だいじょうぶ
どうも作者です。重めの百合です。
夏。
五月蝿ほどに蝉が鳴いている。
夕立で濡れたアスファルトの匂いが、鼻腔を掠む。
風鈴の心地よく玲瓏な音が、夏を知らせる。
この狭っ苦しい小天地で、自転車を漕いで
少年少女が、日照の中甘ったるいラムネを飲み干すような
そんな、ありふれた夏。
それらが、毎年繰り返されているのを横目に
僕は恋におちた。
7月20日。
なんの変哲もない普通の住宅街。
陽炎がゆらめくほどに暑くて
手をパタパタと大袈裟なくらいに仰いでいた。
そこで不意に視界を奪われた。
曲がり角から飛び出した少女。
雪のように白い髪と肌、
そして秋のような橙色の瞳に僕の目は釘付けになった。
自分の顔が赤くなったのがわかる。
どうやら僕は一目惚れをしてしまったようだ。
そして同時に、あの子のことをもっと知りたいと思った。
同じ学校だったらいいのにな…。
そう考えて、よそ見していると
視界が揺らぎ、見えている景色が点滅した。
数秒遅れて地面が近づいていることに気づいて、反射神経によって咄嗟に手を前へ突き出す。
躓いてしまった。
膝を軽く擦りむいて、血が滲み始める。
ズキズキとした痛みがじんわりと走る。
どうやら僕は夏の暑さに負けて、立ちくらみでバランスを崩したみたいだ。
『…大丈夫?』
不意に声をかけられた。
吃驚びっくりして思わず一瞬身震いをする。
顔を見る。
その瞬間、自分の鼓動が速まるを感じる。
自分でもわかるほどに、心臓が鐘を鳴らした。
思わず顔を伏せる。
脈が打つ度に、息が苦しくなる。
指先まで鼓動が響く。
『……立てそう?』
優しい声が鼓膜を擽る。
目の前には、雪のように真っ白な手が差し伸べられている。
顔を上げると、雪のようなあの子がいた。
とても美しかった。
まるで彫刻のような、女神のように神々しくて、駒草のように美しかった。
正しく…高嶺の花と呼んでも差し支えないほどに
彼女はとても、透き通るほどに儚なく美しかった。
僕は思わず手を伸ばす。
自分の手が彼女の手に触れる。
その感触はまるでふわふわの綿菓子のようで、力を入れてしまえば消えてしまいそうな、やさしくも軽い熱を帯びていた。
彼女の手に体重を乗せないように、僕は慎重に立つ。
『膝…怪我けがしてるね…そこの公園まで歩けそう?』
彼女は僕の腕を、迷うことなく自らその細くしなやかな肩に乗せた。
思わず、この恋心がバレてしまうのが怖かった。
顔の熱が上がって、耳が赤くなっていくのを感じる。
その場で小躍りしたくなるほどに、心が速く高鳴っているのを感じる。
でも彼女からしたら、今はまだ僕は初対面のただの女の人だ。
落ち着かなければ、嫌われてしまうかもしれない。
気持ち悪がられるかもしれない。
だから、まずは友達になってからにしよう。
思いを巡めぐらせ、歩き気がつけば公園に来ていた。
なんてことない砂地ベースの小さな公園で、ブランコやすべり台、ジャングルジムや小さな木の囲いで区切くぎられた砂場があった。
ジャングルジムの隣にある水飲み場…の横に付いている手洗い用の蛇口で、汚れた傷口を洗う。
すぐ横にあの子がいる。
紅葉のような山吹色の目が、まっすぐ僕を心配そうに見つめている。
思わず顔を伏せる。
「……あ、ありがとう…」
と、小声で言う。
やはり緊張してしまう。
話しちゃった…。
どうしよう…!!
口から心臓が今にも飛び出そうだ。
『……あっ!思い出した…あなた、同じクラスの夏目ちゃん…でしょ!!』
そういって、彼女は無邪気に指を向ける。
同じクラス……??
確かに学校にいて欲しいとは願った。
しかし本当に同じクラスなのだろうか?
