魔王を倒して帰還したけど家族はもういない ~仕方ないからフードデリバリー配達員やってます~
『人生は死ぬまでの暇つぶし』
誰が言ったか覚えちゃいないがそんな言葉がある。
高校を出たばかりで、将来のビジョンなんて一ミリもない。
大学?奨学金地獄に踏み込む勇気はなかったし、専門学校?そこまでの情熱もない。
何だったら今日をどう生きていくのかすら考えていない。
とりあえずバイトで繋いで、繋いで繋いで……家に金入れて、気が向いたら正社員でも――なんて、よくある「とりあえず」の連続で気楽に川をぷかぷか流れていく予定。
俺の名前は碧月鳴海。晴れて今日からフリーター生活をするピチピチの十八歳だ。
人手不足の波を受けて、すぐに決まった牛丼屋のバイト、その初日の朝。
制服じゃないけど、黒いシャツをパンツにインして、安いスニーカーでガタガタの歩道を踏む。
いいじゃないか。俺の人生はまずはこのガッタガタな道を均すことから始まるわけだ。
気楽に生きていこう。
昨晩から腹の底に居座る変な緊張と、それを誤魔化すための変なテンション。
財布に入った千円札二枚の頼りなさ。
電柱の影がやたら長い。蝉がどこかで鳴き喚いてやがる。
次の瞬間、世界が壊れた。
いや、これは比喩じゃなければ大げさでもなく、視界の端からガムテープを剥がすみたいに、薄膜がペリペリ剝がれて、白い光が侵食してきた。
耳鳴り。浮遊感。足裏の感触が無くなる。
俺は反射的にポケットの携帯を握りしめ――そこで意識が途切れた。
目を開けると、石の床。
天井は高く、彩色の消えかけた聖人画。
鼻の奥に乾いた香辛料の匂い。
見知らぬ老人がやたら豪華な杖を突いている。
俺の周りを囲むのは剣と鎧の兵士、絨毯、祈るように膝を折る人々。
「よくぞおいでくださいました、勇者様」
あ、これはあれだ。テンプレのやつ。
思わず苦笑いが漏れた。口からは情けない声しか出なかったけど。
まいったな~なんて、「俺にできることなんて大したことないですよ?」とかも言ってたな。
そこからの十年は、端的に言って地獄で、ところどころ天国だった。
鍛錬、遠征、怪物退治、鍛錬、遠征、怪物退治、鍛錬、遠征、怪物退治、鍛錬、遠征、怪物退治。
なるほど。この世界は3つの行動のルーティーンしか存在していないらしい。
魔術師の婆さんに叩き込まれた『魔力』を全身に通す呼吸法。
剣を振れば石柱が欠け、跳べば城壁を越える。
仲間ができて、笑って、泣いて、できた側からそいつらは死んだ。
もちろんそれ以外も死んだ。
なかでも忘れ難いのは、ドワーフの少女だ。日本で生きてたら一生お目にかかれないだろう。
種族の特性上、背が伸びないぶん目だけが強く燃えていて、鍛冶場で会うと火花をいつも纏っていた。
俺に初めてまともな剣を渡してくれたのも彼女だった。
ある夜、彼女は泣きそうな声で助けを求めた。
昨日、工房に魔物が出た、と。
心細いから今晩は一緒にいて欲しい、と。
連日の戦いで疲労が限界に達していた俺は、作戦会議だの明日の決戦だのを理由に、なだめて、その場を立ち去った。
続けて魔物が出てくるわけないなんて、なんの根拠もなく彼女に告げて。
後悔先に立たず……そんな言葉を思い出したのもその日だった。
馬鹿な話だ。
救える力を持っているのに、それを正しく振るわないならそれは宝の持ち腐れだ。
翌朝、彼女の工房は血と煤に塗れていた。
彼女は炉のそばで、作りかけの刃に手を伸ばしたまま冷たかった。
その日から俺の中に、苦い錆がこびりついた。
十年後──
魔王城の最上階、黒曜石散りばめた大理石の玉座で俺は魔王の喉を貫いた。
刃に濡らした黒い血が、そのまま剣を伝い、何かの呪いみたいに俺の皮膚に張り付いた。
背後で仲間が泣き、笑い、歓び合っていた。
崩れ落ちる城が遠雷のように唸り、耳朶に響いた。
凱旋した俺に「望みは?」と、あの老人――大司教は訊いた。
「帰る」
即答だった。
日本に戻ってやりたいことはないが、やり残した後悔は山ほどある。
