7.小川のほとり
しばらくすると、ファナは誰かに呼ばれて行ってしまった。
アイナも部屋にと誘われたが、もう少しここで休んでいくと断った。基本的に、ファナはアイナの願いを優先してくれる。この時もすんなりと聞き入れてくれた。
「何かありましたら、いつでもお呼びくださいね」
念のためにと人のいる場所も教えてくれる。ファナはなかなか過保護のようだ。こんなに大切にされるのは久々で、なんだかくすぐったい気持ちになる。
小川のほとりで、アイナはのんびりと水を眺めた。
水晶のように透き通った水の中、小魚が群れを成して泳いでいる。水草が揺れて、川底の砂がきらめく。あんまり綺麗で、いくら見ていても飽きない。天国みたいに平和な場所だ。
本当は働かないといけないのに、こんなに呑気でいいのかと思う。けれど、何度言ってもファナは取り合ってくれないので、アイナはこうしているしかない。
(私、これからどうなるのかなぁ……)
体力はかなり戻っているが、長旅はまだ難しいだろう。
家に戻るのはまだ先だ。その前に、恩返しもしなくては。
ギルフェルドに助けてもらった恩を返し、その上で帰る。自分の家に――アイナのいるべき、人間の国へ。
でも、それはいつの事になるだろう。
そもそも、家族はどうしているのだろうか――……。
そんな事を思っていた時だった。
さくりと草を踏む音がして、振り向くと目の上に影が差した。
「……ここにいたのか」
いつ来たのか、ギルフェルドがアイナを見下ろしていた。
相変わらず、表情というものが抜け落ちた人だ。けれど、怖い感じはない。
とびきり整った外見のせいで誤解しがちだが、彼はとてもやさしい人だ。
今日は薄い青の衣をまとっており、それが彼によく似合っていた。
「お前はここがお気に入りだな」
「ええ、と……はい」
「いい場所だ。私もここが気に入っている」
そう言うと、なぜかギルフェルドはアイナの隣に腰を下ろした。
突然の出来事に困惑したが、彼はいつも通りの表情だ。特に深い意味はないらしい。
綺麗な衣装が草にまみれるのも構わず、無造作に座り込んでいる。その姿はまるで大きな竜が日向ぼっこをしているように見える。
漆黒の髪は、光を浴びても黒いままだ。
艶やかな光の輪を描き、輝きの粒がこぼれ落ちていく。その姿が綺麗だと、改めて思った。
そのまま、二人で黙って水を眺める。
「あ、魚」
少し大きな魚が横切り、アイナは思わず声を上げた。
「魚が好きなのか?」
「そういうわけじゃないですけど、つい」
「つい」
「動くものを見たので……なんとなく……」
どうしてここまで言う必要があるのか、少し赤くなりつつ答える。
いくらなんでも子供っぽかっただろうか。でも、反射的に声が出たのだ。
次からは気をつけよう……と思いつつ、ギルフェルドの顔をうかがう。
彼は無表情だったが、どことなく穏やかな目つきだった。
「なるほど。そういうものか」
それだけ言うと、ふたたび黙って水を見る。
アイナにとっては心安らぐ光景だが、ギルフェルドは見飽きているだろう。それなのに、こうして何も言わず眺めているのが不思議だった。
(……そういえば)
ついさっき、この場所がお気に入りだと言っていた。
もしかすると、彼もこうしているのが好きなのだろうか。
勇気を出してもう一度、おそるおそる目をやると、きらめく藍色の瞳が揺れた。
「……ギルさまは、どうしてここに?」
「特に理由はない。お前を捜したら、ここにいた」
「私を捜してくださったんですか?」
「実際には、捜す必要もなかった。お前のいる場所はすぐ分かる」
そういえば、前にも似たような事を言っていた。
竜人というのは勘も鋭いらしい。うらやましい事だと思う。
アイナにもその十分の一でもあれば、あんな事にはならなかった――かもしれない。今さら思っても、どうしようもない事だけれど。
