第59話 アカデミーの校舎はどこに
領主ゼノン・ファン・ヴァルモンによって高らかに設立が宣言された「ヴァルモン・スタイル・アカデミー」。
その報せは領民たちの間に様々な期待を広げたが、城の内部では極めて現実的な問題が宰相コンラートの肩に重くのしかかっていた。
執務室で監察官エリオットを相手に、コンラートは頭を抱えていた。
「……で、エリオット殿。アカデミーの校舎なのだが……どうしたものか……」
彼の目の前には城下の地図が広げられている。
「若様は『設立する』と仰せになったが、その場所も予算も何もお示しではない。現実的に考えれば城下の空き倉庫を手直しして使うのが最も安上がりで早道なのだが……」
エリオットは冷静だが、うんざりした口調で答えた。
「しかしコンラート殿。あのゼノン閣下が、ご自身の『哲学』を教える神聖な学びの舎をただの倉庫で満足されるとは思えません」
彼もこの新たな一大事業という名の珍騒動の後始末に、すでにつき合わされる気配をひしひしと感じている。
「ううむ……。やはり若様にご神託……いや『ご天啓』を仰ぐしかないか……」
コンラートは覚悟を決めた。
彼は空き倉庫や古い役所の建物などいくつかの現実的な候補地を記した地図を手に、ゼノンの執務室へと向かった。
「ゼノン様。先日ご宣言されました『アカデミー』の件ですが、その建設地についてご裁可をいただきたく……。こちらにいくつか候補地をまとめて参りました」
ゼノンはコンラートが広げた地図を一瞥すると、すぐに眉をひそめた。
「ほう、校舎か。なんだこれは? 倉庫? 古い役所? コンラートよ、貴様分かっておらんな! 我が『天啓』と『ヴァルモン・スタイル』の神髄を学ぶ聖なる学びの舎が、そのような俗な場所にあってはならんのだ!」
やはり、とコンラートと(少し離れて控えていた)エリオットは思った。
「アカデミーの場所は私が直々に選ぶ! それもただ選ぶのではない! 『天啓』によって定められるべきなのだ! ついてまいれ!」
ゼノンはそう言うと意気揚々と立ち上がった。
こうして領主ゼノンによる「アカデミー建設地選定・天啓ツアー」が急遽開催されることになった。
ゼノンはコンラート、リアム、そしてなぜかエリオットまで伴い、城下を見下ろせる丘の上へとやってきた。
彼は眼下に広がる自分の領地を満足げに見渡し、やがておもむろに目を閉じた。
「……来たれ天啓よ……。我が領地の未来を照らす学びの舎に、最もふさわしき場所を示したまえ……!」
ゼノンは芝居がかった仕草で両手を広げ天を仰ぐ。
コンラートとリアムは、その神々しい(?)姿を固唾を飲んで見守っている。
一方エリオットは、ただただこの茶番が早く終わることを願っていた。
しばらくの間ゼノンは目を閉じたまま、何かを感じ取ろうとしている。
そして、ついに「その時」が来た。
「……見えたぞ!」
ゼノンはカッと目を見開くと、おもむろに眼下の領地の地図に向かって人差し指を突き出した。
父ならばこういう時、きっと劇的な演出をしたはずだと彼は考えたのだ。
その指が地図上の一点を指し示そうとした、まさにその瞬間だった。
どこからともなく一匹の大きなアブが飛んできて、ゼノンの鼻先にまとわりつき始めた。
「む、むぅ!?」
ゼノンは目を閉じていたため突然の羽音と感触に驚き、思わず「うおっ!」と声を上げて手を振り払った。
その拍子に彼の突き出した指は、当初狙っていた場所から大きくずれてしまった。
彼が狙っていたのは、ただの広々とした野原だったのだが……。
「……ん? おお、ここか!」
目を開けたゼノンは、自分の指が地図上のある一点を力強く指しているのを見た。
そこは城下から少し離れた川沿いの森の中に建つ、古い修道院の跡地だった。
何十年も前に打ち捨てられ、今は蔦に覆われているが石造りの基礎はしっかりしており、何よりも川のせせらぎと木々の緑に囲まれた非常に風光明媚な場所である。
もちろんゼノンはそんなことは知らない。
彼は自分の指が偶然そこを指しただけなのだが、それを「天啓がもたらした奇跡」だと瞬時に勘違いした。
「ふ、ふははは! 見たか! 天はこの場所こそ我がアカデミーにふさわしいと、そうお示しになったのだ! この俗世から離れた静謐な環境こそ、深遠なる哲学を学ぶに最適の地であろう!」
ゼノンは自分の「神の一指し」に自画自賛した。
コンラートとリアムは、その奇跡を目の当たりにし言葉もなかった。
「おお……! ゼノン様……! やはり天に選ばれしお方……!」
「アブの一刺し……いえ、神の一指しでこれほどの聖地を見つけ出されるとは……!」
リアムは感動のあまり若干言い間違えている。
エリオットはその一部始終を見て呆然としていた。
(……今、明らかにアブに驚いて指がずれただけではなかったか……? そしてその結果、ただの野原を指すはずが偶然にもあの修道院跡に……? なんと……なんと恐ろしいほどの幸運……!)
彼が事前に調査していた候補地の中に、実はあの修道院跡も含まれていたのだ。
「景観は良いが改修費用とアクセスの不便さが難点」として彼は提案を見送っていた。
しかし「天啓によって選ばれた聖地」という、これ以上ない大義名分を得てしまった今、費用や不便さなど、もはや些細な問題でしかない。
「よし、コンラートよ! 早速あの修道院跡を我がアカデミーの校舎として改修するのだ! ギルドの連中にも伝えよ! これも私の『天啓』であると!」
「ははーっ! かしこまりました!」
こうしてヴァルモン・スタイル・アカデミーの建設地は、一匹のアブがもたらした偶然と領主の壮大な勘違いによって奇跡的に決定された。
その場所は実務的には問題山積だが、物語性としてはこれ以上ないほどに完璧な場所だった。
エリオットはもはや、この領地で起こる出来事に論理的な予測を立てることを完全に諦めたのだった。
次なる課題は、この「聖地」をいかにして「アカデミー」へと変貌させるかである。
その重責はまたしても、何も知らないギルドの職人たちと、そして若き「芸術顧問」ルドルフの双肩にずっしりとのしかかるのであった。