第77話 報告、そしてゼノンの「決断」
鷲ノ巣峠での戦いは、戦いと呼ぶにはあまりにも一方的なものだった。
完全に意表を突かれ四方から包囲されたガーランド男爵の兵士たちは、ろくな抵抗もできずに次々と武器を捨てて降伏した。
ヴァルモン騎士団の被害は驚くほど軽微だった。
そして復讐に燃えていたはずの裏切り者ボルコフは、リアム自らの手によって腰を抜かして震えているところを、あっけなく捕縛された。
翌日、ヴァルモン城下は勝利の歓声に包まれた。
リアム率いる騎士団が多数の捕虜と、鹵獲した武具を伴い堂々と凱旋したのだ。
王都への献上品輸送隊を狙った卑劣な賊を、領主様の騎士団が見事に撃退した――その報せは瞬く間に領民たちに広まっていた。
彼らは自分たちの小さな「通報」がこの大きな勝利に繋がったとは知らず、ただ自分たちの領主とその騎士たちの強さを誇らしく思い、熱狂的な喝采を送った。
城の広間にはゼノンの前に、捕らえられたボルコフとガーランド男爵の部隊長たちが引き据えられていた。
リアム、コンラート、そしてエリオットがその脇を固めている。
「――以上が事の次第にございます!」
リアムは興奮した面持ちで、今回の作戦の成功を報告した。
エリオットの策略、領民たちの協力、そして自らの騎士団の活躍。
彼はそれら全てを「ひとえにゼノン様の『天啓』がお導きくださった、輝かしき勝利にございます!」といつものように締めくくった。
ゼノンは玉座に座ったまま黙って報告を聞いていた。
彼の視線は目の前で憎悪と恐怖に顔を歪ませながら、自分を睨みつけているボルコフにじっと注がれている。
裏切り者。
父上ならばこのような男をどうしただろうか?
答えは簡単だ。
見せしめとして最も残酷な方法で処刑しただろう。
それが領主の「威厳」であり「力」の示し方だと、彼はこれまで信じてきた。
「……ゼノン様」
コンラートが恐る恐る口を開いた。
「この者たちの処遇、いかがいたしましょうか? ボルコフは我が領を裏切った大罪人。ガーランドの者たちもそれに加担した不届き者ども。厳罰に処すべきかと……」
コンラートの言葉にリアムも力強く頷く。
「はい! 特に裏切り者ボルコフは万死に値します! 見せしめとして即刻、打ち首に!」
リアムの言葉は、まさにゼノンがこれまで手本としてきた「父のやり方」そのものだった。
ゼノンは思わず「うむ」と頷きそうになった。
しかしその瞬間、彼の脳裏にあの子供たちが描いた「優しい父の肖像画」がふと、よぎった。
民を愛し穏やかに微笑む、あの自分の知らない「偉大な領主」の姿。
そしてエリオットの言葉。
(民が望むのは、ささやかな希望と小さな安心感……)
恐怖で支配する父のやり方。
慈愛で導く、あの絵の中の王の姿。
そして実利を追求する、エリオットのやり方。
彼の頭の中でこれまで考えたこともなかった様々な「領主のあり方」が、渦を巻き始めていた。
ゼノンはゆっくりと顔を上げた。
そして彼の口から出たのは、家臣たちの誰もが予想だにしなかった言葉だった。
「……リアム、エリオット、コンラートよ」
その声はいつもの尊大さとは違う、静かな響きを持っていた。
「……貴様らなら、どうする?」
「「「え……?」」」
三人は同時に間の抜けた声を上げた。
ゼノン様が我々に判断を……?
これまで常に「天啓」によって一方的に命令を下されてきた彼らにとって、それは信じられない出来事だった。
最初に我に返ったのはリアムだった。
「も、もちろんです! 私ならば先ほども申し上げた通り、裏切り者には死を! ヴァルモン領の法とゼノン様の権威を断固として示すべきです!」
それは力による支配を肯定する単純明快な答えだった。
次にコンラートがおずおずと口を開いた。
「……私ならば……。確かに罪は重いですが、命を取るばかりが能ではございません。終身の労役刑などに処し罪を償わせることで、ゼノン様の『慈悲深さ』を示すという道も……」
それは温情と秩序の維持を両立させようとする、為政者としての答えだった。
そして最後にエリオットが、冷静に、しかし確信を込めて言った。
「ゼノン閣下。私ならば『実利』を取ります」
「実利、だと?」
「はい。捕らえた兵士たちはガーランド男爵にとって惜しい労働力のはず。彼らを相応の賠償金と引き換えに返してやるのです。そして裏切り者ボルコフ……彼の持つ他にはない『技術』と『知識』。それをただ牢で腐らせるのも死なせて失うのもあまりに惜しい。彼にしかできない、そして二度と逆らえなくなるような形で『働かせる』道を探ります」
それは感情を排し、領地の利益を最大化することを目的とした最も現実的な答えだった。
ゼノンは三人の三者三様の答えを、黙って聞いていた。
力、慈悲、そして実利。
どれも父の教えの中には、はっきりととは無かったものだ。
あるいはその全てが歪んだ形で含まれていたのかもしれない。
ゼノンはしばらくの間目を閉じ、何かを考えていた。
それはもはや「熟考のふり」ではなかった。
彼が領主として初めて、自分の頭で、自分の意志で何かを「決断」しようとしている瞬間だった。
やがて彼はゆっくりと目を開いた。
その瞳には迷いが消え、領主としての静かな覚悟が宿っているようにエリオットには見えた。
「……よし。決めたぞ」
ゼノンは目の前のボルコフをまっすぐに見据えて言った。
「貴様たちの処遇を、今から言い渡す」
その声はまだ若く、そしてどこか拙さは残るものの、確かに一人の君主の、それであった。
ヴァルモン領の新たな「裁き」が下されようとしていた。