俺の十八歳の朝は、まだ駅前の改札に忘れっぱなしなのだ。取りに行かないと。
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光の門をくぐった次の瞬間、俺は久々に懐かしい日差しの下に立っていた。
見慣れた駅前――のはずなのに、違和感だらけだ。
コンビニの看板は見たことのない色とデザインに変わっていて、昔からあった文房具屋はシャッターを下ろしたまま看板ごと外されている。
横を滑っていく車のデザインがどこか未来的で丸っこくなっていた。
街全体の匂いと色が記憶と食い違っている。
ポケットの携帯を開く。もちろん圏外。
時間も日付もわかりゃしない。
目の前のコンビニに飛び込み、日付と時間を聞く。
なるほど。
あの日から十年後──正確には十年と二ヶ月経っていた──が今だということがわかった。
コンビニでトイレを借り、鏡で自身の姿を確認してみる。
あの日と同じ服装で、顔は歳を取り、体つきは異世界で鍛えたままだ。
どうやら異世界と、現代日本の時間経過はリンクしているらしい。
家に帰ろうとして、鍵がないことに気づく──これは十年前鍵を実家に置いて出たんだな。
いや、仮にあったとしても無駄だった。
記憶を頼りに実家へ戻ると取り壊され、細長いマンションが突っ立っている。
言いたくなかったがこのときばかりは言わせて欲しい……やれやれ。
仕方なく管理人に事情を話してみたが、怪訝な顔をされて終わり。
当たり前だ。通報されかかってしまった。
ならばと自ら交番へ赴けば、身元不明者として扱われた。
免許も保険証もなく、唯一の身分証明は財布に入っていた保険証。
このまま警察を頼れば厄介なことに巻き込まれかねないと、異世界仕込みの逃げ足を披露して市役所へ行くことにした。
市役所では「失踪宣告」という言葉を初めて知った。
三年以上行方不明だと、法律上死亡扱いになるらしい。
俺は記録の上で死んでいたわけだ。
となるとこれはザ◯リクか?それともア◯イズか?
戸籍にある親の欄には死亡の印。
祖父母もすでに、法的にも肉体的にもこの世にいない。
親戚に連絡を回すまでもなく、記憶にある血縁者は誰も存命していなかった。
家裁で申立てをし、審尋に呼ばれ、弁護士と名乗る人が書類の山を揃えてくれた。
俺は汗の臭いが染みついたコインランドリーの椅子で、判決文の写しを折りたたみ、深い息を吐いた。
失踪宣告の取り消しが通り、戸籍は復活。
だが戻ってくるものは紙切れに書かれた『碧月鳴海』という名前だけだ。
職歴? ない。学歴? 高校卒業止まり。
履歴書に書けるのは空白だらけ。
空白の十年に「異世界勇者」と記すわけにもいかない。
ハローワークの端末に座り、求人票を眺める。
条件の欄には「実務経験」「資格」などの文字がずらり。俺の指先は無意識に剣、もしくは魔法の使い手を求める職を探したが、もちろんそんなものはなかった。
夜、マンガ喫茶。
薄いブースの仕切り、毛布、無料Wi-Fi。
薄いコーヒーを啜りながら調べまくって、他人のいびきに親近感を抱く頃にやっと見つけたのが「フードデリバリー」という働き方だった。
スマホのアプリで注文を受け、自転車で運び、報酬は歩合。
学歴も職歴も関係ない。必要なのは、足と肺と、壊れない心。
それなら俺にはある。十年分、命を賭して鍛えてきたからだ。
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まずは新たなスマホが必要だった。
キャリアショップの白すぎる照明に目を細めながら、店員に勧められるがまま契約書にサインをする。
「審査」「分割払い」……なるほど、もう俺は保護者のサインはいらないんだななどと考えながら、なんとか新品のスマホを手に入れた。
十年前の高校生だった頃の筆跡よりも、少し硬くなったサインを見て妙な感覚が胸をよぎった。
次は足だ。
中古のクロスバイクを街の自転車屋で購入する。
