第37話 威厳ある執務
領主ゼノン・ファン・ヴァルモンの執務室は、若き「天才芸術家(?)」ルドルフと、監察官エリオットの導き、そしてギルドの職人たちの最高の技術によって、見事に生まれ変わった。
そこは、最高級の素材が持つ静謐な美しさと、極限まで削ぎ落とされたシンプルさが同居する、ある意味で非常にモダンな空間となっていた。
もちろん、ゼノン自身は、これを「多くを語らぬ威厳」「無限の可能性」を体現した、自身の深遠なる哲学の表れだと、完全に勘違いしている。
改装が終わり、数日が経った。
ゼノンは、真新しい執務室で、領主としての「威厳ある執務」にいそしむ練習をすることにした。
父上ならば、この素晴らしい空間で、いかにしてその権威を示しただろうか?
(ふむ……。まずは、この机だな)
ゼノンは、部屋の中央に鎮座する、巨大な一枚板で作られた執務机の前に立った。
装飾は一切ないが、磨き上げられた表面は鏡のように光を反射し、圧倒的な存在感を放っている。
「そうだ。父上は、いつも机にどっかと座り、難しい顔をして書類に目を通しておられた。あれこそ、領主の威厳だ!」
ゼノンは、父の真似をして、勢いよく椅子に腰掛けた。
椅子も、机に合わせて作られた、シンプルだが重厚なデザインだ。
「よし。次は……書類だな」
彼は、机の上に用意されていたコンラートが置いていったいくつかの書類の束に手を伸ばした。
内容は、領内の収支報告や、ギルドの活動報告、隣領との交易に関する覚書など、彼にとっては退屈極まりないものばかりだ。
「ふん、細かいことばかりだ……」
彼は、父のように、書類に目を通している「ふり」をすることにした。
一枚一枚、ゆっくりとめくり、時折、難しい顔をして眉間にしわを寄せて唸ってみせる。
そして、ペンを取り、意味もなく書類の隅にサインを書き殴ってみたりする。
「……ふぅむ……。これは、許可できんな……」
「……うむ、これは良かろう……」
誰も聞いていないのに、わざとらしく独り言を呟いてみたりもする。
彼は、自分が今、非常に「領主らしい」仕事をしていると、完全に思い込んでいた。
その様子を、扉の隙間から、側近騎士のリアムが、感涙にむせびながら見守っていた。
(おお……! ゼノン様……! あのように真剣な眼差しで、領地の未来を左右する書類に目を通しておられる……! あのシンプルで威厳に満ちた執務室は、まさにゼノン様の知性と決断力を、さらに引き立てているようだ! なんと頼もしきお姿!)
リアムの目には、ただ書類を眺めて唸っているだけのゼノンの姿が、国を憂う偉大な指導者の姿に映っていた。
しばらく書類と格闘する「ふり」に飽きたゼノンは、次に、部屋の中を歩き回ることにした。
(父上は、執務の合間に、よく部屋の中をゆっくりと歩き回り、物思いに耽っておられた。あれは、領地の未来について、深く、深く、思考を巡らせていたに違いない!)
ゼノンは、父のように、腕を組み、難しい顔をして、部屋の中をゆっくりと歩き始めた。
磨き上げられた石の床は、彼の足音を静かに反射する。
壁には何もなく、黒曜石の本棚には、まだほとんど本は入っていない。
がらんとした空間が、彼の「孤独な思索」を演出しているように、彼には思えた。
(うむ……。この静けさ……。実に良い。思考が冴えわたるようだ……)
彼は、壁に向かって立ち止まり、じっと虚空を見つめてみたり、窓の外を眺めて、遠い目をしてみたりする。
もちろん、頭の中では、今晩の夕食のことや、次にどんな「父上の真似」をしようか、などと考えているだけなのだが。
ちょうどその時、コンラートが、報告のために執務室を訪れた。
彼は、部屋の中をゆっくりと歩き回り、時折、壁や窓の外をじっと見つめるゼノンの姿を見て、息をのんだ。
(おお……若様……! この静謐な空間で、一人、領地の未来について、深く、深く、お考えになっておられる……! なんと孤独で、そして重い責務を背負っておられることか……!)
