ジェイドの独り言
狼の国の前王が、竜の国を発った。
竜の城に侵入しただけでも大罪なのに、王族を襲い、その番を攫おうとしたのだ。いくら相手が他国の王でも、到底許せる話ではなかった。
彼は即座に捕らえられ、地下牢に送られた。彼の番だったはずの少女は、青ざめた顔でそれを見ていた。
新たに番となった第七王子は激怒していたが、少女がそれをとりなした。命だけはどうかと懇願され、彼はしぶしぶ納得した。竜人は番に甘い。それはもう、とびきりに。
それがどんな願いであれ、番がそれを望むなら、叶えないはずがなかったのだ。
前王は八つ裂きも黒焦げも免れたが、そこまでする必要はなかった。
彼は放心状態だった。番に拒絶され、絆を断ち切られた事で、最後の望みが潰えたのだ。
かろうじて正気は保っているようだったが、それもいつまでもつか怪しかった。番を偽る薬は肉体だけでなく、彼の精神までも蝕んでいた。
――それでもシェーラのことは分かるあたり、番っていうのは、本当に。
内心でそんな事を思いつつ、ジェイドはため息を噛み殺した。
「ジェイド様? どうされました?」
「ううん、なんでもないよ」
かけられた声に振り向くと、銀髪の少女が微笑んでいた。
サラサラと揺れる長い髪が、木漏れ日に映えて美しい。
それによく合うスミレ色の瞳には、無邪気な信頼が浮かんでいる。
少女というよりも、女性になりかけている美しさ。
自分の番はいつ見ても世界一可愛いとジェイドは思う。
「今日はいい天気だなと思ってさ。風も気持ちいいね」
「そうですね」
シェーラも目を細めて頷いた。
限られた者しか入れない竜の城の奥庭は、季節の花が咲き誇っている。思えば最初にシェーラを連れて行ったのも、花が咲き乱れる野原だった。
シェーラは可憐な花が似合う。
そう思うのはきっと、番の欲目ではないのだろう。
少し離れた場所に移動したシェーラに、ジェイドは慎重に口を開いた。
「……前王は無事に、狼の国に着いたそうだよ」
はっとシェーラが振り返る。
「ジェイド様、それは……」
「気になるんじゃないかと思ってさ。約束しただろう? 前王に何かあれば、絶対君に教えるって」
だから、守ったよ。
微笑んだジェイドに、シェーラは長い事黙っていた。
やがて、ゆるゆると唇が開く。
「……お体は、大丈夫でしょうか」
「うん、問題ないって」
「食事と、水は……」
「少しだけど、食べて飲んだそうだよ。滋養のあるものを使ったそうだから、回復は早いんじゃないかな」
「全身の傷は……」
「手当てしてあるよ。心配ない」
「あとは……あとは、あの方は……」
「大丈夫だよ、シェーラ」
シェーラに歩み寄り、そっと目の高さにかがみ込む。
「狼の国に着いたら、彼は幽閉されるはずだ。前にも言ったかもしれないけど、それが落としどころだって。今度こそ、彼は外に出られない。でも……生活に不自由はしないだろうし、ひどい目にも遭わない。そう話がついている」
「ジェイド様……」
「心配ないよ、シェーラ。君を悲しませるようなことはしない」
ただし――とジェイドが目を伏せる。
「彼は番を失った。そのせいで、生きる希望を失ってる。そういう意味では、あまり長くはないかもしれない」
「そんな……」
「薬はあるけど、どうしても飲みたくないって。香水の影響は抜けたのに、精神が回復しないのはそのせいだ」
シェーラは目を見開いている。そんな、という声が唇から漏れた。
そんな顔をさせたくなかったから、本当は絶対に言いたくなかった。
そんな本音は隠したまま、ジェイドは一度言葉を切る。
最愛の番をひどい目に遭わせた前王を、ジェイドは未だに許していない。口には出さないし、態度にも出ないよう努めているけれど、生涯許す事はないだろう。
シェーラが望むなら、八つ裂きにしてやってもよかった。
どんな残酷な命令でも、ジェイドはためらわず行っただろう。それだけの罪があの男にはあるし、今でもあると思っている。
番を間違え、偽りの番を真実の番だと思い込んだあげく、本物の番を虐げた男。
ただ捨てるだけでなく、奴隷にしていたぶり、精神と尊厳までも傷つけた。
彼女の体に刻まれていた無数の傷は、シェーラの心が流した涙にも等しい。
初めて会ったシェーラは傷つき、ぼろぼろの姿だったが、その心までは枯れていなかった。それにどれほど安堵したか、彼女は知らない。
竜人は番を深く愛する。その愛情の深さは他種族の比ではない。そして、それを傷つけた者を許さない。誰であろうと、何があろうとだ。
