9.レフリレイア
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自分の部屋に戻る最中、アイナは大声で呼び止められた。
「ちょっと、あなた! そこで何をしているの?」
立っていたのは美しい衣装に身を包んだ女性だった。
アイナよりやや年上で、緑がかった髪をたっぷりと背中に垂らしている。
彼女は美しい眉を吊り上げて、アイナを高慢に見下ろした。
「お前、新しい召使いかしら? ここはお前のような下賤の者が入れる場所じゃなくってよ。分かったらさっさと出てお行き」
「あ、あの、私……」
「まあ、下賤な身の上で、わたくしに直接話しかけるなんて。礼儀というものを知らないようね」
嫌そうにアイナを見る表情は、狼の国の人々を彷彿とさせた。反射的にアイナは頭を下げた。
「も、申し訳ございません。失礼な真似を……」
「あら、謝ることくらいはできるのね。まあいいわ、許してあげる」
フンと鼻を鳴らし、女性は優雅に扇を広げた。
「さっさとわたくしの目に入らないところへ行きなさい。言っておくけれど、次はないわよ。この城から叩き出してやるから、覚悟なさい」
「は、はい。あの」
「それ以上口を開かないでちょうだい。ああ、嫌だ嫌だ。臭いが移る」
女性が顔をしかめたところで、「アイナ様!」という声がした。
「お庭にいらっしゃらないので、どこに行ったかと……げ」
「げ?」
「げ……ほっ、大変失礼いたしました。花びらが舞っていたようで」
現れたファナが、完璧に取り繕った笑みを見せた。
「ファナ、お前が指導しているの? この使用人が、立ち入り禁止の場所に入り込んでいたのよ。わたくしが教えてあげたのだけれど、今後このようなことがないよう、厳しく指導しておきなさい」
「それはご親切に、レフリレイア様。ですが、この方はあいにく、使用人ではないのです」
さりげなくアイナをかばう位置に移動して、ファナが丁重に礼を取る。
「事情があってこの城にお招きした、正式な客人です。王子殿下とのご挨拶もお済みです」
「客人……このみすぼらしい子が?」
「レフリレイア様、お言葉が乱れておりますわ」
にっこり笑い、ファナがじっと相手を見た。
澄んだ水色の目に見つめられ、レフリレイアと呼ばれた女性がわずかにたじろぐ。
「この城に招かれるということは、王族が正式に認めたということ。その相手に対する無礼は、レフリレイア様もよくご存じかと思われますが」
「っ……。もういいわ、行きなさいっ」
「では、失礼いたします」
こちらへ、と促すファナに連れられ、アイナは慌てて歩き出した。去り際にぺこりと頭を下げたが、レフリレイアは悔しげにこちらを見ていた。
いつもと違う回廊を通り、いくつもの角を曲がった後で、見慣れた廊下にたどり着く。すぐ目の前は、先ほどまでいた奥庭だ。ほっと息をつくと、いきなりファナに抱きしめられた。
「大丈夫ですか、アイナ様。あの方に何もされてませんか?」
「い、いえ、特に何も」
「ああもう本当に、知っていたらもっと気をつけましたのに。今日は第一王子殿下に逃げられて、気が立っていらしたんでしょうね。アイナ様にはご不快な思いをさせてしまいました」
申し訳ありません、と謝るファナに、アイナは急いで首を振った。
「大丈夫です。それより、あの方は?」
「ザグート家のレフリレイア様です。遠縁ですが、王家の血を引いている令嬢です。ごくわずかですが、竜気を扱うことができるため、一目置かれている方でもあります」
その名前は以前にも聞いた事があった。
ギルフェルドがアイナといた時、彼を訪ねてきた人物の名前だ。それを聞いて、ギルフェルドは部屋を出ていった。だとすると、ギルフェルドと親しい間柄なのだろうか。
先ほど別れたばかりのレフリレイアの姿を思い出す。
少しきつい顔立ちだが、文句なく美しい女性だった。しなやかで長い緑の髪も、それより深い瞳の色も、彼女の美しさを引き立てていた。
あの人は――もしかして。
「ギルさまの、番、とか……?」
「違います違います違いますアイナ様、そんな恐ろしいことをおっしゃらないでください!」
即座にファナに否定され――なんというかものすごい迫力だった――アイナは少々のけぞった。
「ご、ごめんなさい……?」
「いえ、私こそ少々取り乱しました」
んん、と咳払いし、ファナは乱れた髪を直した。
「あの方は……少々複雑な事情があって、こちらも無下にはしにくいのです。とはいえ、第一王子殿下にその気がないことは、既に伝えられているはずなのですが……」
「その気?」
「ううーん、私の口から申し上げてもいいものか……」
少し迷った様子だったが、ファナはあっさり頷いた。
「絡んできたのはあちらですし、まあいいでしょう。どうせあちらが一方的に難癖を付けてきたに決まっています。ご自分が奥庭に入れないからといって、関係ない相手に八つ当たりするなど、本当にク……困ったお方です」
何か言いかけ、ファナは寸前で言葉を変えた。「クソ」と聞こえた気がするが、気のせいかもしれない。
ふたたび咳払いし、ファナは事情を教えてくれた。
「第一王子殿下に番がいないことは、すでにお話ししましたね。その際、番が現れない獣人は、自ら番を選ぶという話を覚えておられますか?」
「はい、覚えてます」
「レフリレイア様は、第一王子殿下の番候補なのです」
