第3話 その評判、聞きましたか?
ゼノンが領主となってから、ひと月ほどが過ぎた。
彼の意図とは裏腹に、領内には僅かながら、しかし確実な変化が起こり始めていた。
リアム率いる騎士たちの活躍で街道の治安は目に見えて改善された。
コンラートの指示で行われた最低限の街道補修と、治安の回復により、ヴァルモン領を通過する商人の数は少しずつ増え、宿場町には以前よりも活気が戻っていた。
重税は変わらないものの、理不尽な搾取や徴税吏の不正がなくなったことで、領民たちの表情にも、ほんの少しだけだが明るさが差してきたように見える。
もちろん、人々は依然として新しい領主を恐れてはいる。
だが、その恐怖の中に、「もしかしたら」という淡い期待が混じり始めていることには、誰も気づいていなかった。
もちろん、ゼノン自身も。
「ふむ……。最近、城の中がどうにも古臭く感じるな」
ゼノンは、自室の窓から中庭を眺めながら呟いた。
領主としての威厳を示すには、もっとこう、豪華絢爛さが必要なのではないか?
父はよく、城のあちこちを改築しては悦に入っていた。
そうだ、父の書斎に、奇妙な設計図があったはずだ。
実用性など全く考慮されていないように見えたが、父がわざわざ残していたものだ。
きっと、あれこそが領主の城にふさわしい、威厳ある姿なのだろう。
「コンラート! 例の設計図を持ってまいれ! 父上の書斎にあったやつだ」
「はっ、承知いたしました」
すぐにコンラートが、埃をかぶった羊皮紙の束を持ってきた。
広げられた設計図を見て、ゼノンは満足げに頷く。
複雑怪奇な装飾、無駄に広い廊下、意味の分からない小部屋……。
ゼノンにはその良さが全く理解できなかったが、父が良しとしたものならば、それが正解なのだ。
「よし! この設計図通りに、城を改築するぞ! 私の居城にふさわしく、もっと豪華にするのだ!」
「なっ……!?」
コンラートは絶句した。
ただでさえ財政は火の車だというのに、こんな実用性の欠片もない、悪趣味な改築に金をかけるなど……!
先代の浪費癖が、若様にまで受け継がれていたというのか!
コンラートは眩暈を覚えた。
しかし、諦めかけたその時、またしても彼の(都合の良い)解釈回路が作動した。
(待てよ……? この複雑な構造……一見、無駄に見えるこの小部屋の配置……。それに、この妙に入り組んだ廊下……。まさか、これは……城の防衛機能を高めるための設計なのでは!? 有事の際に敵を惑わせ、要所に兵を隠し、効率的に迎撃するための……!)
コンラートは設計図を食い入るように見つめる。
そう思って見れば、単なる悪趣味な装飾に見えたものも、何か防衛上の意味を持つ隠し狭間か何かに見えてこないこともない。
(なんと……! 若様は、贅沢な改築を装って、実は城の守りを固めようと……! 我々家臣にすら真意を悟られぬよう、あえてこのような奇抜な設計図を……! 深すぎる……!)
隣で設計図を覗き込んでいたリアムも、コンラートの表情の変化に気づき、そして(勝手に)納得した。
「すごい……! 一見、無駄な改築に見せかけて、その実、城の防御力を飛躍的に高めるための改築案だったとは! 敵の目を欺くための高等戦術! さすがはゼノン様です!」
「……防御?」
ゼノンはまたしても首を傾げる。
(父上の道楽に、そんな深い意味があったとは初耳だが……? いや、私が気づかなかっただけで、父上のことだ、あるいは本当にそうだったのかもしれん。そうだ、そうに違いない!)
