国内研修
3月15日。若干の遅れを伴いながらも、国内研修が本格的に始動した。
「パイロット免許の試験は学科試験あります。アメリカで免許を取る場合、科目は工学、航空法規、航法、気象、AIM(エアーメン・インフォメーション・マニュアル)の5つです。私が工学と気象を、猪狩さんが航法とAIM、成塚さんが航空法規を担当します。テキストは忘れてませんね?」
遙香は会社の作業服を着ていて、前日にはなかった技術者らしさが前面に出ていた。
「せんせー」
「……なんでしょうか? 入鹿くん」
遙香は関係ない質問は許さないという強い口調で聞き返す。
「僕たちロサンゼルスで免許取るのに、どうして日本語のテキストもあるんですかー?」
「いい質問ですね。いいですか、アメリカでは五科目計約500問の学科試験問題全てが公開されてます。その中からコンピューターが選んだ60問が実際に出されて、7割正解で合格。つまり、問題を暗記すればまず受かります。というか、受かってもらいます」
遙香がこう言うのは当然だった。試験に受からなければ、その後のスケジュールについていけないことになる。
つまり、半年後の試験を待つまでもなくプロジェクトからの脱落が決定する。
「だから、それ以外の勉強が不要かといえば、そういうことではありません。実技試験での面接は別としても、あなたたちがエアレースのパイロットを目指す以上、工学や航法などの基礎を知っておくことも必要になるでしょう。そのため、問題を覚えるだけでなく、日本語で正確な知識も身につけて欲しい。……あとは、日本語のテキストもあった方が英語の苦手な人も理解しやすいだろう。という、成塚さんの配慮です」
「はーい、よく分かりました」
「よろしい。あと、英語は勲子さんが教えてくれます。あの人ペラペラなんで。じゃあ、他に質問がなければ、早速この時間から工学の勉強に取り掛かります」
こうして、長い勉強生活が幕を開ける。
1教科50分を1日6コマ。
講義は実際に出題される英語の問題を解き、和訳と一緒に正解を確認、解説をして細かい知識を埋めるというのが流れになっていた。問題は関連の高いものがセットにされていて、同じ時間に習うことで、理解をしやすいように勲子たちの手で工夫されていた。
試験勉強には、苦手意識が付き纏うものの、颯は講義を思いの外楽しむことができた。
当然だが、全ての勉強が今後、自分が目指すパイロットの世界では必須となる知識なので、モチベーションが維持できる。
基礎の基礎である航空機の飛ぶ仕組み、機体の構造に関する知識から、実戦的な計器の見方や飛行中のトラブルに対する対処方まで、颯は試験の範囲外の知識まで貪欲に吸収していった。
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国内研修では勉強だけでなく、基礎体力造りメニューも行われる。
それはパイロットに必要なフィジカルを養うためというよりは、1年間でレースを行うという無茶を可能にしている過密スケジュールについていくための訓練であった。
まず、早朝に工場の敷地内を計5キロ走り、その後柔軟体操を行う。
最初はそれだけで済んだメニューも、慣れるに従って午後の筋トレまで加わっていく。
そのため最初は様々な服を着ていた面々も、いちいち着替える手間を考え、徐々にジャージや動きやすい服装でいるのが常になっていった。
「頑張れよー!」
工場の敷地内を走っていると、出勤してきた従業員から声を掛けられることもあった。
引き籠りがちな生活がたたり、付いていくのやっとの状態の颯には、その声援に応える余裕はなかった。
勉強も順調ではあったものの、それでも貴広や弥勒には遅れをとっていた。
まず、貴広は大学で航空工学や気象学を学んでおり、更には任が教えることのないほど、航法についても完璧に頭に叩き込んでいた。密かに、以前から独学していた颯だが、貴広の正確な知識には到底及ばなかった。
また、弥勒は英語に関しては非の打ち所がなかった。読み書きは勿論、勲子と延々と英語だけで会話出来るほどコミュニケーション能力も高かった。気付けば、英語の時間、弥勒は勲子のアシスタントのような立場になっていた。
周囲との差は感じながらも、颯の5日目の総復習テストの結果は無事満点だった。
昼休みは工場敷地内にある休憩室で、勤務している社員たちに紛れて昼食をとった。
「――良かった。とりあえず、テストで躓くようなことはなさそうだ」
