4.休息
***
また、夢を見ていた。
――何をしている。まがい物が。
――泣いて許されると思うなよ。ほら、入れ。檻の中へ。
――その蛇は毒を持っている。噛まれれば、命を落とすかもしれないな。
――ああ、蛇がお前を見ているぞ。もうすぐだ、偽物め。
闇の中で、蛇がずるりと身を起こす。
逃げようとした背中に檻がぶつかる。がしゃんという音が響き、鈍い痛みが広がった。
あと少しで、蛇がこちらにやってくる。
チロチロと揺れる長い舌。真っ赤な口と、細長い瞳孔。
蛇が――来る。
「――――っ!!」
アイナが飛び起きると、外はまだ明るかった。
(……夢……)
蛇が足元に迫ってくる気がして、ぞっと全身が総毛立つ。
夢だと分かっても、心臓の音がバクバクしていた。
呼吸を整えていると、隣にいた人物が身じろいだ。
「……起きたのか」
「あ……」
見ると、第一王子がこちらを見ていた。
いつ来たのか、まったく記憶にない。眠りに落ちた時の記憶もなかった。
ファナは席を外しているらしく、部屋にいるのは彼とアイナの二人だけだ。
彼は何を考えているのか分からない顔で、静かにアイナを見つめていた。
「よく眠っていたようなので、起こさなかった。気分はどうだ」
「だ、大丈夫です」
「顔色が悪いな。目を閉じろ」
そう言うと、ふたたび手のひらを当てられる。
一瞬ぎくりとしたが、すぐにアイナは体の力を抜いた。
大丈夫。この手は自分を傷つけたりしない。
おとなしく身を任せると、また何かが流れ込んでくる。
やはり彼に触れられると、気分が軽くなるようだった。
「ジェイドと会ったらしいな」
「はい。ついさっき」
「何か不作法はなかったか」
「ありません。すごくいい方でした」
「そうか。ならいい」
ひとつ頷き、それきり沈黙が訪れる。
ややあって、彼はふたたび口を開いた。
「アイナ、というのがお前の名か」
「はい」
「そう呼んでも構わないか」
「はい、もちろん」
「――ギルフェルド」
「はい?」
「ギルフェルド・ドラクス。私の名だ。――アイナ」
藍と金の混じった瞳に見つめられ、思わずどきりとしてしまう。
ギルフェルドと名乗った彼は、しばらく黙った後で頷いた。
「いい名だ。私のことはギルフェルドと。言いにくければギルと呼べ」
「ギルさま……」
名前を呼んだ瞬間、ポウッと胸があたたかくなった。
(あれ……?)
見ると、ギルフェルドも反応している。
よく見ないと分からないが、首をかしげているようだ。
よく分からない時間が流れ、唐突にそれが途切れた。
「第一王子殿下、ザグート家のレフリレイア様がお越しです」
扉の外から聞こえたファナの声に、ギルフェルドは我に返ったように頷いた。
「分かった。すぐに行く」
「あ……あの」
反射的に呼び止めたが、彼がこちらを見て我に返る。
「……なんでもありません。ごめんなさい」
「構わない。今日はこのまま休むといい。体が落ち着いたら、城の中を案内しよう」
そう言うと、静かに部屋を立ち去っていく。
それを見送った後で、小さなノックの音がした。
「アイナ様、よくお休みになれましたか?」
ギルフェルドと入れ替わるようにして、ファナが室内に戻ってくる。
彼女はまた果物の大皿を抱えていた。
「お目覚めに果物はいかがですか。スープや肉料理もありますよ」
「い、いえ、もうお腹いっぱいです」
「まあ、アイナ様はずいぶん小食なのですね」
ファナが目を丸くしたが、そんなにたくさんは食べられない。
そういえば、起きてから空腹を感じないのは久々だった。
ファナは食べてほしそうだったが、無理はさせられないと思ったらしく、「いつでも召し上がってくださいね」と言い添えて大皿を置く。飲み物も用意しているあたり、本当に気遣いの行き届いた人だと思う。
そちらはありがたく受け取ると、ファナは嬉しそうな顔になった。
「搾り立ての果実水なんですよ。……でもそういえば、『あの方』もそれほど召し上がらないし、人間は小食なのかしら……」
ファナが小声でひとりごちる。
「あの方って?」
アイナが尋ねると、ファナははっとしたように口を押さえた。
「ごめんなさい、私ったら、余計なことを」
「いえ、そんなことは」
「そのうちご紹介できると思いますので、もう少しお待ちくださいね。ほんとにもう……あの厄介な狼さえいなかったら、こんなことにはならなかったのに」
「狼?」
「あらいやだ、私ったら」
ふたたび口を押さえ、ファナはうふふとごまかした。
「ご心配なさらずとも、アイナ様に関わりのある方ではありませんよ。それより、もう少しお休みになりますか? それともお湯をお使いに? 何なりとお申しつけくださいな」
「いえ、そんな……」
ここまでしてもらっただけでも十分すぎる。
それよりも、この先の事を考えたい。
狼の国に戻る事は絶対に無理だ。
ガルゼルだけでなく、あの城の獣人にも会いたくない。
ごく一部、やさしくしてくれた人々もいるけれど、それでも戻るのは怖かった。
かといって、すぐに家族の元にも戻れない。
今起きて分かったが、自分の体力はずいぶん落ちている。こんな体で長旅をするのは難しいし、帰っても家族を困らせる。
できればしばらくお世話になって、よかったら働かせてもらえないだろうか――。
ポツポツと語ったアイナに、ファナは困惑顔をした。
「アイナ様。アイナ様はお客様なのですよ。第一王子殿下のお客様を働かせるわけには参りません」
「でも、落ち着かないんです」
「今は体を休めて、力をつけるのが先ですよ。先のことは先になったら考えましょう」
もう少しお休みくださいと言われ、アイナはおとなしく頷いた。
――どうしよう……。
狼の城では、こんな時間に寝ている事などまずなかった。
朝は夜明け前、夜は深夜を過ぎても働いていて、毎日へとへとの状態だった。
こんなに休んだら、体がびっくりしてしまいそうだ。
恐縮しきりのアイナに、ファナは憤慨した顔になった。
「アイナ様は疲れすぎですし、どう見ても痩せすぎです。おまけに慢性的な寝不足ではないですか。こんな状態のアイナ様をこき使う者など、竜の城にはおりません」
「でも、それくらいしかできないんです」
「そんなことをおっしゃらないでくださいな。アイナ様はあの第一王子殿下が初めて連れていらした方なのですから」
それだけで特別な存在なのだと、ファナが自信たっぷりに言う。
だが、それを聞いたアイナはますます委縮してしまった。
あれは人助けのためで、他に特別な理由はない。
実際、彼が来てくれなければ、アイナは考えるのもぞっとするような目に遭っていたはずだ。今でも思い出すと震えが走る。
そこから救い出してくれたあげく、こうして世話まで焼いてもらったなんて、あの人には感謝してもし切れない。
だからこそ、これ以上の迷惑をかけたくはない。
「アイナ様が元気になられることが、一番のご恩返しなのですよ」
「でも……」
「どうか、お忘れなきように。あの方が救った命なら、我々にとってもあなたは大切なお方です。全力で守るべきお方であり、世話を焼くべきお方なのですよ、アイナ様」
だから心配ないのだと、真摯な口調で告げられる。
何か言いかけたが黙り、アイナは小さく頷いた。
「……分かりました。ありがとうございます。ファナさん」