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第23話 監察官は考えた(そして諦めた)

 ヴァルモン領に滞在する王都からの監察官、エリオット・フォン・クラウゼンは、最近、深い思索に耽る時間が増えていた。

 いや、思索というよりは、純粋な混乱と、それを何とか整理しようとする徒労に近いかもしれない。


 彼の目の前で、この辺境の領地は、奇妙な形で、しかし確実に変化を遂げている。

 治安は改善され、街道には活気が戻りつつある。

 職人ギルドが発足し、新しい農法が導入され、孤児院まで設立された。

 城門前には、未来への希望の象徴とされている石柱が聳え立つ。

 客観的に見れば、これらは全て「善政」の結果と言えるだろう。


 しかし、問題はその中心にいる(はずの)領主、ゼノン・ファン・ヴァルモンである。

 エリオットが観察する限り、彼はこれらの改革に主体的に関わったとは到底思えない。

 彼の行動は、常に父である先代悪徳領主の模倣(しかも、本人はそれを偉大な統治術だと信じている)であり、その言動は尊大で、幼稚で、支離滅裂だ。


 だが、なぜか彼の行動は、宰相コンラートや騎士リアムによって常に深謀遠慮と解釈され、結果的に領地が良い方向へ向かうきっかけとなっている。

 領民たちも、当初の恐怖心は薄れ、今では「厳しいが、民を思う(あるいは、可愛い一面もある)領主様」として、ある種の信頼さえ寄せ始めているように見える。


(……理解不能だ)


 エリオットは、自室で報告書の草案を前に、何度目か分からない溜息をついた。

 王都に提出すべき報告書は、事実を客観的に記述しようとすればするほど、矛盾に満ちた奇妙な内容になってしまう。


(ゼノン・ファン・ヴァルモン領主の下、ヴァルモン領は著しい改善を見せている。しかし、その政策決定過程は極めて非論理的であり、領主自身の資質には大きな疑問符が付く……。こんな報告書、宰相閣下や陛下にどう説明すればいいのだ……?)


 彼は、報告書の提出を、もう少し先に延ばすことを決意した。

 もう少しだけ、この不可解な領主と、奇妙な領地の行く末を見届ける必要がある。


 そして、エリオットは、一つの試みをすることにした。

 これまで、領主ゼノンとの対話は、彼の気まぐれな視察や、宴席での一方的な自慢話などが中心だった。

 今度は、こちらから正式にアポイントメントを取り、領地の具体的な政策について、一対一で、論理的に話し合ってみよう、と。

 もしかしたら、彼の「深謀遠慮」(と家臣たちが信じるもの)の一端に触れることができるかもしれない。

 あるいは、彼の無知と勘違いを明確に認識することで、今後の対策を立てやすくなるかもしれない。


 エリオットは、コンラートを通じてゼノンに面会を申し込み、許可を得た。

 彼は、これまでの改革の成果と、今後の課題(財政問題、人材育成、他領との関係改善など)をまとめた資料を手に、緊張感を隠しながら執務室へ向かった。


「……ふん。監察官殿か。また何か面倒な用件か?」


 ゼノンは、相変わらずの尊大な態度でエリオットを迎えた。

 内心では(この男も、そろそろ私の偉大さを理解し、媚びへつらいに来たか?)などと考えている。


「はっ。本日は、これまでの領地改革の進捗をご報告申し上げると共に、今後のヴァルモン領の発展に向けた、いくつか具体的な提案について、領主閣下のご意見を賜りたく、参上いたしました」


 エリオットは、努めて冷静に、そして丁寧に切り出した。

 彼は、用意した資料を広げ、農業生産性の向上、ギルドによる新商品開発の奨励、孤児院出身者の就労支援、そして逼迫した財政状況の改善策などを、順序立てて説明し始めた。


 しかし、ゼノンは、エリオットの小難しく、退屈な説明に、早々に飽きてきていた。

 財政? 人材? そんな細かいことは、下の者がやればいいことだ。

 領主たるもの、もっと大局的な、威厳に満ちたことを考えるべきなのだ。

 父上なら、こんな時、どうしただろうか?


(そうだ! 父上は、難しい話は『ふん』と一蹴し、もっと重要な『力』の話をされたはずだ!)


 ゼノンは、エリオットの説明を遮るように、口を開いた。


「……監察官殿。貴様の言うことも分からんでもないが、それは些末なことだ」

「は……? 些末、と仰いますと……?」


 エリオットは、自分の説明が全く響いていないことに愕然としながら聞き返す。


「そうだ。領地経営において、最も重要なことは何か、教えてやろう」


 ゼノンは、偉そうに胸を反らし、父の受け売り(と彼が信じるもの)を語り始めた。


「それは、『力』だ! 圧倒的な『力』! 軍事力、財力、そして何より、領主たる私の『威光』! これさえあれば、他の全ては些末な問題に過ぎん!」


 ゼノンは、ビシッとエリオットを指さして言い放った。


「農業がどうとか、職人がどうとか、そんな細かいことを気にする暇があるなら、もっと兵を鍛え、金を稼ぎ、私の威厳を高めることに注力すべきなのだ! 父上も、常にそう仰っていた!」


 もちろん、先代が言っていた「金稼ぎ」は、民からの搾取のことだったが、ゼノンはそれを正当な富国強兵策だと信じている。


「…………」


 エリオットは、完全に言葉を失った。

 開いた口が塞がらない、とはこのことだ。

 具体的な政策論議をしようとした相手から返ってきたのは、あまりにも前時代的で、短絡的で、そして危険な精神論だった。


(力……だと? 軍事力? 威光? 本気で言っているのか、この若者は……? これでは、父君と同じ道を……いや、それ以上に酷い……)


 エリオットは、ゼノンとの論理的な対話は不可能であると、この瞬間、明確に悟った。

 彼の「深謀遠慮」など、どこにも存在しない。

 あるのは、父への盲信と、壮大な勘違い、そして根拠のない自信だけだ。


「……なるほど。領主閣下のお考え、よく分かりました」


 エリオットは、表情を消し、静かに言った。

 もはや、反論する気力も、説得する意欲も湧いてこない。


「貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。本日はこれで失礼いたします」


 彼は、用意してきた資料を鞄にしまうと、深々と一礼し、足早に執務室を後にした。


 一人残されたゼノンは、満足げに頷いていた。


(ふん、あの監察官も、ようやく私の偉大さと、父上の教えの正しさを理解したようだな。これで、もう細かいことで私を煩わせることもなくなるだろう。実に結構なことだ)


 彼は、自分の「力」による説得が成功したと、完全に勘違いしていた。


 執務室を出たエリオットは、重い足取りで自室へと向かいながら、天を仰いだ。


(……駄目だ。もう、考えないことにしよう。この領地がどうなるかは、もはや神のみぞ知る、だ。私は、監察官として、ただ事実を記録し、できる範囲で、目の前の問題に対処していくしかない……)


 エリオット・フォン・クラウゼンは、この日、ついに若き領主ゼノン・ファン・ヴァルモンの理解を諦めるという、ある意味で最も合理的な結論に達したのだった。

 彼のヴァルモン領での苦悩は、まだ始まったばかりである。

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