点数以上の差は見えないとはいえ、颯はほっと胸を撫で下ろした。
「私も最初は10日で足りるのかと思ったけど、大丈夫そう。『AIR ACE』の『ティーチングスクール』に書いてあったことばかりだから。割と復習に近いかも」
雪兎の言う通り、『AIR ACE』のゲーム内には試験にも必要な、フライトに関する知識が極一部だがのっている。颯も事前に一通り読んでいたため、何とか問題が英語になってもすんなりと対応することが出来た。
「進研ゼミの漫画みたいな会話、真面目にするなよ……」
入鹿は自前の弁当にコンビニで勝った辛口チキンを乗せながら、ウンザリしたように言う。
「こんな勉強、遊び感覚で免許取る奴だってパスするんだから出来て当然だろ。それより、ここでしか、手に入らないもっと有意義な情報があるだろ」
「うぅ……みんな、そんな簡単かな……」
一方、初奈は入鹿の発言を聞いて、本気で自分の今後を心配している。
「単位とか計算式とか意味わかんなくない? しかも、全部見たことないような英語だよ?」
「――ここでしか手に入らない情報ってなんだ?」
貴広が初奈の言葉を遮るようにして、入鹿に真剣な表情で聞く。
「ふん、聞いてくれたか……」
入鹿の得意げな表情を見て、颯はすぐにその情報が大して重要でないことを察した。
「保倉遙香。24歳、誕生日は4月18日。無類の機械好きが高じて藤咲重工に就職。休日の晴れた日は友達と単車でツーリング。雨の日は映画観賞(主にハリウッド大作)とテレビゲーム――」
「あ、もういいぞ」
貴広は途中で聞くのを止めて、食事を再開した。
颯は初日の移動のバスから、入鹿はやたら遙香に話し掛けていたことを思い出す。
「――『AIR ACE』もやっていたが、難易度の高さに断念。IDはハルカ。狐のアバターを使っていた。料理の腕は皆無。どうしても自分で作らなければいけないときは、冷食かインスタントラーメンで済ます」
「なんか、思ったより生活力無さそうだな……」
颯は知りたくない情報まで知ってしましまい、少しショックを受けた。
「俺も本人にそう言ったぜ。でも、考え方を変えればチャンスでもある――」
入鹿はそう言いながら、丁度食堂に来た遙香を見て立ち上がった。
「保倉さん、一緒にご飯食べない? お弁当作ってきたよー!」
「ちょっと、恥ずかしいから止めてよー! ていうか、本当にお弁当作ったの?」
遙香は他の社員から注目を受けて怒りながらも、入鹿の手に持った弁当袋を見て驚く。
「中身見る?」
「う、うん……。一応」
遙香は手に持ったコンビニ袋に入った味気ない焼きそばパンを見て、本能に抗えず頷いた。
「見るからには、食ってくれよ」
入鹿は2段の弁当箱を開いた。
1段目には白米と漬物。2段目には色とりどりのおかずがのっていた。レタスやトマトのサラダ、卵焼き、から揚げといった王道を揃え、狐の形をしたマッシュドポテトまで用意してあった。デザートに小さく切られた桃も入れてある。
「ちゃんと栄養は考えた。明日以降もリクエストがあったら聞くぜ」
「……すごい。ありがとう。嬉しい」
遙香は完全に負けを認めて、素直に喜んだ。
「おお、これは予想外だ」
「僕も隣で作ってるのを見て、意外と真剣で驚いたよ」
同室の弥勒は感心するが、入鹿はそれを聞いて苦笑いを浮かべた。
「いや、俺も最初はネタ弁当でいくつもりだったんだぜ。でも、先生ガチで体壊しそうな食生活してたからなあ……」
「……なんか、ごめんなさい」
遙香は顔を赤くして謝り、翌日以降は昼食をちゃんと取ることを約束した。
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一日の研修終了後は、寮に戻ると時折、初奈が部屋に遊びに来た。
「『AIR ACE』やらせてよー」
初奈は昼間の講義中よりも、寮に帰ってからの方が元気が良かった。
「テスト良く無かったんだろ。勉強しなくていいのか?」
「いいんだよ、もう1日中勉強したんだから。これは息抜き」
初奈はすぐさま起動すると、こちらに来てから作成した新アバターでプレイを始めた。
しかも、初奈はほとんどレースを行わずに、フレンドとの交流を楽しんでいた。
『毎日、訓練大変で困っちゃうよぉ』
『筋肉痛ヤヴァイ』
『頑張ってニーナちゃん』
『応援してるよ! 絶対優勝してね』
『ありがとう~~』
初奈は訓練の苦労話をして、一日のストレスを発散しているらしかった。
