第30話 初めての交易と領主の威光
隣領のバルツァー卿との間で結ばれた「友好的な協力関係の模索」という名の合意に基づき、ヴァルモン領職人ギルドの製品を試験的に交易する日がやってきた。
両領の境界近くにある小さな町で、ささやかな交易市が開かれることになったのだ。
ヴァルモン領からは、宰相コンラートが責任者として赴き、監察官エリオットも補佐役として同行した。
もちろん、ギルド長のゲルトをはじめ、今回交易に出す製品を作った職人たちも、期待と不安を胸に、荷馬車に揺られてやってきている。
そして、当然のように、領主ゼノン・ファン・ヴァルモンも、騎士リアムを伴って「領主自らの視察」という名目で、この記念すべき第一回交易市に臨席していた。
「ふん。バルツァーの連中は、まだ来ておらんのか? 随分と待たせるではないか。我がヴァルモン領との交易を、なんだと思っておるのだ」
ゼノンは、会場に設けられた簡素な天幕の下で、椅子にふんぞり返りながら不機嫌そうに呟いた。
彼は、この交易も、自分の威光によって相手が申し入れてきたものだと信じており、相手がへりくだって当然だと考えている。
コンラートが、冷や汗をかきながら取り繕う。
「も、申し訳ございません。約定の時間までは、まだ少々……。バルツァー卿も、今回の交易には大変な期待を寄せておられるとのこと。きっと、素晴らしい品々を用意してくださっていることでしょう」
やがて、バルツァー領側からも、担当の役人と数人の商人、そして荷馬車が到着した。
彼らは、ヴァルモン領の領主が直々に臨席していることに少し驚きながらも、丁重に挨拶を述べた。
「これは、ゼノン閣下。ようこそお越しくださいました。本日は、両領の友好の第一歩となる、記念すべき日でございますな」
バルツァー領の担当役人は、笑顔でそう言った。
ゼノンは、鼻を鳴らして応える。
「ふん。貴様らが、我が領の優れた産品に目を付けたのは、賢明な判断だ。せいぜい、ありがたく買い付けるが良い」
その尊大な態度に、バルツァー領の役人と商人たちは、一瞬、顔を引きつらせたが、すぐに気を取り直した。
(なるほど、噂通りのお方だ……)と、彼らは内心で思った。
まずは、ヴァルモン領側から、ギルドが用意した製品が披露された。
ゲルトたちが中心となって製作した、シンプルだが頑丈な作りの木製家具、落ち着いた色合いで実用的な陶器、そして、良質な革を使った丈夫な袋物などだ。
これらは、領主ゼノンが「地味だ」と一蹴したものだが、エリオットとコンラートが「まずは、こういう実用品から」と説得し、交易品として用意されたものだった。
バルツァー領の商人たちは、それらの品々を手に取り、注意深く検分し始めた。
彼らの表情は、真剣そのものだ。
ヴァルモン領といえば、先代の悪政の影響で、粗悪な品物ばかりが出回っているという印象が強かった。
しかし、目の前にある品物は、明らかに質が良い。
「ほう……この椅子、なかなか良い作りだな。木材も上質だ」
「この陶器も、厚手で丈夫そうだ。普段使いにはもってこいだな」
「革袋も、縫製がしっかりしている。これなら長く使えそうだ」
商人たちの間から、感心の声が漏れ始めた。
彼らは、ヴァルモン領の製品に対する評価を、改める必要性を感じていた。
ギルド長のゲルトや、製品を作った職人たちは、その反応を見て、ほっと胸を撫で下ろし、同時に誇らしげな表情を浮かべた。
一方、ゼノンは、商人たちが地味な椅子や壺を褒めているのが、面白くなかった。
(ふん、見る目のない奴らめ。あんな地味なものの良さが分かるとは。やはり、私が先日『素晴らしい』と認めた、あの金ピカの芸術品こそ、真の価値があるというのに……)
彼は、自分の美的感覚が理解されないことに、少し苛立ちを感じていた。
次に、バルツァー領側の商品が披露された。
彼らが持ち込んだのは、ヴァルモン領ではあまり生産されていない、質の良い織物や、装飾が施された金属製品などだった。
ゼノンは、それらを見て、少しだけ興味を示した。
「ほう、なかなか派手ではないか。悪くない」
特に、光沢のある織物に目を留めた。
父ならば、こういうものを好んで身に着けていたはずだ。
「よし! あの布地は、全て私が買い取ろう! 私の新しい服を作るのだ!」
ゼノンは、突然、そう宣言した。
値段交渉も何もあったものではない。
「は……はぁ!? 全て、でございますか……?」
バルツァー領の商人は、驚いて聞き返した。
確かに良い品だが、領主個人の服のために全て買い取るというのは、尋常ではない。
コンラートが、再び慌てて間に入る。
「わ、若様! こちらの織物は、確かに素晴らしいものですが、まずは見本として少量を購入し、我が領の職人に研究させてはいかがでしょう? あるいは、ギルドを通じて、領内の商人たちにも紹介し、需要を見極めるのが……」
「黙れ、コンラート!」
ゼノンは、コンラートの言葉を遮った。
「領主たる私が欲しいと言っているのだ! それが、我がヴァルモン領の『需要』だ! 値段など、くれてやれ!」
彼は、財布の心配など一切せず尊大に言い放った。
バルツァー領の役人と商人たちは、顔を見合わせた。
こんな無茶苦茶な取引があっていいのだろうか?
しかし、相手は領主だ。
しかも、言い値で買ってくれるという。
断る理由は、ない。
「……か、かしこまりました! ゼノン閣下、ありがとうございます!」
商人は、満面の笑みで頭を下げた。
コンラートは、頭を抱えた。
またしても、領主の暴走だ。
貴重な交易の機会が、領主の個人的な浪費に消えていく……。
しかし、彼はすぐに無理やり考えを切り替える。
(……い、いや、これも若様なりの『外交術』なのかもしれない。あえて気前の良さを見せつけることで、相手に恩を売り、今後の交渉を有利に進めようという……。そ、そうに違いない!)
リアムは、主君の「男気溢れる決断」に、深く感動していた。
「さすがはゼノン様! 些細な利益にこだわらず、欲しいものは全て手に入れる! これぞ、真の覇者の器!」
エリオットは、もう何も言うまい、と空を見上げていた。
(……買っちゃったよ、全部。あの布地、確かに質は良いが、あんなに大量にどうするんだ……? ああ、また城の倉庫に無駄な在庫が増えるのか……。いや、待てよ? あの布地、ギルドの織物職人が研究すれば、新しい技術開発に繋がる……可能性も、なくはない……か? ……いや、考えすぎだな)
彼は、この領地で起こる全ての出来事を、良い方向に解釈しようとすること自体が、間違いなのかもしれない、と思い始めていた。
結局、第一回の交易市は、ヴァルモン領の製品が予想外のまともな評価を受け、一方で領主が隣領の製品を無計画に大量購入するという、ちぐはぐな結果に終わった。
それでも、両領の間には、確かに新たな交流の糸口が生まれた。
バルツァー領の役人と商人たちは、ヴァルモン領の「質の良いが、領主は奇妙な国」という、新たな印象を抱いて帰路についた。
ゼノンは、大量の布地を手に入れ、大満足で城へ戻った。
ヴァルモン領の未来は、相変わらず、多くの勘違いと、一握りの実務家の苦労によって、ゆっくりと、そして奇妙な方向に進んでいくのだった。