第9話 孤児院とパン屋の娘
監察官エリオットの提案から始まったいくつかの計画は、ヴァルモン領で着実に進んでいた。
中でも、孤児院設立の準備は、コンラートの指揮のもと、急ピッチで進められていた。
城下の空き家の改修はほぼ終わり、最低限の寝具や生活用品が運び込まれ始めている。
そして、その運営の核となる人物として、コンラートはパン屋の娘リリアとその母親に、正式に協力を依頼した。
「私たちが……孤児院のお手伝いを、ですか?」
リリアは、宰相直々の依頼に驚き、少し緊張した面持ちで聞き返した。
母親も隣で戸惑っている。
「うむ。君たちの働きぶりや、その優しい人柄は、町でも評判だと聞いている。どうか、親を失った哀れな子供たちのために、力を貸してはくれぬだろうか。もちろん、相応の報酬は領から出す」
コンラートは、穏やかな口調で頼み込んだ。
リリアは、少し考えた後、決意を込めて頷いた。
「はい! 私でよければ、ぜひやらせてください! お母さんも、いいよね?」
「まあ、リリアがそう言うなら……。少しでもあの子たちの助けになれるならねぇ」
母親も娘の意志を尊重し、承諾した。
リリアの胸には、領主様(と監察官様)が進める新しい事業に関われるという喜びと、子供たちの役に立ちたいという純粋な気持ちが湧き上がっていた。
数日後。
リリアは母親と共に、孤児院となる建物に通い始めた。
領内の村々から、少しずつ孤児たちが集められてくる。
彼らの多くは、先代の悪政による貧困や、それに伴う病、あるいは先の混乱の中で親を失った子供たちだった。
痩せて、薄汚れた服を着て、怯えたような目をした子供たち。
リリアは、彼らの境遇を目の当たりにし、胸を締め付けられる思いだった。
これが、あの恐ろしかった先代領主が残した傷跡なのだ。
同時に、そんな子供たちのために、こうして場所を用意してくれた新しい領主ゼノン様への感謝の念(勘違い)を、改めて強くするのだった。
そんなある日の午後。
「領主様が、ご視察にお見えになります!」
役人の声が響き、孤児院の準備を進めていた者たちに緊張が走った。
ゼノンは、「領主たるもの、領内の事業は全て把握しておかねばならん」という父の言葉(というよりは、単なる退屈しのぎだったが)を思い出し、孤児院の予定地を視察することにしたのだ。
もちろん、監察官エリオット、宰相コンラート、側近騎士リアムも同行している。
改修された建物に入り、集められた子供たちの姿を目にしたゼノンは、内心で顔をしかめた。
(ふん……。みすぼらしい子供どもめ。こんなものに領地の金を使うとは、あの監察官も酔狂なことだ)
しかし、領主としての威厳を示さねばならない。
父ならば、きっとこう言ったはずだ。
「ふん! 小汚い子供どもめが、うろちょろするな!」
ゼノンは、できるだけ尊大な声で言い放った。
「せいぜい、この私に感謝し、無駄飯を食わぬよう、将来ヴァルモン領の役に立つべく励むのだな! よいな!」
突然の領主の登場と、その厳しい言葉に、子供たちは怯えて後ずさりし、中には泣き出してしまう子もいた。
リリアは、その様子を見て、思わずゼノンの前に飛び出した。
「あ、あの、領主様!」
リリアは、必死に笑顔を作って言った。
「領主様は、皆さんのことをとても心配して、こうしてわざわざお忙しい中、見に来てくださったんですよ! ね、領主様!」
彼女は、ゼノンが本当は優しいけれど不器用なだけだと信じ込んでいるため、必死にフォローしようとする。
「だから、そんなに怖がらないでくださいね。領主様は、皆さんが元気になることを、一番に願っておられるのですから!」
「なっ……何を言うか、小娘!」
ゼノンは、リリアの予想外の行動と発言に、顔を赤くして狼狽えた。
(私が心配? 優しい? 馬鹿なことを! 私はただ、父上の真似を……!)
しかし、リリアの言葉が効いたのか、あるいは単に好奇心が勝ったのか、一人の小さな男の子が、おずおずとゼノンの前に歩み出た。
そして、くりくりとした瞳でゼノンを見上げ、素朴な質問を投げかけた。
「……りょーしゅさまは、なにたべるの?」
「…………は?」
ゼノンは、完全に意表を突かれた。
予想外すぎる質問に、どう答えていいか分からない。
父ならどうした? こんな時、父なら……?
ゼノンの思考は完全に停止した。
「え、えっと……りょ、領主はだな……その、特別なものをだな……」
しどろもどろになりながら、何か威厳のある答えをひねり出そうとするが、言葉が出てこない。
「おしろは、おおきいの?」
男の子は、さらに質問を続ける。
「お、お城か? ああ、大きいぞ! とてつもなく大きくて、き、金銀財宝が山のように……」
ゼノンは、咄嗟に見栄を張り、大げさな嘘をついてしまった。
その様子を見ていた周囲の反応は、様々だった。
リリア:(まあ! 領主様、子供相手だとやっぱり困っちゃうんだわ。可愛いところもあるのね)
彼女の瞳には、母性本能にも似た温かい光が宿っていた。
コンラート:(おお……若様……。子供の純粋な問いに、言葉を選び、真摯に向き合おうとされている……。なんと、お優しい……!)
彼は目頭を熱くしていた。
リアム:(領主様と子供たちが、心を通わせている……! 領主様の温かいお人柄が、子供にも伝わったのだ! なんと素晴らしい光景だろうか!)
彼は感激のあまり、拳を握りしめていた。
エリオット:(………………???)
監察官エリオットは、目の前で繰り広げられる光景が、全く理解できなかった。
尊大な領主が、子供の素朴な質問にタジタジになり、パン屋の娘が彼を庇い、家臣たちは感動している……?
(これは一体……どういう状況なのだ? 私の常識が、この領地では通用しないのか……?)
彼の混乱は、もはや限界に達していた。
結局、ゼノンはその場を取り繕うように、そそくさと視察を切り上げて城へ戻っていった。
帰り道、彼は内心で毒づいていた。
(子供というのは、実に面倒な生き物だ! 父上が子供を近づけなかった理由が分かった気がする……)
しかし、同時に、あの物怖じしない子供の瞳や、リリアの真っ直ぐな笑顔が、なぜか少しだけ頭から離れない自分に気づき、さらに不可解な気分に陥るのだった。
この日の出来事は、すぐに領民たちの間に広まった。
「領主様が、孤児院をわざわざ見に来てくださったそうだ」
「子供たちにも、優しく声をかけてくださったらしい」
「パン屋のリリアちゃんが、領主様は本当は優しい方だって言ってたよ」
ゼノンが孤児院設立を許可した(という事実)と、今回の視察(での勘違いエピソード)が合わさり、領民の間でのゼノンへの評価は、「怖いけど、民を思う優しい一面もある領主様」という方向に、さらに固まっていくのだった。
もちろん、ゼノン自身はそんな評判を知る由もなく、エリオットの謎は深まるばかり。
そして、孤児院の準備は、多くの人々の(勘違いに基づいた)善意と期待の中で、着々と進んでいくのだった。