「初奈、そろそろ……」
「お、ウルフくん。1戦やる?」
「あ、ああ、やるけど。今日はそれで終わろうな」
颯と初奈は1日数回だが試合をすることになった。同室の貴広は初日の1件があって以来、自重して『AIR ACE』をプレイしていない。
「うぅ……また、負けた」
結果は颯が大抵勝つ。颯はランキングでも公式戦でもニーナに勝っていた。
「よし、もう1回。今日のラスト」
しかし、その集中力と成長スピード、センスを颯は脅威に感じることがあった。
「初奈って、どれくらい『AIR ACE』どれくらいプレイしてた?」
「うーん300時間くらいかな? 半分くらいはチャットとデザインに使ってたけど?」
颯は試しにそれを聞いて、予想を確信に変えた。そもそもが、上位ランカーで300時間というプレイ時間は長い方ではない。颯は1000時間を超えていたし、全国上位になるにはそれだけの練習が必要だった。
つまり、初奈はその半分以下の時間で、颯たち上位ランカーと渡り合っていることだった。
このセンスと潜在力こそが、初奈が他の能力が優れている人間を差し置いてでも選ばれた理由なのだろうと、颯はその日に思った。
夜の空いた時間を、颯は座学の予習と復習に充てた。
疲れもあり、本当ならば早く寝たかったが、体力面や学力で周囲に負けているという事実が颯を焦らせた。
なにより、焦りの原因が同室にいるのが大きかった。
「マニュアル……もう読んでるんだな」
貴弘は二段ベッドの上段で、単発機免許の練習機である『セスナ』のマニュアルを読み始めていた。マニュアルの中身はもちろん英語である。
「せっかく、もらってるからな。お前だって気になって読んだだろ?」
「まあ、ちらっとは」
貴広は颯の答えを聞くまでもなく、マニュアル読みを再開した。手元にノートを持っているところを見ると、日本語に直しているのか、自分なりに内容をまとめているらしい。
「……遅れを取り戻そうって感じだな」
颯はその姿を見て、ふと今の自分自身を見ているような気分になった。
貴広は虚を突かれたのか、一瞬手を止めて颯の方を向いた。
「そうだな。矢浪なら分かるだろ。俺たちがどれだけ遅れているのか――」
「ああ、分かってるよ」
(――だから俺は、具体的に行動することを先延ばしにしてたんだ)
少し調べたことのある人間なら分かる話だ。日本でパイロット――それも曲芸飛行の選手になろうとしたとき、その前にはいくつもの壁が立ち塞がってくる。費用、土地、気候……。
海外の一流選手の多くは幼い頃から身近に空がある。
けれど、日本ではそうはいかない。
「俺はこの企画がなくても、卒業後に海外に行ってただろうし、免許くらいは問題なく取れただろう。でも、それだけだ。その後のヴィジョンが見えていた訳じゃない」
「海外に行った後……人脈か――」
「そうだ。いくつもの壁のうち、費用の問題、人脈の問題をこの企画は解決してくれた。無茶な企画と言われているが、この無茶を通してもまだ、俺たちは海外のエリートたちに比べて遅れているんだ」
貴広の口調には、遅れているという現状認識の裏にも、確かな自信が見えた。
その強気には虚勢ではなく、自分のやるべきことを全うしてきたという、自負があった。
「まあ、焦りすぎて目の前の勉強を疎かにするなよ」
颯は逸る気持ちを押し殺して、自分の目の前の課題に向き直った。
(そうだ。出遅れていたとしても、やることは変わらない。1つ1つやるべきことを片付けていくしかないんだ……)
深呼吸をして、今日の講義の復習を始める。
颯は航法に関する英語の文字列から、まだ触れたこともない空をイメージした。
日程が10日を過ぎると、問題を1通り学んだことで、勉強は次の段階に進んだ。
学科試験に向けた総復習と、海外研修に向けた英語の勉強が主体のスケジュールとなった。
颯は午後の自習の時間を利用して、練習機のマニュアルにも遂に手をつけた。
「颯君、英語得意なんだねー。やばい」
初奈は颯のノートを見て、表情を曇らせる。
「……まあね。昔はそんなに得意じゃなかったんだけど――」
実際、意外にも颯は弥勒に次いで英語が出来た。
最初は弥勒に圧倒されたこともあり、大学に通う貴弘や雪兎にも劣ると思っていた。
颯は称賛されて嬉しい反面、少しだけ後悔した。
最後は失敗したとはいえ、自己紹介の際、高校生、浪人生時代の地道な勉強を否定するようなことを言うべきではなかった。