ギシギシ鳴るペダルに油を差し、チェーンを確認、ブレーキの効きを確かめ、満を持してアプリから登録。
背中に大きな保温バッグを背負い、ヘルメットをかぶった時点で、外見はもう立派な配達員だ。
初陣。
最初の配達は拍子抜けするほど簡単に終わり、二軒目では道を迷って少し遅延。
三軒目でようやく調子が掴めてきた頃、四軒目のピンは住宅街の奥まった戸建てだった。
インターホンを押すと、すぐに返事があった。
「はーい、いま開けます」
出てきたのは、制服姿の女子高生だった。
髪を二つに結び、爪にネイルはない。
家の奥から別の女の子の黄色い笑い声が聞こえ、内側からポテトチップの匂いが風に混じって流れてきた。
「今回の代金は――あ、決済はもう終わってますね。ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました!……いつも置き配なんですけど、今日は配達員さんにお礼言いたくて」
人懐っこい瞳がまっすぐ俺を射抜いてくる。どうにも苦手だ、若い子のこういう眼差しは。
「……仕事なんで気にしないでください」
「だよね。あ、私、茉莉花。よかったら名前教えて?」
アプリで表示されてるだろと思いながら答える。
「碧月です」
「へー、きれいな名前。じゃあ碧月さん、気をつけてね」
その笑顔に押し出されるように俺は踵を返した。
相手の思惑は知らないし興味もないが、他人とは距離を取っておくに限る。
それは十年間で痛いほど思い知ったことだ。
他人と仲良くしていいことなんてないんだから……。
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それから数日、俺は配達の仕事を続けていた。
朝は情報収集がてら本を読んでネットの海を漂い、昼から夜まで自転車を漕いで、深夜にマンガ喫茶の硬い椅子に沈み込む。
未だに住民票に登録できる住所は得られそうにない。
足は軽く、肺はまだ十年前の呼吸法を覚えている。
もはやアプリの地図は、すでに俺にとって戦場の地形図のようなものだ。
坂の角度、信号の癖、時間帯ごとの交通量。
これらを覚え込み、効率よく稼いでいく。
どうにもこの仕事は俺に向いているようだ。
そんなある夕方。
雨上がりで路面が黒く濡れている時間帯。
俺はコンビニ前で次の注文を待ちながら、サンドイッチを頬張っていた。
ふと、風の中に異質な音が混じった。
金属を擦るような甲高いノイズ。
同時に、鼻に覚えのある鉄の匂いが漂ってくる。
視線の先、細い路地を全力で駆け抜ける影。
抱えたバッグを落としそうになりながら走る少女――あれは……茉莉花だったか。
この短期間で二回もお目にかかった奇跡を喜ぶ暇もなく、その背後には、壁から壁へと爪を突き立てるようにして跳ねる黒い塊。四肢の関節が逆に折れ曲がり、背骨が蛇のようにうねっている。
……どう見ても、こっちの世界の生き物じゃない。
俺はそのまま自転車に乗り込み、その場を離れた。
見なかったふりをして大通りに抜ければ、俺は巻き込まれずに済む。
俺はもう勇者じゃない。ただの配達員だ。
だが――脳裏に、炉の赤と、あの小さな背中がよぎる。
助けを求める声を無視した夜。翌朝、冷たくなっていた少女の姿。
脚が勝手に動いた。
ペダルを踏み抜き、路地に突っ込む。
自動車並みの速度で黒い塊を抜き去り、茉莉花の前に滑り込む。
「伏せろ!」
自転車をそのまま放り投げ、素手で怪物に向かう。
肺の奥に息を溜め、十年間叩き込まれた呼吸を通す。全身に魔力が迸り、掌が熱を帯びる。
飛びかかってきた顎を右手で受け止めた。骨が軋むがこの程度なら問題ない。
力の流れを制し、怪物の体勢を崩す。
左肘を叩き込み、黒い鱗を割った。ぬめった体液が飛び散る。
「逃げろ!」と背後に叫ぶが、茉莉花は俺の背後で腰を抜かしたまま動けない。
怪物が再び跳ぶ。
俺はその場で踏ん張り、怪物の大きく開いた顎を受け止める。
