
……やはり。
私は、扇の下で小さく息を吐きました。
誰かが、このシーンを書き換えている。
私の知る台本を、勝手に上書きして。
「リディア様。なにか言い訳はありますか」
ルナリアが、涙で濡れたまつげを震わせながら言いました。
その顔は可憐で、まさしく聖女。
この国の民がひれ伏すのも、理解はできます。
けれど。
あなた、その立ち位置だと、カメラに背を向けてしまっておりますわよ。
私は、心の中でだけ小さくため息をつきました。
「言い訳、ですか」
「そうです。あなたは、わたしをいじめていないと、言い切れるのですか」
ざわめきが一段と大きくなる。
楽団は、未だに音を再開できずにいる様子。
指揮者の方、汗だくでしょうね。
さあ、どうしましょう。
ここで膝を折り、震えながら許しを乞えば、予定どおりに私は悪役令嬢として転落する。
王太子から見捨てられ、国外追放。
その先に待っているのは──。
……いいえ。
そこから先のルートは、とっくの昔に書き換えてあります。
私が、自分で、この手で。
「いいえ」
私ははっきりと首を振りました。
大広間のざわめきが、今度こそ完全に止まりました。
「わたくしは聖女ルナリア様をいじめてはおりません。少なくとも、殿下が列挙なさったような派手な嫌がらせをした覚えはございませんわ」
セドリックの顔が強ばり、ルナリアの瞳がさらに潤みます。
観客席の貴族たちは、息をひそめて成り行きを見守っている。
「しかし、ルナリアはこうして証言している。彼女が嘘をつくとでも」
「殿下。聖女様は人であり、わたくしもまた人です。人の記憶は、いくらでも書き換わりますわ。自分に都合の良いように」
「リディア!」
「ええ、もちろん。わたくしの記憶だってそうです。ですから──」
私は、くすりと笑いました。
ここまで来れば、もう十分です。
この断罪イベントは、既に崩れている。
ならば、せめて利用させていただきましょう。
「婚約破棄は、喜んでお受けいたします」
私の声が、静まり返った大広間に、よく響きました。
聖女が息を呑み、王太子が目を見開く。
「……リディア、本気なのか」
「ええ。もともと、この婚約は、王家とヴァレンスタイン公爵家との政略の結果に過ぎませんもの。殿下がそれを不要だとおっしゃるのなら、わたくしが引き留める理由はございませんわ」
私の言葉に、貴族たちはざわつきました。
自分から婚約破棄を受け入れる悪役令嬢など、誰も想定していなかったのでしょう。
ただし、と私は続けます。
「ただし、一点だけ」
扇をぱちんと閉じ、私は笑みを深めました。
これが、このシーンのハイライト。
せめて、ここだけは、私の演出で締めさせていただきます。
「この場でのわたくしへの一方的な断罪が、どなたかの改変によって生じたものだとするならば」
「……改変?」
セドリックが眉をひそめ、ルナリアが小さく肩を震わせます。
私は一歩前に出て、すっとドレスの裾をさばきました。
「後日、原作者としての権利侵害については、きっちり請求させていただきますわ」
しん、とした沈黙。
楽団が、今度こそ完全に音を落とす。
聖女も、王太子も、宰相も、大司教も。
全員が、私を訳が分からないものを見る目で見つめていました。
原作者。
この世界の誰も知らない言葉。
けれど、私にとっては、あまりにも馴染んだ肩書き。
私は深く礼をして、顔を上げました。
「では、失礼いたしますわ。わたくしの役目は、もう終わりましたので」
そう言い残し、私は王太子の前から、静かに退場しました。
背を向けた瞬間、視界の端に、ふたたび光の帯が走ります。
Event ID: 1-1 王宮大舞踏会・断罪イベント
分岐フラグ生成 新規ルート開通
改変権限:聖女ルナリア
監視権限:リディア・ヴァレンスタイン
……やはり、そう来ましたのね。
長い赤い絨毯を歩きながら、私は小さく笑いました。
聖女。
かつて、私の書いた物語を、何度も何度も遊び尽くした誰か。
炎のようなレビューで、私の心を抉り続けた、画面の向こうの読者。
その人間が、今、この世界で、私のシナリオを書き換えようとしている。
ならば。
今度こそ、真正面から受けて立ちましょう。
原作者として。
悪役令嬢として。
そして、この世界に住む一人の人間として。
扉の向こうの廊下は、舞踏会場とは違ってひんやりと静かでした。
背後から聞こえるざわめきが、遠く霞んでいく。
私は振り返らずに、まっすぐ前だけを見据えました。
誰かが、私のシナリオを上書きしている。
ならば私は、その上から、すべてを書き直すだけですわ。
世界ごと、丸ごと。
今度こそ、誰も理不尽に切り捨てられない物語に。
そう心の中で宣言しながら、私は一歩、また一歩と、赤い絨毯を踏みしめて歩いていったのです。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!少しでも「おもしろい」「続きが気になる」と感じていただけましたら、ぜひ★評価やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。皆さまの一つ一つの反応が、リディアの書き換えられた世界をさらに加速させます。次回もぜひ、お付き合いください!




