第43話 激震!ヴァルモン城、沈黙の領主
強国グーデンブルク王国の使節長、カウント・アイゼンミュラーが突き付けた冷徹な言葉と、全てを見透かすような視線。それは、ヴァルモン城の広間に、凍りつくような沈黙と、これまで経験したことのない種類の緊張感をもたらした。
先代の借金問題、その処理方法への詰問、そして元有力職人ボルコフの名をちらつかせた情報網の誇示……。
アイゼンミュラーが悠然と退去した後も、広間に残された者たちはしばらく言葉を失っていた。
「……な、なんなのだあの男は……!」
最初に沈黙を破ったのは騎士リアムだった。
彼の顔は怒りで赤く染まり、拳を固く握りしめている。
「我が君ゼノン様に対しあのような無礼な態度! そして我がヴァルモン領の内政にまで口を出すとは! 許せませんぞ、ゼノン様! すぐにでも兵を出し、あの無礼者を……!」
「リアム殿、お静まりなさい!」
コンラートが珍しく強い口調でリアムを制した。
しかし、そのコンラートの声もわずかに震えている。
彼の顔面は蒼白で、額には脂汗が滲んでいた。
長年仕えた先代の悪政と、その負の遺産を誰よりも知る彼にとって、アイゼンミュラーの言葉は悪夢の再来を予感させるものだった。
(……まずい。非常にまずいぞ……。あの男、ただの使者ではない。グーデンブルクは本気で我が領の内情を探り、そして何らかの形で干渉しようとしている……。ボルコフの名まで出すとは……情報が筒抜けなのか……!?)
コンラートの胃は再び激しい痛みで締め付けられるのを感じた。
監察官エリオットも厳しい表情で黙り込んでいる。
彼の分析では、アイゼンミュラーの恫喝は単なる脅しではなく、具体的な行動を伴う可能性が高い。
そして、その背後にはグーデンブルク王国の明確な国家戦略が見え隠れしていた。
(ヴァルモン領のこの奇妙な安定と発展がかえって彼らの警戒心を煽ったか……。あるいは、これを機に弱体化したと見なした小領主を併呑しようといういつもの手口か……。いずれにせよ厄介なことになった……)
家臣たちがそれぞれの形で狼狽し、危機感を募らせる中、当の領主ゼノン・ファン・ヴァルモンは珍しくただ黙って玉座に座っていた。
いつものように尊大にふんぞり返ってはいるものの、その表情は硬く、視線は虚空を彷徨っている。
アイゼンミュラーの言葉が彼の頭の中で反芻されていた。
(父上の借金……。私が「踏み倒せ」と命じ、それで全て解決したはずではなかったのか……? なぜあの男は、さも当然のようにその詳細を知っている? 「強引な手法」……? 「未だ清算がお済みでないものが」……? 私の知らないところで何か問題が残っているというのか……?)
初めてゼノンの脳裏に、父の「偉大な統治」に対するほんのわずかな疑問符が浮かんだ。
いや疑問というよりは理解不能な現実を前にした、純粋な「混乱」に近い。
父上のやり方は常に完璧で、絶対的な力で全てを解決してきたはずだ。
それなのに、なぜ今になってこんな横槍が入るのだ?
そして、ボルコフ……やっと思い出したが、あの自分が「慈悲深く」見逃してやった鍛冶屋が、なぜグーデンブルクと繋がっている……?
いつものように「父上ならば、こうされたはずだ!」という威勢の良い言葉がすぐに出てこない。
彼の頭の中では、これまで絶対的なものとして信じてきた「父の教え」と、アイゼンミュラーが突き付けた「現実」とがうまく結びつかないのだ。
その結果が今の「沈黙」だった。
コンラートは、そんなゼノンの珍しい沈黙を見て内心で別の解釈を始めていた。
(おお……若様……。この国家の危機を前に、いつものように即断されるのではなく、深く、深く、お考えを巡らせておられる……! アイゼンミュラーの言葉の裏、グーデンブルクの真の狙い、そして我がヴァルモン領が取るべき最善の策を……! なんという重圧……! この沈黙こそ真の指導者の苦悩と、偉大なる決断の前触れなのだ!)
コンラートの目には、ゼノンの単なる混乱と戸惑いによる沈黙が、またしても「深遠なる熟考」に映っていた。
彼はゼノンが何かとてつもない「奇策」を思いつくのを固唾を飲んで見守るしかない――と思い込んでいる。
リアムも主君の沈黙を、「怒りを内に秘め、反撃の機会を冷静に分析しておられるのだ」と、いつものように熱く解釈していた。
エリオットだけがゼノンの表情に、普段とは違うほんのわずかな「戸惑い」や「不安」のようなものが見え隠れするのを感じ取っていた。
(……これは……。いつもの根拠のない自信に満ちた態度とは少し違うな。まさか、あのアイゼンミュラーの言葉が本当に彼に何か影響を与えたというのか……? あるいは、ただ自分の理解を超える事態に思考が停止しているだけか……?)
エリオットは、ゼノンの変化を、注意深く観察しようと試みた。
もし、彼が本当に「父の模倣」以外の行動を取り始めるのだとしたら、それはヴァルモン領にとって吉と出るか凶と出るか……。
重苦しい沈黙がしばらく広間を支配した。
やがて、ゼノンはゆっくりと顔を上げ、か細い声で一言だけ呟いた。
「……コンラートよ。少し頭を冷やしたい。下がって良い」
「は、ははっ! かしこまりました! 我々は若様のご命令をいつでもお待ち申し上げております!」
コンラートは、それが「熟考の末の、次なる一手への準備」だと信じ、恭しく頭を下げた。
リアムもエリオットもそれに倣う。
家臣たちが退出した後、一人執務室に残されたゼノンは再び玉座に深く腰掛け、大きく息を吐いた。
彼の胸中には、初めて感じる種類の重苦しい圧迫感と、そしてどうすれば良いのか分からないという、純粋な戸惑いが渦巻いていた。
父上のやり方は絶対ではなかったのか……?
その小さな疑問の種はまだ芽吹いたばかりだったが、確かにゼノンの心に植え付けられたのかもしれない。
ヴァルモン領を揺るがす激震はまだ始まったばかりだった。