シェーラの悩みごと
シェーラは少々困惑していた。
「シェーラ、おはよう。いい朝だね」
「シェーラ、こんにちは。いい昼だね」
「シェーラ、こんばんは。いい夜だね」
……ジェイドがそばを離れてくれない。
この城に来て二週間。最初こそ、シェーラが不自由していないか、慣れない場所で緊張しないかと世話を焼くジェイドに感謝していたシェーラだが、だんだん妙に思えてきた。
もしかして、これは少々おかしいのでは?
獣人ごとに風習は異なり、人間の常識が当てはまらないのは知っている。だからシェーラも狼の国に嫁ぐ際、できる限りは調べておいた。竜の国では通じない事も多いが、それでも多少は理解できる。だから思った。
……ここまでべったりそばにいるのは、やはり少々おかしいのでは?
ジェイドは朝から晩までそばにいる。正確に言うと、仕事の際は離れているが、終わると即座に飛んでくる。文字通り、「飛んで」来るのだ。全速力で。
そしてシェーラから離れない。それはもう、食事の際も、読書の際も、うたた寝の際もおかまいなしに。
入浴の間は離れているし、就寝の際は別々だ。けれどやはり、そばにいすぎだと思ってしまう。竜人は皆こうなのかと聞いたシェーラに、彼女付きの侍女は目をそらした。
――そうですね……。そういった方もいらっしゃいますね……中には……ね……。
それで確信した。ジェイドは自分のそばにいすぎる。
彼に好意は持っているが、さすがに少々息苦しい。人間である自分は、彼ほど「番」を感じられない。人間はまったく感じない方が多いそうなので、シェーラの方が珍しい。だがしかし、そのシェーラをもってしても、今の状況は問題だ。
ほのかに好意があるとはいえ、相手は異性だ。出会ったばかりでまだよく知らない男性が、四六時中自分のそばにいて、全力で愛を語ってきたらどうだろうか。嫌だとは思わないまでも、少々困惑してしまう。今のシェーラがまさにそうだ。
ジェイドの事は嫌いではない。嫌いではないが、正直言って少し疲れる。
(困ったわ、どうしましょう……)
ジェイド本人に言ってもいいが、言い方を間違えると傷つける。あの繊細でやさしい竜人は、きっと衝撃を受けるだろう。何せ彼は、シェーラを困らせたいわけではないのだから。
(もう少し距離を置きたいの……駄目ね、その場で泣かれそう)
別れるの!? と涙目になるジェイドが思い浮かぶ。これは却下だ。
(もう少し自由な時間が欲しいわ……これも駄目ね。落ち込みそう)
シェーラに辛い思いをさせていた!? とショックを受けるジェイドの姿が容易に想像できる。これも却下だ。
(お互いの時間を大切にしましょう……これは……多分、通じないわね……)
シェーラと一緒の時間が僕の一番大切で貴重な時間だよ、とキラキラした目で語るジェイドは、昔撫でた仔犬に似ていた。
ジェイドを傷つけず、適切な距離を取るためにはどうするべきか。
シェーラはしばらく考えていた。
***
***
「あれ、シェーラは?」
その日、シェーラの部屋にやってきたジェイドは目を瞬いた。
いつもいるはずの時間に、シェーラがいない。
「シェーラ様でしたら、中庭へ。季節の花が見ごろでしたので、ジェイド様にもお教えしたいと。先に下見を済ませたいと仰せでした」
「えっそうなの? どうしよう、僕の番が可愛すぎる……」
竜人の感覚を使えば、いる方向はなんとなく分かる。けれど、そこまで詳しい位置は分からないし、やみくもに使う力ではない。
「追いかけていってもよろしいのですが、シェーラ様が『内緒よ』とおっしゃっていたので、知らないふりをするのがいいかもしれません」
「そっか……そっかぁ……。今すぐ会いたいけど、シェーラががっかりするのは嫌だし、待ってた方がいいかなぁ……」
「そうなさいませ」
侍女がしれっと頷きを返す。
「でもどうしよう、シェーラがハチに刺されたり、ちょうちょが飛んできてびっくりしたり、草につまずいてよろけたら……っ」
「問題ありません。女官を二人つけてあります」
「花に棘はあったっけ? 花粉でクシャミしないよね? ああっそういえば、日差しが強すぎて貧血とかっ……」
「心配いりません。すべて対策済みです」
それに、と侍女は声をひそめた。
「ジェイド様、これはチャンスです」
「チャンス?」
「シェーラ様からの初めての贈り物ではございませんか。美しい季節の花を、二人一緒に眺める。そのための下準備を済ませたい。これは紛れもなく、シェーラ様からジェイド様への贈り物です」
「……!!……!!……!!」
ジェイドがその場に硬直した。
「それは……そう言われてみれば、確かに……っ」
「ここでシェーラ様のお気持ちを無駄にするより、ドーンとおおらかに構えて、お帰りをお待ちしていればよいのです。ジェイド様に一番美しい花を見せたいというシェーラ様のお気持ち、無駄にしたくはないでしょう?」
「それは、もちろん……」
「あとでご一緒に花を眺める時、このような会話があるでしょう。――ゴホン」
――綺麗な花だね、シェーラ。
――喜んでくださって嬉しいです、ジェイド様。
――こんなに美しい花は初めて見た。感動したよ。
――よかった。実はわたくし、あなたに喜んでいただきたくて……。
「なにそれ最高!」
「でしょう? ですから、今はそっとしておかれる方が賢明です」
「そっか……そうだよね……そっかぁ……」
分かった、とジェイドが納得する。
花の散策はその日、小一時間ほどで終了した。
