第75話 リアムの密命と、領民たちの「目」
その夜、ヴァルモン城の一室に三人の男が密かに集っていた。
監察官エリオット、宰相コンラート、そして騎士リアム。
部屋の灯りは最小限に絞られ、彼らの顔には深刻な緊張の色が浮かんでいた。
「――以上が私が掴んでいる情報だ。裏切り者ボルコフはガーランド男爵と手を組み、おそらくは王都への献上品輸送隊を狙っている。これは我々ヴァルモン領の威信を、そしてゼノン閣下ご自身の御名誉を著しく傷つけるための卑劣な陰謀だ」
エリオットは低い声で、しかし明瞭に状況を説明した。
コンラートは報告を聞き終えると、蒼白な顔で呻いた。
「なんと……。あのボルコフめ、そこまで我らを、そして若様を恨んでいたとは……。そしてガーランド男爵……先代様とのいさかいを未だに根に持っていたか……」
「許せん……!」
リアムが怒りに震える声で剣の柄に手をかけた。
「裏切り者ボルコフも欲深きガーランド男爵も、この私が今すぐ成敗してくれる! エリオット殿、すぐにでも討伐隊の編成許可をゼノン様に……!」
「待て、リアム殿。早まってはいけない」
エリオットはリアムの激情を冷静に制した。
「今、大々的に動けば相手に我々の察知を知らせるだけだ。そうなれば奴らは計画を変えるか、あるいはより用心深くなるだろう。ゼノン閣下にご報告し事を大きくするのも、まだ早い」
「では、どうしろと!?」
「君の力が必要だ、リアム殿」
エリオットはリアムの目をまっすぐに見つめた。
「君に密命を託したい。信頼できる少数の部下だけを率い、ガーランド男爵領の国境付近を極秘裏に偵察してもらいたいのだ。敵の兵力、配置、そしてボルコフの具体的な動き……。我々が動くのは確たる証拠を掴んでからだ」
リアムはエリオットの言葉に一瞬戸惑った。
しかし「密命」という言葉とエリオットの真剣な眼差しに、彼の騎士としての魂が燃え上がった。
「……承知した。ゼノン様の名誉とこのヴァルモン領を守るための重要な任務、ということだな。このリアム、必ずやご期待に応えてみせる!」
リアムは力強く頷いた。
こうしてリアム率いる秘密偵察部隊が、その夜のうちに密かに出発した。
数日後。
ヴァルモン領とガーランド男爵領の境界近くの村々では、奇妙な出来事がぽつぽつと起こり始めていた。
「ねえお母さん。あの人、昨日もいたよ。ずっと街道の方を見てる……」
パンの配達に訪れていたリリアは、見慣れない顔の男が村の酒場の隅で執拗に街道の様子を窺っていることに気づいた。
その目つきはただの旅人とは思えない、何かを探るような嫌な光を帯びている。
彼女は言い知れぬ不安を覚え配達を終えると、村の警備兵にそっとそのことを告げた。
(領主様がせっかく平和にしてくださったこの村に、悪い人が入ってくるのは嫌だもの……)
彼女の行動は領主への(勘違いからくる)感謝と、ささやかな日常を守りたいという純粋な気持ちからだった。
別の場所、国境近くの畑では農夫たちが遠くの森の中に、数人の男たちが潜んでいるのを目撃していた。
「おい、見たか? あそこの森、何人か隠れてこっちの道をずっと見てるぞ」
「ああ。ありゃあ普通の猟師じゃねえな。なんだかこそこそして気持ち悪ぃ」
「まさかまた盗賊か? いや、リアム様たちが退治してくれたはずだが……。念のため城の方に知らせておくか」
彼らはゼノン領主の統治下で治安が改善されたことを身をもって知っている。
その平和を乱す不審な存在を、彼らは決して見過ごさなかった。
領民たちからのそうしたささやかな、しかし極めて重要な「不審者情報」は、領内の警備網を通じて次々と秘密裏に活動していたリアムの元へと集められていった。
リアムは当初、自ら敵地に潜入しようとして危うく発見されそうになるなど、慣れない諜報活動に苦戦していた。
しかし領民たちからもたらされるこれらの生の情報によって、彼は敵の動きを驚くほど正確に把握し始める。
「……なるほど。間者は一人や二人ではないらしい。街道沿いの村々に潜伏し、輸送隊の情報を集めているな」
「そして本隊の待ち伏せ場所はおそらく、あの『鷲ノ巣峠』……。農夫たちの言う通り、あそこは身を隠すには絶好の場所だ」
リアムは集まった情報を地図上に落とし込み、敵の計画の全貌をほぼ完璧に解き明かしていた。
彼はその状況に驚きと、そしてある種の感動を覚えていた。
(すごい……! これが我がヴァルモン領の真の力……! 領民一人一人が領主様を敬いこの領地を愛するが故に、自ら『目』となり『耳』となっているのだ! これこそゼノン様が目指しておられた真の『強き国』の姿に違いない!)
リアムは領民たちの純粋な自衛意識を全て、ゼノンの「天啓」による統治の成果だといつものように解釈し、深く感動した。
数日後。
リアムは確たる証拠と敵の計画の全貌を記した報告書を手に、エリオットとコンラートの元へと帰還した。
その顔は自信に満ち溢れていた。
「エリオット殿、コンラート閣下。敵の企み、全て丸裸にして参りました」
彼は地図を広げ、指さしながら言った。
「あとは罠を仕掛けるだけです」
ヴァルモン領の静かな、しかし確実な反撃の準備が今、整った。
その力の源が領主ゼノンの全く意図しない、領民たちのささやかな「忠誠心」であったことを、リアム以外の誰もがまだ気づいてはいなかった。