第8話 監察官の提案
王都からの監察官、エリオット・フォン・クラウゼンがヴァルモン領に滞在し始めてから、更に数日が過ぎた。
彼は精力的に領内を視察し、家臣や領民から話を聞き、そして何よりも不可解な存在である若き領主、ゼノン・ファン・ヴァルモンを注意深く観察していた。
観察を続ける中で、エリオットはこの領地が抱える具体的な問題点と、同時に改善の可能性を見出し始めていた。
古くから続く非効率な農業、まとまりのない職人たち、そして先代の悪政が残した孤児たちの問題……。
これらを放置すれば、いずれ領地の不安定化を招き、ひいては王国の不利益にも繋がりかねない。
(この状況を改善するためには、具体的な施策が必要だ。そして、それを実行させるには、領主の許可を取り付けねばなるまい)
エリオットは監察官としての立場を超え、ある種の使命感をもって、いくつかの政策案を携え、ゼノンの執務室の扉を叩いた。
「領主閣下。少々お時間をいただけますでしょうか」
執務室の主であるゼノンは、相変わらず退屈そうに椅子に座っていた。
エリオットの訪問に、内心(また来たか)と舌打ちしつつも、表面上は尊大な態度を崩さない。
父も王都の役人には、表向きは丁寧に対応していた(ように見えた)ことを思い出し、これも「領主の駆け引き」なのだと自分に言い聞かせる。
「……ふん。監察官殿か。何の用だ?」
「はっ。これまでの調査を踏まえ、このヴァルモン領のさらなる発展のため、いくつか私見を述べさせていただきたく、参上いたしました」
エリオットは、丁寧な言葉遣いながらも、背筋を伸ばしてゼノンに向き合う。
ゼノンは、面倒事が持ち込まれたことを察知し、あからさまに眉をひそめた。
(発展だと? この領地は私の統治で既に十分に発展しているではないか。何を言いがかりをつけてくる気だ?)
しかし、王都の監察官を無下に追い返すわけにもいかない。
(仕方ない、聞いてやるか。父上なら、どうせ鼻で笑って一蹴しただろうが……)
「……ほう、貴様の私見とな? よかろう、聞かせてもらおうか」
許可を得て、エリオットは準備してきた提案を述べ始めた。
「まず、農業についてです。先の凶作危機は乗り越えられましたが、根本的な生産性の向上には、新しい技術の導入が不可欠かと存じます。効率的な農具の試用や、土地を休ませつつ地力を回復させる輪作などを、一部の地域からでも試験的に取り入れてはいかがでしょう?」
「次に、職人たちについてです。彼らは高い技術を持ちながらも、個々で活動しているため、その力が十分に発揮されておりません。彼らが組合……ギルドのようなものを結成することを領主様が奨励なされば、技術交流が促進され、領外との取引においても有利になりましょう」
「そして最後に……これは見過ごすことのできない問題ですが、領内の孤児たちの保護についてです。先代の頃からの混乱で親を失った子供たちが増えております。彼らが健やかに育ち、将来の領地の担い手となるためにも、最低限の保護を行う施設……仮に孤児院と呼びますが、その設立が急務かと存じます」
エリオットは、それぞれの提案について、現状の問題点、改善策、そしてそれがもたらすであろう利益を、よどみなく、論理的に説明した。
しかし、ゼノンは、その小難しく、そして何より「領主がやるべきこと」とは思えない提案の数々に、内心うんざりしていた。
農具? ギルド? 孤児院?
(馬鹿馬鹿しい! 父上がそんな細かいことに気を配っていたか? 否! 父上は力で支配し、富を集め、威厳を示した! それが領主たる者の姿だ! この監察官は何も分かっておらん!)
父の教え(とゼノンが信じているもの)とは、あまりにもかけ離れた内容だった。
今すぐにでも「くだらん!」と一蹴してやりたい衝動に駆られたが、相手は王都の監察官だ。
ここで正面から対立するのは得策ではない、という父の「駆け引き」の教え(?)も頭をよぎる。
(……待てよ? こいつにやらせてみる、という手もあるか? どうせ失敗するに決まっている。その時に『やはり私のやり方が正しかったのだ!』と、こいつの鼻を明かしてやれば、父上もきっとお喜びになるだろう。そうだ、それがいい!)
ゼノンは、一瞬にして(勘違いによる)名案を思いついた。
「……ふん。貴様の考え、なかなか面白いではないか」
ゼノンは、さも感心したかのような、尊大な口ぶりで言った。
「よかろう。その提案、採用してやる。貴様に任せる故、好きにやってみるが良い」
そして、父ならこう付け加えたであろう、最大限の威圧を込めて続けた。
「ただし! 無駄に領地の財産を食いつぶしたり、私の偉大な統治の邪魔をしたりするような真似は許さんぞ! もし失敗すれば……監察官であろうと、ただでは済まさぬからな! 覚えておけ!」
ゼノンは、これで監察官も恐怖し、自分の意のままになるだろうと、内心ほくそ笑んだ。
エリオットは、ゼノンの脅し文句(としか思えない言葉)に、一瞬眉をひそめた。
(責任は私に押し付け、失敗すれば断罪する、と……。典型的な為政者の言い草だが……。まあ、許可が出ただけでも良しとしなければなるまい)
彼は、ゼノンの真意はともかく、政策実行への道が開かれたことに、わずかな安堵を覚えた。
「はっ。領主閣下のご期待に沿えるよう、全力を尽くします」
この決定を聞いたコンラートとリアムは、またしても主君の「英断」に感動していた。
コンラート:「なんと……! 若様は、王都からの監察官の提案を、即座にご検討の上、ご裁可なさった! しかも、その実行を全面的に任されるとは! 外部の知見を取り入れる柔軟性と、部下への信頼! これぞ真の指導者の姿!」
リアム:「『失敗は許さん』……! なんと厳しい、しかし熱いお言葉だ! これは、我々ヴァルモン領の者すべてが、この改革を必ず成功させねばならぬという、若様からの叱咤激励! 身が引き締まる思いです!」
二人は、ゼノンがただ面倒事を押し付けただけだとは夢にも思わず、主君の「改革への情熱」と「深い信頼」に、奮い立つ思いだった。
こうして、王都の監察官エリオットの提案は、領主ゼノンの(勘違いによる)許可と、家臣たちの(さらなる勘違いによる)熱烈な支持のもと、ヴァルモン領で実行に移されることになった。
コンラートは早速、エリオットと協力して具体的な計画に着手した。
孤児院の候補地として、城下の空き家が選定され、改修計画が立てられた。
農業改革の試験導入についても、協力してくれる農家の選定が進められた。
職人ギルド設立に向けた準備会合の日程も調整され始めた。
エリオットは、自分の提案が驚くほどのスピードと熱意をもって進められていく状況に、手応えを感じると同時に、やはりこの領地の奇妙な力学の中心にいるゼノンへの困惑を深めずにはいられなかった。
(彼は、本当に何もしていないように見える。だが、彼の許可の一言が、これだけの人間を動かす……。これは一体……?)
当のゼノンは、面倒な提案をした監察官が、今度は自分でその面倒事を片付け始めたことに、内心満足していた。
「ふん、あの監察官、なかなか使えるではないか。私の手を煩わせずに、勝手に領地を良くしようと働いてくれる。実に都合が良い。これも父上の言う『人を使う術』というやつだな!」
彼は、今日も今日とて、心地よい勘違いの中で過ごしているのだった。
ヴァルモン領では、こうして多くの人々の勘違いと、一人の監察官の真摯な努力によって、新たな改革の歯車が、静かに、しかし力強く回り始めていた。