もしいたのなら、忘れるはずがないのだから。
だから僕は今までの記憶を搾り出すかのように、思い返してみる。
そういえば思い出した。
いや…思い出してしまったと言うのが正しい。
僕のクラスに1人、学校に来ない子ふがいた。
その子の机には、誰も来ないはずなのにいつも黒いシミが付いていた。
文字と認識したくないほどに、沢山の罵詈雑言が染み付いていた。
花瓶が置かれていて、萎れた白い百合の花が飾られていた。
机の中は腐った何かで荒らされていて、蛆虫が蠢いていた。
机を荒らして残飯を詰めて、黒いシミを増やして悪口を描いて、汚していく度にクラスの人達は居ないはずの持ち主を嘲笑うようにニヤケていた。
思わず吐き気を覚えるほどに、形容のしがたい気持ちの悪い笑みを浮かべていた。
厄介なことに、先生達も見て見ぬふりだった。
なんともまぁ、気持ちの悪い光景だ。
そんなクラスがまともなはず無く
机に座るべき、来ない相手を心配しているのは、きっと僕だけだった。
そっか…
この子が
この子がそうだったんだ…。
「…き、君は…も…もしかして高根さん…?」
その机には毎回書かれていた名前があった。
黒いシミも荒らされた机も花瓶も全て……彼女にあてられたもの………。
“高根麗”
それが机の持ち主の名前だった。
同い年のように見える背丈や容姿のうえ、近所で出会ったはずなのに道理で見たことないと思った。
この子は、不登校だ。
この子は………いじめられている。
今日、僕は助けられたんだ。
だから今度は
僕が
僕が助けよう。
他の誰かじゃだめなんだ。
僕だけが助けなくちゃ。
『あ、バレちゃった!?せいかーい、私は麗!!あなたは確か……夏目恋雪ちゃんでしょ!!……で、あってるよね??』
「う、うん……あってる……」
『やった、えっへへ~…実は、前々から夏目ちゃんと話してみたかったんだ~!ここで会うなんて、すごい偶然があったもんだね~!!』
「…そうだ、ね…?」
『友達になろ!!よろしくね、夏目ちゃん!!』
溌剌としていて、眩しいぐらいに底抜けに明るい性格。
でもその裏で、きっと悲しみが隠れていることを、僕は知っている。
僕が…僕がこの子の悩みを取り除かなくちゃいけない。
この子が幸せに生きていけるように。
「よ、よろしく…高根ちゃん…」
この高嶺の花が枯れないように。
僕がどうにかしなくちゃ。
そんな想いを抱えて、
僕はそのまま家に帰った。
_________
7月22日。
ラムネの様に、淡く甘酸っぱい気持ちを隠しながら、
僕は終業式を終えたあとの教室でボーッと景色を眺めていた。
『え~…今から一学期最後の帰りの会を始めま~す。皆さん席についてくださ~い。』
あと数十分で夏休みと考えると、少し心が弾んだ。
にしても、本当に、とても暑い。
午後四時頃の帰りの会。
先生の無機質でやる気の感じられない声が響き、眠気を誘さそう。
外は例年通り蝉がジジジとうるさい。
僕は軽く机に突っ伏して、机に乗せたリュックサックに顔を埋める。
生暖暖かい風が窓から入ってきて、頬を撫でる。
今日は特に熱射病になりそうなくらい蒸し暑く、校庭中に蝉の大合唱が反響している。
部活動がある人はもう教室をぬけており、窓から校庭で野球部やサッカー部が準備体操をしているのが見える。
寝ぼけ眼を擦りながら、僕はあの子の机に目を向ける。
今日も机は穢けがれていた。
昨日の放課後、意を決して雑巾で掃除して向日葵の花を生けていたのに…。
朝にはゴミ箱に黄色い影を見た。
花瓶に入った白い百合は枯れていて、消したはずの黒いシミは増え、異臭を放ち蝿が集っていた。
その机を見て、
クラスのお調子者である一人の男子が手を挙げて、ヘラヘラしながら先生に向かってこう言い放った。
『大葉せんせ~!高根はまだ生きてますか~?ww』
……
………殺意というもの。
それを、明確に感じたのは、この14度目の夏に感じた初めての経験だった。
僕は震える拳を机の下で抑えて、静かに見守る。
教室中が爆笑の渦に満ちる。
何かがふつふつと込上るのを感じる。
このクラスは腐っている。
『…高根さんは今日もお休みしていますよ。』
『ワンチャン死んでんじゃねぇの~???あいつ~ww』
『『『ぎゃははははは!!』』』
落ち着かなきゃだめだ。
だめ…そんなことしちゃ
そんなことをしたら、取り返しがつかなくなる。
落ち着け…
落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け………!!
落ち…
………
………………着
………………………
………え?
『恋雪ちゃん!!もう翔介くん謝ってるから!やめっ…やめて!!』
『やめっ……ごめっ……ひっぐ…………ごべんなざ…』
『きゃあああああ!!』
『うわっ!!何あれ!!夏目と高橋が喧嘩してるぞっ!!』
『血、血が出てっ…!!せ、先生!!』
『うぉやっば~動画撮ろ~!!』
………あれ
僕……何して……?
