8.約束
「いいえ、違います」
多分、恋愛とは違う。
アイナは彼が好きだったが、燃え上がる恋のような感情はなかった。
うっとりと相手を見つめる事も、その人のすべてが欲しいという熱情も、失ったら絶望に打ちひしがれるような激情も、何もなかった。
もしそうなら、今ごろ生きていなかっただろう。
何もかも失ってしまった時、きっと命も捨てていた。
「では、憎んでいたのか」
「いいえ、それも違います」
まったく憎まなかったかと言われれば嘘になる。けれど、憎むよりも驚いて、わけの分からない気持ちの方が強かった。
一時の驚きが過ぎた後は、生きていくので精いっぱいで、それ以外の事を考える余裕はなかった。憎まれ、蔑まれ、心無い言葉を浴びせられているうちに、いつしか当初の感情は薄れてしまい、辛さと悲しさが時折降り積もるだけの、ひたすらに長い時間を過ごした。
彼を憎むより、怯えの方が強かっただろう。
ひとつ間違えば殺されるかもしれない状況の中、憎しみはとうの昔に消えてしまった。
「では――何を思う?」
「それは……」
――なんだろう?
「家族……」
ポツリと告げると、ギルフェルドはアイナを見た。
「家族……みたいだと、思ってました。だから、急に全部が変わって、びっくりして、怖くて……」
信じられなかった。悪夢に突き落とされたようで。
今もまだ、本当には夢から覚めていない気がする。
この気持ちが何なのか、自分でもよく分からない。
恋情でもなく、怒りでもなく、憎しみでもない。怯える気持ちは残っているが、それがすべてではないだろう。
辛くて、寂しくて、悲しくて、心細い。
彼の事を考えると、心がかき乱されていく。
だからきっと、思うのは――。
「……もう、忘れたい」
ポツリと呟くと、それが妙に腑に落ちた。
(そうか)
忘れたかったのか、自分は。
捨ててしまう踏ん切りもつかず、惜しむだけの愛着もなく、憎むには疲れ切っている。どうしたらいいか分からず、持て余していた感情の置き場だ。綺麗さっぱり消え去ってしまえば、案外スッキリするのかもしれない。
復讐を、望む気にはなれない。まだ恐怖が残っているせいもあるが、家族に援助してもらった恩もある。奴隷扱いで相殺だろうが、これ以上は望まないし、望む気もない。
それは甘い考えだろうか。
それとも、そんな関心すらない証拠だろうか――。
「そうか」
少し黙った後、ギルフェルドが頷いた。
「ところで、お前の家族だが」
「え?」
「元気にやっているようだ。お前の身を案じていたので、無事に過ごしていると告げてきた。全員とても喜んでいた」
こともなげに言われ、アイナは目を見開いた。
「あまり時間がなかったので、滞在時間は短かったが。必要な世話は焼いておいた。当分問題はないだろう」
「ま……待ってください。え、家族?」
「急に連絡が取れなくなって、心配していたそうだ。今は竜人をひとりつけてある。何かあれば、私の元に知らせが来る」
「え、いえ、あの、ええと?」
「あの男は家族ではないが、本物の家族なら心配ない。全員無事だ、安心しろ」
「――――……」
何か言おうとして、アイナは口をぱくぱくさせた。
確かにそれは助けられて以来、ずっと心にあった事だ。
自分にあれだけの事をしたガルゼルが、家族にも何かしていないか心配だった。
けれど、それを頼むのは図々しい気がして、口には出せなかったのだ。
「ありがとうございます、ギルさま……」
「いや」
「本当に本当に、ありがとうございます。あの、でも、いつ?」
人間の国から狼の国まで、馬車と船でひと月近く。竜の国はそれよりずっと遠い場所にあるそうなので、いつそんな暇があったのか分からない。
いやそれどころか、まだ行く途中と言われてもおかしくない道のりだ。
首をかしげたアイナに、ギルフェルドはあっさり答えた。
「私の翼なら半日もかからない。お前だと命の保障はないが、行って帰るだけならすぐだ」
「そ、そうなんですか」
それでも全部合わせれば、半日ほどはかかるのだろう。忙しいはずの彼がそこまでしてくれた事に、喜びよりも恐縮する。本当に申し訳ない。
「嬉しくなかったか?」
「いえ、まさか」
「だが、困った顔をしている」
「それはまぁ……」
だが、口にしてもいいものか。
黙っておこうと決意したのも束の間、じっと無言で見つめられ、早々に決意が白旗を上げた。完全降伏にも似た気持ちで、思っている事を吐かされる。ギルフェルドは無言でアイナを見ていた。
「も、申し訳なくて……私のせいで、余計な仕事を……」
「余計ではないし、仕事でもない。お前のせいでもないだろう」
「でも、そんなこと」
「――嬉しくはなかったか?」
重ねて聞かれ、アイナはぶんぶんと首を振った。
「う、嬉しかったです。すごく心配してたから……話が聞けて、嬉しい……」
「そうか」
彼は穏やかな目をしていた。その眼差しのまま、アイナに問う。
「お前は家族と一緒に暮らしたいのだったな。今でもそう思っているか?」
「はい、もちろん」
「この竜の城よりも、家族の元が恋しいか?」
「ええと……はい、あの、でも」
この城の人達はやさしくて、どこもかしこも夢のように美しくて、幸せで。
ずっとここにいたいと思えるくらい幸福な場所だった。たとえ人間の国に戻っても、一生忘れないだろう。この城の事も、この城で出会った人々の事も。
そして――目の前にいる、彼の事も。
「嫌だと思ってるわけじゃないんです。でも、ここは私のいる場所じゃないから」
「そうか」
「ごめんなさい。失礼なことを言いました」
「構わない。そして、無礼でもない」
すいと手が伸びてきて、アイナの髪に触れられた。
「家族のそばにいたいのは当然だ。お前がそう思うこともまた、当然の感情なのだろう」
「ギルさま……」
「――それがお前の望みなら」
やさしい指先が髪を梳き、耳の上にかかる。
「いつか必ず、お前を家族の元に帰そう」
ギルフェルドの手が髪から離れると、その指先には一枚の花びらがあった。
どうやら風に乗って飛んできたらしい。彼が指を離すと、花びらはふたたび風に乗り、すぐに見えなくなってしまった。
「今は体を休めて、心穏やかに過ごすといい。私はお前の平穏を望んでいる」
その声はやはり穏やかだった。
胸の奥が、トクリと甘い音を立てた。