ため息をつくと、草がそよそよと風になびいた。
「……ギルさまは、どうして私を助けてくださったんですか?」
「理由がいるのか?」
「そういうわけじゃないですけど」
でも、彼にとって利益はないと思うのだ。
利益というより、利点といった方がいいだろうか。
アイナを助けて得する事などひとつもない。むしろ狼の王の恨みを買うのは、彼にとっても望ましくない出来事のはずだ。
それでもあの時、彼は迷わずにアイナを抱き上げ、竜の国へと連れ去ってくれた。
ガルゼルの番である――自分を。
「……私、ガルゼルさまに偽物だって思われてるはずです。本当の番だって分かったら、ご迷惑がかかるんじゃないでしょうか」
「心配ない。お前の身は私が守る」
「でも、何かあったら……」
「問題ない。それに、お前が本当にあの狼の番と決まったわけでもない。あくまでも可能性の話だ」
ガルゼルがアイナを見つけた時、何か感じたのは確かだろうが、こうなった今は真偽不明だ。
アイナを虐げ、偽物だと貶めたのはガルゼルであり、今さら返せというのは虫が良すぎる。
それでもとためらうアイナに、ギルフェルドは首を振った。
「不要な悩みだ。そもそも、あの狼には何もできない」
「前も言ってましたけど、それって一体?」
ギルフェルドに助け出された時、ガルゼルは地に伏していたが、ギルフェルドが特に何かした気配はなかった。
他の人々も震え上がっていたが、アイナは何も感じなかった。多少ピリピリした気はするが、それだけだ。どういう事だろうと思っていると、彼は事もなげに教えてくれた。
「あの狼は、竜気を浴びた。ただの獣人にとって、竜気は絶対だ。私が許さない限り、あの狼はこの城に近づけない」
「そんなことが……」
できるんですかと言おうとして、ギルフェルドが後を続ける。
「竜気を扱えるのは王族だけだ。血族なら多少の耐性があるが、他種族ならそれもない。少なくとも十年、おそらく十数年は無理だろう」
彼の話によると、あれでも十分手加減していたそうだが、そうでなければ永遠に竜人には近づけないだろうという事だ。曲がりなりにも一国の王であり、あまり面子を潰すのも得策ではない。多少の温情を与えた結果、あの程度で済ませたという話だった。
「そもそも、今回私が出向いた理由を考えれば、あの男がしでかした行為は論外だ」
「そういえば、どうして狼の国にいらしたんですか?」
狼の国では、新しい国王になったガルゼルに挨拶するためだと噂されていたが、違うのだろうか。
首をかしげたアイナに、ギルフェルドは無言で首を振った。
「狼の獣人が竜の国に入り込み、騒ぎを起こした。その引き取りと、話し合いだ」
「そ、そうだったんですか」
「内々で済ませたが、その直後にあれだ。救いがたい」
もしかすると、ガルゼルが不機嫌だったのはそれが理由だろうか。
ギルフェルドとの話し合いで苛立ちを募らせ、アイナに八つ当たりしようとした。その結果、まだ近くにいたギルフェルドに阻まれて、アイナを奪い去られた形だ。
――いや、彼にとって自分はすでに「奪われる」ような存在じゃない。
たとえ価値のなくなったものでも、取り上げられたら怒るだろうか。
それとも、清々したとでも思っているだろうか。
どちらにしても、あまり嬉しくはないけれど。
ふたたびため息をつくと、ギルフェルドがこちらを見た。
「……何を考えている」
「いえ、何も」
多分もう、会う事のない人なのだ。
それなのに、どうしてこんなにも気になるのか。
あの顔も声も表情も、今でもよく覚えている。
表情だけは、前と後でまったく違ってしまったけれど――それでもよく覚えている。
俺の番と呼んだ声を、耳の奥が覚えている。
笑いかける顔、ザクロを差し出してくれた指、髪に触れた大きな手。
何もかも、今でも鮮やかによみがえる。
あれはもう、どこにもないものなのだ。
「……お前は、あの男に心を寄せていたのか」