第69話 ギルドの受難 ~哲学講義と職人魂~
領主ゼノン・ファン・ヴァルモンが発した「領民総アカデミー化計画」という、あまりにも壮大で非現実的な命令。
その最初の栄誉ある(という名の不幸な)ターゲットとして、ヴァルモン領職人ギルドが選ばれた。
数日後、宰相コンラートは騎士リアムを伴い、ギルドの作業場へとその「ありがたい」決定を伝えにやってきた。
「皆の者、手を休めて聞きなさい! 天啓の領主ゼノン様より、ギルドの諸君にまたとない栄誉が与えられることとなった!」
コンラートは高らかに宣言した。
作業に打ち込んでいた職人たちは何事かと顔を上げる。ギルド長のゲルトは嫌な予感を覚えつつも、恭しく頭を下げた。
「この度ゼノン様は、諸君らの『実践能力』をさらに高めるため、我がヴァルモン・スタイル・アカデミーが誇る最高の教授陣による『特別講義』を君たちに授けてくださることになったのだ!」
「……は? こ、講義……でございますか?」
ゲルトの声がわずかに裏返った。
職人たちの間にもどよめきが広がる。
(講義だと? 俺たちは今、バルツァー領への交易品の納期に追われているんだが……)
(アカデミーの先生って、あの変わり者のことか……?)
「その通り! アカデミーが誇る哲学者ヘーゲル殿と彫刻家マリーナ殿だ! お二方の高尚な『理論』に触れることで、諸君らの技術は必ずや新たな次元へと進化するであろう! ありがたく拝聴するように!」
コンラートはそう一方的に告げると、「では先生方、お願いしますぞ!」と背後に控えていた二人の「教授」を招き入れた。
ヘーゲルとマリーナは、自分たちの深遠な知識をついに実践の者たちに授ける時が来たと、使命感に燃えた表情で作業場の中央へと進み出た。
職人たちは仕事の手を止めさせられ、不満と困惑を隠せないままその場に座らされる。
監察官エリオットは作業場の隅で、これから始まるであろう悲劇(あるいは喜劇)を胃を押さえながら見守っていた。
まず教鞭をとった(というより金槌を哲学的に掲げた)のは、ヘーゲルだった。
「諸君! 君たちが日々手にしているその『道具』とは、一体何かね? それは単なる物体ではない! 君たちの『意志』を『素材』という『他者』に媒介させるための、まさしく『主体性の発露』そのものなのだ! 例えばこの金槌! これは金槌として存在する以前に、『金槌足らんとする可能性』として世界に……」
「……あのう、先生」
ヘーゲルの難解な講義を、一人の無骨な鍛冶屋が遮った。
「理屈はよく分かりませんが……要するに、鉄が熱いうちに気合入れて叩け、ってことでよろしいんで?」
「違う! 全く違う! 君は本質を何も理解していない!」
ヘーゲルは、いきなり核心を(見当違いに)突かれ憤慨した。
次に彫刻家のマリーナが、木工職人たちが作りかけの椅子を手に熱弁を始めた。
「見て、この椅子を! なんとつまらない! なぜ全ての脚の長さを同じにするの!? なぜ表面を滑らかに磨き上げてしまうの!? それでは素材が持つ『魂の叫び』が死んでしまうではない! いい? 真の芸術とは、このささくれ立った部分にこそ宿るのよ!」
「……ですが先生。それじゃあ、座ったらお尻にトゲが刺さりますが……」
若い木工職人が、素朴な、しかしあまりにももっともな疑問を口にした。
マリーナは「芸術のためなら多少の犠牲は当然よ!」と胸を張った。
講義は完全に混沌としていた。
哲学者は道具の存在意義を問い続け、芸術家は未完成と機能不全の美を説く。
職人たちはただただ、ぽかんとするか、あるいは日々の仕事の常識とあまりにかけ離れた「理論」との間で頭を混乱させるばかり。
作業場には活気ある槌の音の代わりに、困惑のため息だけが満ちていた。
(……駄目だ。このままではギルドの機能が完全に停止する。納期も品質も、何もかもが……)
エリオットはついに見かねて、そっと前に進み出た。
彼は熱弁を振るうヘーゲルとマリーナに、極めて丁寧な口調で提案した。
「先生方。まことに素晴らしい講義です。ですがその深遠なる『理論』を我々凡人が真に理解するには、具体的な『実践』の中でそれを体感する必要があるのかもしれません」
「ほう? 実践かね?」
「はい。例えば職人たちが実際に作業を行う。その一挙手一投足の中に先生方が仰る『哲学』や『芸術』がどのように現れているのか、それを先生方にリアルタイムで『解説』していただく、というのはいかがでしょう? いわば『実況解説付き実践講義』です」
エリオットの提案は一見、教授陣を立てているように見えて、その実、「とにかく職人たちに仕事をさせて教授陣は口だけ動かしていてくれ」という苦肉の策だった。
ヘーゲルとマリーナは、自分たちの理論がついに「実践の場」で解説されるという新たなステージに興味をそそられた。
「なるほど! それは新しい教育法かもしれん!」
「いいわ! 私の美学が彼らの動きの中でどう発露するか、解説してあげる!」
こうしてエリオットの機転により、ギルドの職人たちはようやく仕事に戻ることができた。
もちろんその周りでは、ヘーゲルが「おお、その槌の一振りはまさに『無への問いかけ』だ!」と叫び、マリーナが「待って! その鉋屑、捨てないで! それこそが『創造の痕跡』という最高のアートよ!」などと騒ぎ続けている。
職人たちはBGMのように流れてくる意味不明な解説を完全に無視するスキルを、急速に身につけながら黙々と手を動かした。
コンラートとリアムはその光景を見て深く頷いていた。
「おお……! 理論と実践の見事な融合! これぞゼノン様が仰っていた『好循環』!」
「素晴らしい! 職人たちの顔つきも哲学を理解し、輝いて見えます!」
ゼノンは後でコンラートから「特別講義は大成功でした。職人たちは先生方の指導の下、哲学的な境地で作業に打ち込んでおります」という報告を受け、「うむ、そうか。やはり私の計画は完璧だな」と大いに満足した。
彼にはギルドの生産性がその日一日、大幅に低下したことなど知る由もなかった。