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第71話 静かな執務室、領主の「問い」と家臣の「答え」

 ヴァルモン・スタイル・アカデミーの「第一回・卒業制作発表会」から数日が過ぎた。

 城内はアカデミーの「大成功」を祝う雰囲気がまだ残っていたが、領主ゼノン・ファン・ヴァルモンの執務室だけは、珍しくしんと静まり返っていた。


 ゼノンは巨大な一枚板の机に向かい、ただぼんやりと虚空を見つめていた。

 彼の手元には先日、孤児院の子供たちが描いた「先代領主の肖像画」の一枚が何気なく置かれている。

 そこに描かれた穏やかに微笑む見知らぬ老人の姿。

 それがゼノンの心を静かに、しかし、かき乱し続けていた。


(……民を、愛す……)


 リリアの言葉が頭の中で何度もこだまする。

 父の教えは「力」と「恐怖」だったはずだ。

 それこそが「偉大さ」だと信じて疑わなかった。

 しかし子供たちの純粋な瞳とあの絵は、全く別の「偉大さ」の形を彼に突き付けているかのようだった。


 そこへ宰相コンラートが、日々の報告のために執務室へ入ってきた。

 彼は主君のいつもとは違う、どこか物思いに沈んだような様子に一瞬戸惑った。


「ゼノン様、本日のご報告を……」

「……ああ」


 ゼノンの返事は短く、力がない。

 コンラートはギルドの生産状況やアカデミー農園の作物の生育状況などを、淡々と報告していく。

 いつもならゼノンは途中で「うむ!」と満足げに頷いたり、あるいは「つまらん!」と一蹴したりするはずだった。

 しかし今日のゼノンは、ただ黙って聞いているだけだった。


 報告が終わり、コンラートが退出しかけたその時だった。


「……コンラートよ」


 ゼノンがぽつりと呟いた。


「はっ! なんでございましょうか!」

「……民というのは……その、領主に一体何を一番に望んでおるのだと、思う?」


 その問いはあまりにも唐突で、そしてこれまでのゼノンからは想像もつかないほど哲学的で、本質的なものだった。

 コンラートは衝撃を受けた。


(……おお! おおお……! 若様は……! アカデミーでの経験を経て、ついに統治者としての新たな、そしてより高次元の『問い』に到達されたのだ! なんと素晴らしい……!)


 コンラートはゼノンの純粋な混乱をまたしても、領主としての「精神的成長」の証だと完璧に勘違いした。

 彼は感動に打ち震えながら、恭しく、そして熱っぽく語り始めた。


「ゼノン様! それは古今東西の賢帝聖王が生涯をかけて追い求めた究極の問いにございます! ある哲学者は『秩序こそが民の望み』と説き、またある王は『日々の糧こそが全て』と語りました。しかし真の答えは、おそらくそのどちらでもございません! 民が真に望むもの、それはゼノン様ご自身が今まさに体現しておられる『天啓』による導き! すなわち精神的な充足と未来への希望そのものにございましょう!」


 コンラートは彼が持ちうる限りの知識と、ゼノンへの尊敬の念を込めて完璧な「答え」を述べたつもりだった。

 しかしその答えは、今のゼノンが求めているものとはあまりにもかけ離れていた。


(……天啓……? 精神的な、充足……?)


 ゼノンの心の中の小さな「問い」は、コンラートの壮大な「答え」によって少しも晴れることはなかった。

 むしろさらに深い霧の中に迷い込んでしまったかのようだ。


「……そうか。……もう良い、下がれ」

「ははっ!」


 コンラートは自分の答えが主君の「問い」に見事に応えられたと満足し、晴れやかな顔で退出していった。


 入れ替わるように監察官エリオットが、次の報告のために執務室へと入ってきた。

 彼はゼノンのいつもとは明らかに違う沈んだ雰囲気を、すぐに見抜いた。

 机の上に無造作に置かれた子供の絵も、彼の目に入っている。


「……ゼノン閣下。何かお悩み事で?」


 エリオットは静かに、そして探るように尋ねた。

 ゼノンは答えなかった。

 ただエリオットの顔をじっと見つめている。

 その瞳はまるで何かを問いかけているかのようだった。


 エリオットは少しの間沈黙した後、意を決したようにゆっくりと口を開いた。


「……閣下。私がこれまで様々な土地で見聞きしてきた経験から、愚見を述べさせていただくことをお許しいただけますでしょうか」

「…………」


 ゼノンはまだ黙っている。

 エリオットはそれを静かな許可と受け取った。


「多くの民は難しい哲学や高尚な芸術を望んでいるわけではございません。彼らが望むのは、おそらくもっと単純なことです。今日よりも明日が少しでも良くなるかもしれないという、ささやかな希望。そして自分たちの声が全く届かないわけではないという、小さな安心感……。それらを与えられる領主のことを、民は善き指導者と呼ぶのではないかと……私はそう思います」


 エリオットの言葉はコンラートのような壮大なものではなかった。

 ただ現実的で地に足の着いた、一人の官吏としての実直な意見だった。


 ゼノンはその言葉を聞いても、やはり何も答えなかった。

 彼はふいと顔を背けると窓の外を眺めた。

 エリオットはそれ以上は何も言わず静かに一礼すると、報告書を机の隅に置き執務室を後にした。


 一人残されたゼノンはまだ窓の外を見つめている。

 彼の頭の中ではコンラートの言った「天啓による導き」という壮大な言葉と、エリオートの言った「ささやかな希望と小さな安心感」という地味な言葉が、奇妙な形でぐるぐると回り続けていた。


 どちらが正しいのか彼には分からない。

 ただ一つだけ確かなのは、父の教えの中にはそのどちらの答えもなかったということだけだった。

 領主ゼノンの本当の「学び」は、あるいはこの静かな執務室でのこの瞬間から、始まっていたのかもしれない。

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