シェーラを傷つけた前王をジェイドは許さない。たとえシェーラに頼まれても、本当の意味で許すのは難しい。それでもシェーラに言われれば、努力だけは試みるけれど――おそらく失敗するだろう。それは自分でも分かっている。
だからシェーラが前王の事で思い悩み、そのやさしい心を痛める事をジェイドは好まない。できれば自分の知らない場所で、野垂れ死んでくれればいいとさえ思う。
シェーラと同じ目に遭い、尊厳を傷つけられ、身も心もぼろぼろになってようやく、彼女に許しを乞う権利を得る。それくらいでちょうどいい。
よく誤解されがちだが、ジェイドの本質は竜である。
番に甘え、まとわりつき、その一挙一動に振り回されても、苛烈な部分は存在する。番を深く愛するほど、それを傷つけられた怒りは大きい。
――だから本当は、あの狼の話を耳に入れる事だって嫌だけれど。
でもそうしたら、何かの折に話を聞いたシェーラは悲しむのだ。それはもっと嫌だった。
「……何か、方法はないのでしょうか」
(ほら)
やさしいジェイドの番は、そんな事を口にする。
「許せとは言いません。ですが、長くないなど……そんなことは」
「……シェーラ」
「どうにかする方法は、ないのでしょうか……?」
シェーラのスミレ色の瞳には透明な涙が浮かんでいる。あの涙を舐めたら甘いだろうかとジェイドは考えた。
なんて愛おしいジェイドの番。
やさしくて、慈悲深くて、あんな男にも許しを願う。
だから本当に嫌だけれど、教えないわけにはいかないのだ。
「……竜の国に、秘薬がある」
「!」
シェーラが小さく息を呑んだ。
「それを使えば、多分、解決すると思う。手に入れるのはすごく大変だけど……でも、君が望むなら――不可能じゃない」
「ジェイド様……」
「――それが君の望みなら」
どんな事でも叶えるよ。
シェーラは息を呑み、それから深々と頭を下げた。
公爵令嬢であるシェーラがそれをする事の意味を、ジェイドもよく知っていた。
(ああ……本当に、嫌になる)
シェーラにそんな感情を向けられるあの男が、妬ましく、憎らしい。
どこかでひどい目に遭っていてほしい。それくらいなら、こんなに腹も立たないのに。
「……ただ、それも飲まなかった場合の保障はできない。無理やり飲ませることもできるけど、吐き出されたらおしまいだ」
「……分かっています」
それでもいいのです、とシェーラが頷く。
「少しでもあの方が生きる可能性があるなら、それで構いませんから……」
「……分かった」
だったらすぐに動かなければ。
竜の国の秘薬は万能薬だ。きっとあの狼の命は助かるだろう。ただし、それを手に入れるジェイドの苦労は並大抵のものではない。
それでもシェーラが願うなら、ためらう気持ちは少しもなかった。
「ジェイド様は、大丈夫なのですか」
「何が?」
「その薬を手に入れることで、ジェイド様にご迷惑がかかることはないのですか?」
それを聞いてくれるシェーラの聡明さが嬉しくて、少し悲しい。
「大丈夫だよ。僕は第七王子だからね」
だから気取られぬよう、あえて軽い口調で言う。
「しばらくは兄上たちに頭が上がらないけど、それくらい。何も心配いらないよ、シェーラ」
「それなら、いいのですが……」
それでも一抹の不安は残るのか、シェーラが心配そうなまなざしを向ける。その目に映るのが自分である事に、ジェイドは心からの喜びを覚えた。
「君のためならなんでもするよ。僕にできること全部、君にしてあげるから」
「ジェイド様」
「だから、悲しまないで。泣かないで。あきらめようとしないで」
それがどんなに小さくても、君が願う事ならば。
「絶対に、僕が助けるから」
それが誰より憎い前王でさえ、助けてあげると誓うから。
「……ごめんなさい」
それなのにシェーラは涙を浮かべ、謝罪の言葉を口にする。
「あなたを傷つけてごめんなさい。ひどいことを頼んでしまってごめんなさい。辛い思いをさせて、本当に、ごめんなさい……」
「……シェーラ」
「分かっているのです。頭では、きちんと分かっているつもりなのです。それでも……どうしても、見捨てられなくて……」
「……うん」
「もう番ではありません。あの方とのつながりも切れました。それなのに……悲しくて、苦しくて」
「……うん」
「助けたいと、思ってしまう……。理屈ではなく、感情で……」
「……うん、そうだね」
分かってるよ――とジェイドが囁く。
そういう彼女だから好きなのだ。それこそ、理屈ではなく感情で。
