プロローグ
晴れた空は遠く、手を伸ばす先から遠ざかっていくようだった。
強い日差しを浴びて、瞬く間に視界は緑色に染まっていく。眩暈がして、視線を手元に戻した。僅かな土と汗に塗れた手の平を見つめると、呼吸の音を身近に感じて、不思議と力が戻ってきた。
「颯、危ないよ!」
下の川辺から響く少女の制止を無視して、颯と呼ばれた少年は苔の生えた岩に手を掛けた。
一つ一つが自分の体ほどの大きさがある岩を、全身を駆使して登る。
手を掛けた岩のすぐ近くを水が流れている。颯は指先でその冷たさを感じながら、濡れた手で更に先にある岩を力強く掴む。
だが、右足を上げた途端、残された左足の力があらぬ方向に逃げた。
「やっば――」
幸い足は数センチ滑っただけで止まった。
心臓の音が喉元辺りから聞こえるほど驚いたが、すぐに恐怖は消えた。
それから、かえって集中力は研ぎ澄まされる。
颯は静かに落ち着いて呼吸しながら、正確に残りいくつかの岩を登り終えた。
屈めていた上体を伸ばし、滝つぼに向けて突き出た岩の上に立つ。
「落ちたら死んじゃうよ!」
数メートル下の滝つぼを見つめていると、いつの間にか聞こえなくなっていた少女の声――莉緒の悲痛な訴えが耳に入った。
「大丈夫! 無理なことはしてないから!」
颯は莉緒を落ち着かせるためにそう大声で答えた。
嘘を言ったつもりはなかった。
経験と直感が、この程度の高さは飛べると言っている。
飛びたいと本能が願っている。
颯は何の根拠もなく、自分と運命を信じていた。
颯の言葉を聞くと、莉緒はただ黙って不安そうにこちらを見つめた。
「すぐ、そっちに行くから」
颯は呟くと同時に、数メートル先の水面へと足先から飛び込んだ。
浮遊感は一瞬だけだった。
体はあっという間に水面へとぶつかり、勢いのまま深くへと沈んでいく。
(なんだ、やっぱり、大したことないじゃないか――)
そう思った瞬間、足先に裂くような痛みが走った。
颯は水の中で絶叫して空気を吐き出した。
何が起きたかも理解できないまま、恐怖に支配されてもがきながら――自分ならきっと何があっても生きていけるという、絶対的な自信が崩れていく。
水面越しの空が遠ざかる。
足から流れた血が、透き通った水に混ざっているように錯覚する。
頭の中に残ったのは、恐怖と痛みだけだった。