思いがけない話に、アイナは「え」と声を漏らした。
「もっとも、第一王子殿下はそれを断り、話はすでに流れました。けれど、第一王子殿下の番は今も現れず、このままでは不都合が起こります。そうならぬよう、レフリレイア様はご自分を番に選ぶようにと要求しているのです」
王家の血を引き、竜気を扱えるレフリレイアなら、番として申し分ない。何よりも、彼女自身がそれを望んでいる。
問題はギルフェルドにまったくその気がなく、この先も可能性がない事だ。当人の口から聞かされたはずなのに、レフリレイアは今もあきらめず、ギルフェルドを追い回しているらしい。
ギルフェルドに番がいない以上、第三者が止めるのも難しい。結局、数度に一度はギルフェルドが相手をし、穏便に帰ってもらっているという話だった。
「ザグート家はそれなりの家柄ですし、レフリレイア様が番になれば、今まで以上の力が手に入ります。ですから、なんとしても娘をねじ込みたいのでしょう。本当に……頭の痛い話です」
「ギルさまに番がいないことは分かりましたけど。レフリ……レイア? さまにも、番、いないんですね」
「そこなんですよ、アイナ様!」
そこでファナが、くわっ!! と言いたげに目を剥いた。
「あの性悪……失礼、レフリレイア様には現在、確かに番がおりません。ですが、ギルフェルド様と対面なさり、番ではないことが分かっております。レフリレイア様は大分抵抗なさっておいででしたが、反応しないものは確かなので」
「な、なるほど?」
「今後発現する可能性がないとは言えませんが、第一王子殿下曰く、可能性は限りなく低いだろうと。何か感じるものがあったのかもしれません」
とはいえ、レフリレイアに番がいないのは事実であり、ギルフェルドの番なのではという声は、今も消える事がない。
ギルフェルドは一蹴しているが、その噂がレフリレイアを調子づかせ、いい気にさせているのは間違いない。はた迷惑にもほどがあると、ファナは言葉を選びながら話してくれた。
「そうなんですか……」
アイナには縁のない話だが、王族には王族なりの苦労があるらしい。
問題はここからです、とファナが述べた。
「互いに番のいない相手、しかもそれなりの血筋の姫君であれば、自動的に番候補になってしまうのです」
本物の番ではなく、自らが選んで決める相手。
その筆頭がレフリレイアなのだとファナは述べた。
「先ほども申し上げた通り、第一王子殿下にその気はなく、話も進んでおりません。ですが、可能性としてはありえます。ありえてしまうのですよ、アイナ様……!」
「そ、そうなんですか」
ギルフェルドは否定しているが、王族である以上、いつかは伴侶が必要となる。その際、レフリレイアになる可能性もなくはない。
ギルフェルドにとって、番はあくまで運だという。
出会う時は出会い、そうでなければ出会わない。ただそれだけである以上、ことさらに騒ぎ立てるつもりもない。
自分に番が現れなくとも、自ら番を選ぶ気はない。それが彼の言葉だった。
それを聞き、アイナはなぜかほっとした。
(そっか、ギルさまは番を選ばないんだ……)
少なくとも、あの激しくも美しい人を選ぶ事はなさそうだ。
「アイナ様、嬉しそうですね」
「えっ、そうですか?」
「あの性悪クソおん……もとい、苛烈な方と離れられて、ほっとされたのですね。あの方は奥庭には入れませんから、もう少しゆっくりされますか?」
先ほどまでずっと奥庭にいたので、実はたっぷり満喫している。
けれど、ファナの心遣いが嬉しくて、アイナは素直に頷いた。
「そうします。ありがとう、ファナさん」
ファナと別れ、アイナは庭を歩き出した。
せっかくなので、いつもとは違う場所に行ってみようか。
この奥庭は入り組んでいて、迷路のようで面白い。上から見ると一望できるが、ところどころに植え込みがあり、背の高い木や緑のアーチが施されているのだ。そのすぐそばを小川が流れ、涼やかな音を響かせている。
小川は散々眺めたので、今度は花を見る事にした。
相変わらず、どこもかしこも素晴らしい庭だ。限られた者しか入れないなんてもったいない。こんなに素敵な眺めなのに。
華やかに咲き誇る花の群れは、風によって優雅になびく。それに乗り、甘い香りが漂ってくる。まるで花園に引き寄せられるミツバチのように、アイナは美しい庭を堪能した。
(本当に、綺麗な場所……)
灯りを点せば、きっと夜でも見事だろう。
むしろ月光を浴びた庭は、幻想的な美しさに包まれるに違いない。
そんな時だった。
目の端で、何かがキラリと光った気がした。
「あれ……?」
朝露の名残だろうか。
そう思い、何気なくそちらへと目を向ける。
そこにあったのは少し背の高い木々だった。
枝の先できらめいた何かは、光を受けてキラキラ光る。それをつまみ上げたアイナは、あ、と目を丸くした。
「これって……」
アイナの手にあったのは、一本の銀髪だった。
まっすぐで長い、しなやかな髪だ。どうやら枝の先に引っかかってしまったらしい。その美しさに、アイナは思わずため息を漏らした。
まるで最高級の銀糸のようだ。すべすべして、艶やかで、月の光にも似た色合い。
そしてこの銀髪に、アイナは心当たりがあった。
「あの時の……」
真夜中に見かけた、あの人影。
あれはやっぱり夢じゃなかった。
だが。
――この人は、いったい誰?
手の中の銀髪を見つめたまま、アイナはしばらく動けなかった。