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第44話 ゼノンの「熟考」とエリオットの秘かな賭け

 カウント・アイゼンミュラーが残した恫喝と疑惑の言葉は、ヴァルモン城の重臣たちの心に重くのしかかっていた。


 領主ゼノン・ファン・ヴァルモンが自室に引きこもり、珍しく「熟考」に入ってから数時間が経過していたが、具体的な指示は何も下りてこない。


 宰相コンラートは、執務室の前を何度も行ったり来たりしながら、生きた心地がしなかった。


(若様は、きっとこの国難を乗り越えるための深遠なる策を練っておられるのだ……。しかしあまりにもお時間が……。もしやお一人で抱え込み、お苦しみなのでは……?)


 彼の胃はもはや限界に近い悲鳴を上げていた。


 騎士リアムは城の練兵場で荒々しく剣を振り回し、その怒りと不安を紛らわそうとしていた。


「おのれグーデンブルクめ! そして、あのアイゼンミュラーとかいう無礼者! ゼノン様がご命令を下されれば、このリアム、真っ先に敵陣に斬り込んでくれるものを!」


 彼の頭の中では既にグーデンブルク王国との壮絶な——そして、ヴァルモン領が奇跡的に勝利する——戦いの絵図が描かれつつあった。


 一方、監察官エリオットは、自室で冷静に——しかし内心では焦燥感を抱えながら——情報を分析し、対応策を練っていた。


 アイゼンミュラーの言葉の端々から、彼がヴァルモン領の「奇妙な実態」に気づきつつも、その本質を掴みかねていること、そして、何よりも先代の負債という「弱み」を具体的に握っている——あるいは、そう見せかけている——ことが読み取れた。


(正面から反論しても武力で対抗しても、今のヴァルモン領に勝ち目はない。かといって相手の要求を鵜呑みにすれば、それこそグーデンブルクの思う壺だ……。何か、別の手が必要だ……)


 エリオットの脳裏に、これまでのヴァルモン領で起こった数々の「勘違いによる成功譚」が皮肉にも蘇ってくる。


 ゼノンの無茶苦茶な命令、コンラートの超絶的な好意的な解釈、リアムの盲目的な実行力、そしてなぜか結果的に良い方向へ転がっていく事態……。


(……まさか、とは思うが……)


 エリオットの頭に一つの大胆な、そして極めてリスキーな「賭け」が浮かんだ。それは、これまでのヴァルモン領の「成功パターン」を意図的に、そして最大限に利用するという前代未聞の策だった。


 その頃、ゼノンは自室で一人、混乱の極みにいた。


「熟考」などでは断じてない。


 父の遺品——ほとんどが悪趣味なガラクタだった——を引っ掻き回してみても、そこに「強敵を退ける秘策」など書かれているはずもなかった。父の言葉を思い出そうとしても、「力でねじ伏せろ」「気に入らぬ奴は潰せ」「金はいくらでも使え」といった、今の状況では全く役に立たない——むしろ逆効果な——ものばかりが浮かんでくる。


(父上なら、こんな時どうされたのだ……? あのアイゼンミュラーとかいう男、父上の威光が全く通用しなかったではないか……。借金……? ボルコフ……? 私の知らないところで、父上が何かまずいことでもされていたとでもいうのか……? いや、そんなはずはない! 父上は偉大だったのだから!)


 ゼノンの頭の中は父への絶対的な信頼と、目の前の厳しい現実との間でぐちゃぐちゃになっていた。いつものように「父上ならこうだ!」と、自信満々に命令を下すことができない。それは彼にとって初めての経験かもしれなかった。


 無意識のうちに、彼は自分の無力さを感じ始めていたのかもしれない。


 意を決したエリオットは、まずコンラートの執務室を訪れた。


「コンラート殿。領主閣下のご様子は?」

「それが……お部屋に籠られたきりで……。きっと我々の想像も及ばぬような、深遠なるお考えを……」


 コンラートは弱々しく答えた。

 エリオットはその言葉を遮るように、自分の考えを述べ始めた。


「コンラート殿。グーデンブルクに対し我々が取りうる手段は限られています。武力では勝ち目がない。財力でも、おそらく……。まともに交渉しようとしてもアイゼンミュラーのような相手には足元を見られるだけでしょう」


「ではどうすれば……。降伏するしかないとでも……?」


 コンラートの顔が、絶望に染まる。


「いえ。一つだけ、あるいは……可能性がある手が残されているかもしれません」

「な、なんですと!?」

「それは……ゼノン閣下の『真の偉大さ』を、アイゼンミュラーに、真正面からぶつけてみることです」

「若様の……真の偉大さ……?」


 コンラートは、きょとんとしてエリオットを見た。


「はい。アイゼンミュラーは我々を常識で測ろうとしています。ならば、我々はその常識の斜め上を行くのです。ゼノン閣下がこれまで示されてきた、あの『ヴァルモン・スタイル』の芸術、執務室の『無限の可能性』、記念碑の『深遠なる哲学』……。あれらを、我々ヴァルモン領の『真髄』として、堂々とアイゼンミュラーに提示するのです」


 エリオットの言葉はあまりにも突拍子がなかった。

 コンラートは最初、エリオットが正気を失ったのかと思った。

 しかしエリオットの目は、真剣だった。


「アイゼンミュラーはゼノン閣下を『理解不能な存在』として警戒し、そしてその『理解不能さ』故に、これ以上の深入りは危険だと判断するかもしれません。いわば、『狂気』を装い、相手の戦意を削ぐのです。……いや、ゼノン閣下の場合、装う必要もないかもしれませんが……」


 最後の言葉は小声だった。


 コンラートはエリオットの言葉を反芻した。

 狂気を装う……?

 ゼノン様の、あの芸術や哲学を、外交の武器に……?

 それはあまりにも奇抜な、そして危険な賭けだ。


 しかし……。


(……確かに、若様のお考えは常に我々の常識を超えておられる。そしてその結果、なぜか事態は良い方向へ転がってきた……。もしやエリオット殿の言う通り、若様のあの『理解不能さ』こそが我々の最大の武器になるというのか……!?)


 コンラートの脳内で、エリオットの奇策がゼノンの「深遠なる一手」へと急速に変換され始めていた。


「……分かりました、エリオット殿。あなたの提案、ゼノン様にご進言してみましょう。きっと若様も、この策の真の価値をお分かりになるはず……!」


 コンラートはいつものように——勘違いの炎を目に宿して——力強く頷いた。


 エリオットは内心——頼むから上手くいってくれ……。そして領主が余計なことを口走らないように、コンラート殿が上手く誘導してくれ……!——と、神に祈るような気持ちだった。


 こうしてヴァルモン領の命運を賭けた——かもしれない——前代未聞の「勘違い防衛策」が、静かに、しかし熱く——一部の人間の中で——練られ始めた。


 その中心には相変わらず何も知らない——そして、ただ混乱しているだけの——領主ゼノンがいる。

 彼がこの家臣たちの「秘かな賭け」に、どう応えるのか……。


 それはまだ誰にも予測できなかった。

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