コンラートは、ゼノンの単なる暇つぶしの姿に、深い感動と、そして宰相として彼を支えねばならないという、強い使命感を覚えた。
彼は、ゼノンの「思索」を邪魔すまいと、そっと扉を閉め、後で改めて訪れることにした。
一人になったゼノンは、さらに「領主らしい振る舞い」を追求した。
(そうだ! 威厳を示すには、時には『怒り』も必要だ! 父上は、よく些細なことで激怒し、その恐ろしさを示しておられた!)
彼は、突然、机をバン!と叩いた。
しかし、最高級の一枚板で作られた机は、びくともしない。
ゼノンの手の方が、じんじんと痛んだ。
「い、いかん……。もう少し、こう……内なる怒りを表現するような……」
彼は、今度は、ペン立てにあった羽根ペンを、床に叩きつけてみた。
軽い羽根ペンは、ひらひらと舞い落ちるだけで、全く迫力がない。
(……むぅ。なかなか難しいものだな、威厳ある怒りというものは)
彼は、少ししょんぼりしてしまった。
その時、ふと、壁に何か足りないことに気づいた。
「そうだ! 父上の執務室には、確か、父上の立派な肖像画が飾ってあったはずだ! この部屋にも、私の肖像画を飾れば、もっと威厳が出るに違いない!」
彼は、名案を思いついたとばかりに、すぐにコンラートを呼び戻そうとした。
しかし、扉を開けると、ちょうどそこには、監察官エリオットが、次の報告のために立っていた。
「おお、監察官殿! 丁度良いところに!」
ゼノンは、エリオットに向かって、意気揚々と言った。
「貴様に、良いことを教えてやろう! この部屋にはな、まだ『画竜点睛』を欠いておるのだ! それは何か分かるか? そう! 領主たる私の、威厳に満ちた肖像画だ! すぐに最高の絵師を探し、私の肖像画を描かせるのだ!」
「……肖像画、でございますか」
エリオットは、反射的に答えたが、内心では(また始まった……)と、深い疲労感を覚えていた。
この、極限までシンプルに整えられた空間に、領主の肖像画……。
考えただけで、空間全体のバランスが崩壊するのが目に見えている。
(しかし、ここで反対すれば、また面倒なことになる……。どうしたものか……)
エリオットが対応に苦慮していると、偶然、ゼノンの言葉を聞きつけたコンラートが、慌ててやってきた。
「若様! 肖像画、誠に素晴らしいお考えです! しかし、若様の『無限の可能性』を、一枚の絵に収めるなど、いかなる名画伯にも不可能かと! むしろ、このシンプルで完成された空間そのものが、若様の偉大さを最もよく表しているのでは……?」
コンラートは、必死の形相で、ゼノンの新たな思いつきを阻止しようと試みた。
「む……? 私の可能性は、絵に収まりきらぬ……? この空間そのものが、私を表している……?」
ゼノンは、コンラートの言葉を反芻した。
それは、彼の自尊心を、非常にくすぐる響きを持っていた。
(……なるほど! そうか! 私の偉大さは、もはや肖像画などという、ちっぽけな枠には収まらないのだ! この部屋全体が、私の肖像なのだ! コンラートめ、なかなか良いことを言うではないか!)
ゼノンは、またしても完璧な解釈に至った。
「……ふん。コンラート、貴様の言うことにも一理あるな。よかろう、肖像画の件は、保留としよう。私の偉大さを表現するには、まだ時機が熟しておらんのかもしれん」
彼は、さも寛大な配慮を見せたかのように、肖像画の計画を撤回した。
コンラートとエリオットは、胸を撫で下ろした。
その様子を扉の外で聞いていたリアムは、主君の深いお考えと、それを的確に進言した宰相のコンビネーションに、改めて感服していた。
こうして、ゼノンの「威厳ある執務の練習」は、特に何も生み出すことなく終わり、執務室がさらなる悪趣味に汚染される危機も、かろうじて回避された。
ゼノンは、今日も一日、立派な領主として振る舞えたと、大満足でまだ何も描かれていない書類に、意味のないサインを書き続けるのだった。