ゼノンは、父の偉大さを再確認し、勝手に納得した。
(まあ、理由は何であれ、私の命令通り城が豪華になれば良いのだ)
「うむ。その通りだ。……と、父上なら言ったであろうな。とにかく、この計画を進めよ」
ゼノンは、知ったかぶりをしつつ、命令を下した。
「「ははーっ!」」
こうして、ゼノンの「父の浪費の真似(威厳を示す目的)」命令は、「城の防衛力強化計画」として、コンラートの指揮下で進められることになった。
もちろん、コンラートは莫大な費用のかかる設計図通りの改築など許可するはずもなく、予算内で可能な範囲で、かつ本当に実用的な防衛上の補強(壁の補強、見張り台の改修など)を優先して行うよう、指示を修正した。
結果として、ゼノンの意図した「豪華絢爛な城」にはならなかったが、ヴァルモン城の防御機能は、ほんの少しだけ向上することになったのだった。
そんなある日。
ヴァルモン領に使者が訪れた。
隣接する領地の領主、バルツァー卿からの使者である。
表向きは「若き新領主への就任祝いと、先代への弔意」を伝えるため、ということだったが、その実、先代亡き後のヴァルモン領の混乱ぶりと、若いゼノンの器量を探りに来たのは明らかだった。
バルツァー卿は、先代とは犬猿の仲であり、ヴァルモン領の弱体化を虎視眈々と狙っているという噂もあった。
使者は年の功を笠に着た、やや尊大な態度の男だった。
広間でゼノンと対面すると、慇懃無礼な挨拶の後に、探るような視線をゼノンに向ける。
「ほう……これがかのヴァルモン卿のご子息か。お若いが、父君の跡を継がれるとは、さぞご苦労も多いことでしょうな。なにせ、あの父君のこと……色々と『引き継ぐ』ものも多いでしょうからな?」
嫌味ったらしく、先代の悪評や負債を匂わせる言葉だ。
ゼノンはカチンときた。
(なんだこの男は? 父上を、そしてこの私を侮辱する気か!)
父ならば、ここで激怒し、相手を罵倒し、あるいは斬り捨てていたかもしれない。
そうだ、弱みを見せてはならない。
舐められては終わりだ。
父のように、威厳をもって、この無礼者を黙らせてやらねば!
「黙れ、無礼者めが!」
ゼノンは、精一杯の威厳を込めて一喝した。
「我が父上の偉大さが分からぬか! このヴァルモン領の、そして私の力を侮るというのなら、それ相応の覚悟があるのだろうな!?」
内心では少しドキドキしていたが、表情には出さないように努める。
使者は、ゼノンの予想外に強い態度に一瞬怯んだ。
そして、改めてゼノンの周囲に目を向ける。
ゼノンの背後に控える騎士たち(リアム含む)は、以前のヴァルモン領の騎士たちとは明らかに違う。
数は少なくとも、その装備は(リアムの努力で)以前より整っており、何よりその目には士気の高さが窺える。
宰相のコンラートも、若き主君の「恫喝」に動じる様子もなく、冷静沈着に控えている。
(なんだ……? この城の雰囲気は……? 噂では、先代が死んで混乱し、ただの世間知らずの若造が跡を継いだとばかり……。だが、この若造、妙に肝が据わっている。家臣も、以前とは比べ物にならんほど統制が取れているように見える……)
使者は、道中で見聞きした城下の様子も思い出した。
治安が改善され、商人が戻りつつあるという話。
それは、単なる噂ではなかったのかもしれない。
この若き領主、ゼノン・ファン・ヴァルモンは、侮れない。
父とは違うタイプの、油断ならぬ「やり手」なのかもしれない……。
使者の顔から、尊大な色がすっと消えた。
「……これは、大変失礼いたしました。ゼノン様のお気持ちを害するつもりは毛頭ございませんでした。どうかお許しを。我が主、バルツァー卿は、今後ともヴァルモン領との友好な関係を望んでおります」
彼は深々と頭を下げ、その後は当たり障りのない挨拶を交わして、早々に城を辞去していった。
使者が去った後、ゼノンは満足げに鼻を鳴らした。
(ふん、私の威厳に恐れおののいたようだな! 父上のやり方は、やはり外交においても通用するのだ!)
一方、コンラートとリアムは、顔を見合わせていた。
コンラート「……若様、お見事でございました。あの無礼な使者を、一喝の下に黙らせるとは」
リアム「はい! あの傲慢な使者が、最後は震え上がって平伏していました! ゼノン様の胆力、そして外交手腕、恐れ入りました!」
二人は、ゼノンが単に父の真似をして怒鳴っただけだとは露知らず、その「交渉術」に心から感服していた。
帰還した使者は、主君バルツァー卿に「ゼノン・ファン・ヴァルモン、若年ながら侮りがたし。父とは違うやり方で、領内を立て直しつつあるやもしれませぬ。下手に手出しはせぬ方が賢明かと」と報告した。
この報告は、周辺領主たちの間に少しずつ広まり、「悪徳領主の息子」ゼノンに対する評価を、徐々に(勘違いの方向に)変えていくことになる。
その頃、城の書庫で財政状況を再確認していたコンラートは、古い棚の奥から、埃をかぶった木箱を発見した。
中に入っていたのは……先代領主が、周辺の悪徳商人や貴族から個人的に借り入れたことを示す、大量の借用書だった。
その総額は、ヴァルモン領の年間予算を遥かに超える、天文学的な数字だった。
コンラートは、借用書の束を手に、再び激しい胃痛に襲われるのだった……。