だからこれくらいの事は、神様だって許してくれる。
「あのね、シェーラ。思い出して」
ジェイドはやさしい声で言った。
「僕には番がいなかったけど、シェーラが番になってくれた。覚えてる?」
「ええ、もちろん」
「それと同じことが、彼にだって起こるかもしれない」
シェーラは不思議そうな顔だ。意味がよく分からなかったのかもしれない。
ジェイドは微笑みを浮かべたまま、目を伏せたシェーラに囁いた。
「彼は番を失ったけど、また誰かが現れるかもしれない」
「!」
シェーラが驚いたように目を上げる。
「もしかすると、彼は幸せになれるかもしれない。今度こそ反省し、心からやり直したいと願うなら」
「ジェイド様……本当に?」
「断言はできないけど、僕らの例がある。世の中に絶対はないからね」
だからねと、甘い声で囁きかける。
「そんなに泣かなくても大丈夫。きっと大丈夫だよ」
「そうでしょうか……」
シェーラが涙を拭こうとしたので、すかさずハンカチを差し出す。シェーラは戸惑いながら受け取った。
「……ありがとうございます、ジェイド様」
「どういたしまして」
こんな事で泣きやんでくれるなら、百回だってしてあげたい。
「あの方は……幸せになれるかもしれないのですね」
「そうだね」
「わたくしを忘れて、新しい生活の中で、今度こそ……」
「……そうだね、もしかすると」
「それなら、……嬉しい」
シェーラの目から透明な涙がこぼれ落ちる。
美しく、清らかで、たとえようもなく綺麗な雫。きっと甘いに違いない。彼女の流す慈愛の涙は。
そんな思いはおくびにも出さず、ジェイドはそうだねと微笑んだ。
「だからもう泣かないで。君が泣くと悲しい」
「ごめんなさい、ジェイド様」
「泣きたいなら泣いてもいいよ。でも、嬉し涙の方がいい」
その言葉に、シェーラは目を瞬いた。涙に濡れた瞳が揺れて、きょとんとした光を映す。
ややあって、シェーラは笑った。少し恥ずかしそうな、嬉しそうな顔で。
「そうですね……申し訳ありません」
「そうそう、その調子」
「からかわないでください、ジェイド様」
「真剣だってば。前王を助ける僕の懐の深さに感動して、惚れ直してくれてもいいんだよ?」
「もう……」
少し笑い、その笑みが崩れて泣き笑いになる。涙をぬぐってシェーラは言った。
「許してくださらなくてもいいのです。あの方はそれだけのことをした。ですが……ですが、どうか……」
「……うん、分かった」
ジェイドは静かに頷いた。
「必ず秘薬を届けさせるよ。番がいなくても、寿命に影響はないはずだ。彼はきっと長生きできる」
「そうですか……」
シェーラがほっと息を吐く。
「……ただ、それがいいのかどうかは分からないけどね」
ひっそりとした声はシェーラに届いていなかった。
最愛の半身を失い、絶望と孤独に苛まれて生きる残りの人生は、決して幸せなものではないだろう。自らの手で切り捨ててしまった絆は、二度と戻る事がない。
けれど、それが彼の負うべき罰だ。そう思えば、多少は手加減してやってもいい。
「……そのうち彼にも大切にできる人ができるといいね」
心にもない事を口にすると、シェーラが輝くような笑みを向ける。
「ええ、そうですね」
彼女は知らない。
番というものが獣人にとってどれほど大切で、かけがえのないものなのか。
そう簡単に代わりはいない。いや、いるはずがない。
番とは唯一無二の存在。世界でたったひとりだけ、己の半身となるべき相手。
それを本当の意味で理解できるのは、皮肉にもジェイドの方なのだ。
「それよりも、ひとつお願いを聞いてくれる?」
「なんですか?」
「そろそろ、呼び捨てにしてほしいなと思ってて……。ほら、あの、距離が縮まるっていうか、少しでも仲良くなりたくて……君と」
「まぁ……」
シェーラの目が丸くなり、恥ずかしそうに頬を染める。
ややあって、彼女はひとつの名前を口に載せる。
ジェイドの心に深い喜びが込み上げて、突き抜けるように広がっていく。
空は晴れ、心地いい風が吹き抜ける。
奥庭は幸せな時間に満たされていた。
了
お読みいただきありがとうございます。ジェイドの裏側。
*これにておまけも一段落です。お付き合いいただきありがとうございました!
(お前最後だけ性格変わってない? と思われた方、すみません。どちらも彼の本質です)
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