戻ってきたシェーラは晴れ晴れとした顔をしていた。
その後二人で一緒に花を眺めた。花はとても美しく、ジェイドもものすごく楽しかった。
次は刺繍だった。
「ジェイド様のために、ハンカチに刺繍されているのですよ。出来上がるまで秘密とのことでしたので、しばらく立ち入り禁止です」
「えっそうなの? シェーラが……僕のために、刺繍を……」
「できれば気づかないふりでお願いいたします。仕事が忙しくなった、とかなんとか理由をつけて」
「分かったそうする!」
刺繍は三日ほどで完成し、その間ジェイドは適度な距離を保っていた。
その次は手紙、その次は料理、そのまた次は小物の手入れ――。
そのたびにジェイドは感激し、シェーラからの心遣いに感謝して、二人の仲も良好だ。
シェーラも心なしか、以前よりのびのびしているように見える。
そういえば、最近はたまにシェーラがいない時がある。けれど、大抵はジェイドのために何か準備してくれているので、気にはなるが問い詰めない。ごくたまに見つからない時もあって、さすがに不安になったけれど、必ずシェーラは戻ってきて、ジェイドに微笑みかけてくれるのだ。
――いつもわたくしのことを信用してくださって、とても嬉しいです。ジェイド様。
ありがとうございますと言われれば、それだけで天に上るような心地になった。
ジェイドの番はとても可愛い。
やさしくて、刺繍が上手で、料理だって挑戦して、小物まで気遣ってくれる。出会えただけで幸せなのに、ジェイドのそばにいてくれる。それだけでなく、好きだと言ってくれるのだ。
彼女のためなら何でもできる。どんな事でもしてあげたい。愛しくて愛しくてたまらない、ジェイドの大切な唯一の番。
でも、彼女の気持ちを無視する事はしたくない。
「シェーラ、最近寂しくない?」
横に座るシェーラに尋ねれば、彼女はことりと首をかしげた。
「それほどでもありませんが……どうしてですか?」
「いやだって、あんまりそばにいられないし、離れている時間も増えたし、シェーラと一緒の時間が減ったし……」
全部同じ意味である。
「おかしなジェイド様。わたくしたち、一緒にいるではありませんか」
「そうだよね……。そうなんだけど……」
「それに、人間の国にはこのようなことわざがあるのです」
そこでシェーラは声をひそめ(その顔もものすごく可愛かった)、ジェイドに小声で教えてくれた。
「『少し離れている方が、恋心はよく育つ』と」
「……!!……!!……!!」
「わたくし、それを実践してみたいのです。協力してくださいますか、ジェイド様?」
シェーラのはにかんだ微笑みは、ジェイドの思考力を奪うのに十分だった。
「もちろんだよ、シェーラ!」
この日から、シェーラの自由時間は確保された。
***
***
(あれは大変だったわね……)
しばらく前の出来事を思い出し、シェーラがひっそりと笑みをこぼす。
離れる時間を作ると言ったジェイドだが、やはりすぐには難しかったようで、ついついシェーラのそばに来る事が多かった。拒絶するのはたやすいが、それではジェイドを傷つける。どうしようかと思っていたら、侍女達が総出で手伝ってくれた。
――いくらなんでもあれはないです。ウザすぎる。
――正直ちょっとウザくて……申し訳ありません。
――ウザい男はもてませんからね。
どうやら彼女達の間でもジェイドの執着っぷりは問題視されていたようだ。あれよあれよという間に、シェーラは城の休憩場所や、抜け道や穴場、隠し扉など、ジェイドをかわす方法を多数教えてもらった。それにより、シェーラの自由時間はさらに増え、息苦しさはすっかりなくなった。
そうこうしているうちに、なんとなく適切な距離が取れるようになり、今の状態に落ち着いている。
今ならもう少し正直に、自分の気持ちが言えるだろう。
でも、あのころは無理だった。
(そう思うと……わたくしたちの関係も、少しは深まっているということかしら)
だとすれば嬉しい。
あのやさしい竜人の番を、シェーラは心から愛している。
可愛くて、分かりやすくて、誰よりも愛情深い。
あの人のためなら何でもできる。どんな事でもしてあげたい。愛しくて愛しくてたまらない、シェーラの大切な唯一の人。
胸に手をやると、ジェイドから渡された竜の鱗が触れた。
番の証であり、シェーラの宝物だ。
それを握り、一度目を閉じる。
――もしも、これがなくなったとしても。
彼との絆はきっと消えない。
だから、大丈夫だ。
「シェーラ、こんなところにいたの?」
目をやると、ジェイドが近づいてくるところだった。
「庭は綺麗だけど、寒くない? 上着は?」
「大丈夫よ、ジェイド」
微笑んでシェーラは身を寄せた。すぐにジェイドがマントでくるみ、二人で寄り添う。夜の庭は少し冷えるが、寒いというほどでもない。
「昔のことを、思い出していたの」
「昔?」
「そう、昔のこと」
ジェイドには意味が分からなかっただろう。それでもジェイドは笑みを浮かべ、「そっか」と頷いた。
「今度話してくれる? 聞きたいな」
「ええ、もちろんよ」
寄り添ったまま、二人は会話を交わしている。
今は緑の多い庭だが、すぐに花盛りになるだろう。
月の光が柔らかな葉に落ちて、やさしい影を作っていた。
了
お読みいただきありがとうございます。侍女一同、みんな同じ気持ちです。
*この時の出来事が、第25話の1~5行目につながってきます。ジェイド……。