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第66話 バルツァー領からの「芸術品」と、新たな火種

 ヴァルモン・スタイル・アカデミーに「文農両道」を掲げた農園が設立され、その畑で哲学者たちが土の存在意義について悩み、彫刻家が畝の芸術性にこだわり、そして有能な農民たちが黙々と作物を育てるという奇妙な日常が始まってから、ひと月ほどが過ぎた。

 アカデミーの運営は相変わらず混沌としていたが、領主ゼノンの目には全てが順調に進んでいるように映っていた。


 そんなある日、隣領バルツァーから若き貴族クラウスの遣いを名乗る使者が、一体の大きな木箱を携えてヴァルモン城を訪れた。

 聞けば新設されたヴァルモン・スタイル・アカデミーへの、開校祝いの品だという。


「ほう、バルツァーのクラウスからか。感心な奴め。して、その箱の中身はなんだ?」


 ゼノンは家臣たちとアカデミーの「教員」であるヘーゲルやマリーナ、そして「芸術顧問」のルドルフを広間に集めさせ、意気揚々と使者に問いかけた。

 彼はクラウスが、かの「教本」から一体どのような「天啓」を得て、どんな素晴らしい芸術品を贈ってきたのか興味津々だった。


「はっ。こちら我が主クラウス様が、ゼノン閣下の『天啓』と『教本』に深く感銘を受け、我がバルツァー領の職人たちにその哲学を徹底的に指導し作らせた『友情の証』にございます。どうぞ、お納めください」


 使者が恭しく木箱を開けると、中から現れたのは一体の……奇妙な素焼きの壺だった。

 それは一見するとただの歪な、そしてお世辞にも上手いとは言えない作りの壺である。

 しかしその側面にはおびただしい数の穴が、意図的に、しかしランダムに開けられていた。

 もはや壺としての機能……すなわち液体を入れるという最低限の役割すら、完全に放棄している。

 それはもはや「壺」ではなく、「穴の空いた壺の形をした土塊」でしかなかった。


 広間は一瞬、静寂に包まれた。

 コンラートもリアムも、そのあまりに前衛的な「芸術品」を前にどう反応していいか分からず言葉を失っている。

 ルドルフは(僕のせいだ……僕が、あの変な教本の絵を描いたからバルツァーの人たちはこんなものを作ることに……)と、顔面蒼白になっていた。


 ゼノンはその穴だらけの壺をじっと見つめていた。

 彼の眉間にわずかに皺が寄る。


(……なんだ、これは? ただの失敗作ではないか? クラウスめ、私を馬鹿にしておるのか? これが我が『ヴァルモン・スタイル』だとでも……?)


 ゼノンの胸にわずかな怒りと当惑が込み上げてきた。

 自分の「天啓」がこんな珍妙なガラクタを生み出してしまったというのか?

 彼は思わず「くだらん!」と一喝しそうになった。


 その、まさにその瞬間だった。

 最前列で壺を食い入るように見ていた哲学者のヘーゲルが、感極まったように叫んだのだ。


「……なんと! なんと素晴らしい! これぞまさしく『器の否定』! 『無』を内包するための究極の形而上学的表現ではないか! この穴はただの穴ではない! 『存在』と『非存在』を繋ぐ認識論的な窓なのだ!」


 ヘーゲルの熱弁に彫刻家のマリーナも続く。


「ええ、分かるわ! この内側と外側の境界を曖昧にする大胆な試み! そして壺という『機能』からの完全な解放! これこそ芸術が目指すべき究極の自由!」


 二人は穴だらけの壺を前に、それぞれの難解な芸術論と哲学論を戦わせ、勝手に感動し盛り上がり始めた。

 その様子を見たコンラートとリアムは(おお! やはりこの壺には我々凡人には計り知れぬ、深遠な意味が隠されていたのだ!)と、いつものように勘違いし安堵の表情を浮かべた。


 ゼノンはそのやり取りを見てハッとした。


(……そうだ! そうだったのか! 危うくこの作品の真価を見誤るところだったわ! この、器としての機能を完全に捨て去ることで、逆に『器とは何か』という哲学的な問いを我々に投げかけているのだ! なんと高度な! なんと知的な作品だ!)


 ゼノンは自分の危うく露呈しかけた芸術的センスのなさを棚に上げ、ヘーゲルたちの解釈に全力で乗っかることにした。


「ふ、ふん! その通りだ、ヘーゲルよ、マリーナよ! 私が試していたのだ! 貴様らにこの作品の『真の価値』が理解できるかどうか、な!」


 ゼノンは咳払いを一つして、さも全てお見通しであったかのように言い放った。


「クラウスめ、なかなかやるではないか! 我が『天啓スタイル』の神髄を見事に理解し、そして彼自身の解釈を加えて新たな地平を切り拓いた! この『友情の証』、確かに受け取ったぞ!」


 ゼノンがそう言って壺を高々と掲げると、広間は称賛と感動の(勘違いによる)拍手に包まれた。

 バルツァーからの使者は、よく分からないながらも自分たちの贈り物が大変喜ばれたことに満足げに微笑んでいる。


 監察官エリオットはその光景を、もはや、ただただ無表情で見つめていた。


 (……危機は回避された。回避されたが……。新たな『芸術の地平』が開かれてしまった……。これからヴァルモン領では穴の空いた壺や使い物にならない家具が、『最高の芸術』として称賛される時代が来るのかもしれない……)


 彼の胃はもう、痛みを感じる限界点すら超えてしまったようだった。


 こうしてバルツァー領から贈られた「穴だらけの壺」は、「天啓スタイル・バルツァー派の傑作」としてアカデミーの講堂に丁重に飾られることになった。

 そしてそれはゼノンに、さらなる、そしてさらに厄介な「芸術的インスピレーション」を与える新たな火種となるのだった。

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