そのまま正拳突きの要領で、握り込んだ拳を突き出すと怪物の口内にめり込み、牙が折れ喉を貫いた。
息を吐くと同時に拳を引き抜く。
魔力の奔流が怪物の頭蓋を暴れまわり、内側で炸裂した。
ドサリと倒れる音。
黒い体液がアスファルトに染み広がり、死体は溶け落とし、やがて水溜まりに流れていく。
俺は久々の戦闘に肩で息をしながら周囲を確認した。
幸い、人の気配はない。
監視カメラの位置をざっと確認し、残骸を近くの排水口に蹴り落とす。
「……助けてくれて、ありがとう」
震える声。振り返ると、茉莉花が今にも泣きそうな顔で必死に礼をしていた。
「いや。仕事の、ついでだ」
「ついでって、今の……何?」
「犬だ」
「犬……?」
「でかい、野犬だ。たぶん」
彼女は呆気に取られたあと、小さく笑った。
「そう……犬なんだね。ふふ……やっぱりおもしろい人」
余裕が戻ってきたのなら大丈夫だろう。
俺はバッグからタオルを取り出して差し出した。
「顔、汚れてるぞ。キレイなタオルとは言えないがとりあえず拭いておけ」
「ほんとうに今日はありがとうございました!……あの……改めてお礼をしたいから、連絡先教えてくれないかな?」
「いや、礼はだいじょ……」
「それじゃあ、あたしの気がすまないのっ!」
そう言われれば無下にもできず、彼女は無理やり俺のスマホを受け取って、メッセージアプリに自身の連絡先を登録した。
「また会いたい。ちゃんとお礼したいの。……すごく怖かったから、少し話したいのもあるし」
俺の胸に、またあの炉の赤が灯る。小さな手を掴めなかったあの夜が蘇る。
「……気が向いたら」
短くそう答え、俺はスマホを受け取った。
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茉莉花に連絡先を渡されたものの、俺は結局一度も送信ボタンを押さなかった。
あのときの「気が向いたら」という言葉は、ただの逃げ口上だとわかっている。
誰かと少しでも親密に関わることで、守れなかった過去が十年分の錆として噴出することを恐れていたのだ。
それでも糧は得なければならない。淡々と日々は過ぎていく。
ペダルを踏み、坂を登り、坂を下りる。
アプリの通知音に反応して、俺はまた街を駆け抜ける。
汗の滲むTシャツに風を受けながら、ただひたすらに配達を重ねていた。
そんなある日の昼下がり。
商店街を抜ける途中、向こうから見覚えのある制服姿が走ってくる。
「――あ、やっぱり! 碧月さん!」
思わず急ブレーキ。
慌てて自転車を止めた俺の前に、茉莉花がニコニコとして立っていた。
「この前はほんとにありがとう。でも碧月さん全然連絡くれないから……前助けてくれた辺りにいたらもしかしたらって思ってたんだ~」
「……仕事が忙しくてな」
「うそ。ぜったい忘れてただけでしょ」
年齢には不釣り合いな蠱惑的なその仕草に、思わず視線を逸らす。
人との距離を縮めるのがこんなにも簡単なやつは、正直苦手だ。
「でもね」
と茉莉花は言った。
「こうやってあたしと再会できたんだし、これからはちゃんとあたしと仲良くしてね!」
その言葉は、不思議と拒めなかった。
昔と同じ過ちを繰り返さないように、他人と親密な関係を築くのを恐れていた。
しかし、だからといって全てを拒絶することが、一体なんの贖罪になるのだろうか?
俺は十年の時を越えて、日本に帰ってきた。
これからの人生、何歳まで生きられるのか分からないが、誰とも関わらずに生きていくことは不可能だろう。
であるならば、悲劇が起きないよう、魔王に届いたその力をこちらでも他人のために使うことこそが贖罪になるんじゃないだろうか?
そんな俺の内心を知ってか知らずか、茉莉花は上目遣いでこちらを伺っている。
俺は小さく息を吐き、頷く。
「……わかった。気が向いたら、な」
それだけ言って、ペダルに足をかける。
ハンドルを切り、街の風に身を預ける。
いつか剥げるその時まで錆びついた心ごと、俺は前に進むしかない。
新しい生活はまだ始まったばかりだ。