ドロリ…と何かが手を伝う感触で沈みかけた意識が覚める。
教室に響く悲鳴。
騒ざわつく教室。
生ぬるい風が頬を撫でる。
僕の目の前には、高根さんを虐めている主犯格が…
頭から血を流して、蹲くまって泣いている。
小鹿のように震ふるえていた。
僕はいつの間にか椅子を持ち上げていて
その手には椅子から垂れた血が滴っていた。
なぜかあまり重く感じない。
僕は…
…………抑えられなかった……
……………いや
そうだ………
……………守らなきゃ。
高根ちゃんが…学校へ来れるように
僕が……!
「僕は……高根ちゃんを……守らなきゃ、いけないんだ……!!」
…僕は、振りかぶっていた椅子を頭目掛けて、
思いっきり振り下ろした。
先生の制止する声や、教室中に響く怒声も悲鳴も…
今はすべて何も聞こえなくなった。
ピーッ…と耳障みみざわりな高い音だけが残響し
ドグシャッ…と、生々しい嫌な音がする。
イジメっ子は、いつの間にか床にうつ伏せで倒れて痙攣している。
倒れたところは小さな血溜りがてきている。
ぶくぶくと泡を吹いていて、
ビクッビクッ…と、陸に打ち上げられた魚のようにのたうち回っていた。
僕はそれに、感じたことの無い吐き気を覚えた。
少し赤黒く濡れた椅子が力なくガシャンと落ちる音と、蝉の声が静寂を切り裂くかように凪いだ。
すかさず複数人の先生たちが教室に押し入り
僕を羽交い締めにして教室から引きずり出した。
救急車と警察車両のサイレンが響く。
蝉が鳴いていた。
これが、
僕の初めての復讐だった。
『高橋さんのご両親もカンカンです…慰謝料請求は高くつきますでしょうし、最悪少年院に搬送される可能性もあります。』
『そんな…おいくら払わないと………ゲホッゲホッ……すみません弁護士さん……恋雪がそんなことするなんて夢にも思ってませんでしたので…少し取り乱していまして…』
『奥さん…落ち着いてください。少々お辛いと思いますが、今から大事な話をします。目撃者の証言などを照らし合わせると恋雪さんは少々パニック障害のようなものを発症したようで、それも踏まえると………』
僕は、気づけば警察署に連れていかれた。
僕はまだ13歳だから、法では裁かれない。
でも、相手の頭部を椅子で殴って、殺人未遂の暴行を加えてしまったから…
きっと…タダでは済まないだろうなぁ…。
慰謝料……高いだろうなぁ……。
取り乱しすぎて、後先も考えずに僕は…。
刑事さんや弁護士さんの話を聞いていると、高橋翔介は一命を取り留めたらしい。
重い障害も残らず、ただ頭から軽い出血をし、軽度の脳震盪で失神しただけらしい。
………そのまま死んでしまえばよかったのにな…と、
あらぬ考えをしてしまった。
……少しやりすぎな気もするけど、
アイツらがやってきたことと比べるとまだまだ足りないと、思ったんだ。
あの子を………高嶺の花を……枯らせようとしたから。
どうしても許せなかった。
警察や親には、今までに無いくらいにこっぴどく叱しかられた。
本当にたくさん叱られた。母に始めて頬を叩かれ、泣きそうになった。
そのまま僕らは家に帰った。
揺れる車の中、虚無感に包まれていた。
その間もお母さんは、泣きながら私を叱った。
玄関のドアを開けると、顔を真っ赤にさせたお父さんにいきなり殴られた。
痛み以外、僕はもう何も感じなかった。
お父さんも、お母さんも…ずっと怒っていた。
何を言っていたのか、僕は聞こえなかった。
もう何も……感じない。感じられない。
心が、空っぽのようだった。
兄も、妹も弟も、
まるで化け物を見るかのような、失望と恐怖の目で、僕を見ていた。
でも大丈夫…
きっと
……高根ちゃんだけは…
僕を救ってくれる。
僕の………心を満たしてくれる。
きっと…………
………僕はそのまま、お風呂に入る。
何も感じない。
手の感覚すらなかった。
ご飯は、何も味がしなかった。
粘土を食べているかのようで、そのあとトイレで吐いてしまった。
僕はそのまま布団に潜った。
ドロリとした感触と、耳鳴りだけが脳裏にこびりついていた。
芽生えた殺意は行き場を失った。
どうしようもないこの虚無感を抱えた夏休み前日はもう終わる。
枕に顔を埋めて、僕は暗闇に意識を手放した。
お話の構成は起承転結+おまけの五話ずつの予定です。くっそ重いですマジで。でもがんばって読んでほしいです。感想とかよければお願いします。