3.ジェイド
さわり、と風が吹いた。
華やかな風が吹き込んできたという錯覚があった。
気づくとアイナの目の前に、知らない青年が立っていた。
美麗だ――と思ったのが最初の印象だった。
青みがかった黒髪に、鮮やかな黄金色の瞳。色合いは第一王子に近いが、その顔立ちはやや異なっている。第一王子の顔をもっと甘くして、華やかさを足した感じだ。
何よりの違いはその表情だった。
大輪の花が咲き誇ったような笑顔が、彼の顔に浮かんでいる。
彼は満面の笑みを浮かべたまま、アイナの顔を覗き込んだ。
「うわぁ、ほんとに目を覚ましてる。初めまして、お嬢さん。兄上が連れてきた人間のお姫様って、きっと君のことだよね?」
「お、お姫様?」
「それにしても可愛いなぁ。僕の番もとんでもなく可愛いけど、君もとっても可愛いね。ああ、僕はジェイド。君の名前を聞いてもいい?」
「あ……アイナです」
「アイナ。いい名前だね。アイナって呼んでも構わない?」
アイナが頷くと、ジェイドと名乗った青年はにこっと笑った。
年齢は二十歳前後くらいだろうか。口調は子供っぽいが、まなざしはどこか大人びている。見た目よりも年上なのかもしれない。
彼の笑顔に合わせ、キラキラと空気が輝き出す。
今まででも十分華やかだった空間が、さらに彩りを増していくのが分かった。
(目が……ちかちかする)
信じられないほどの美貌の主が、惜しみなく笑顔を振りまいている。
あまりにもまぶしくて、まともに顔が見られない。それでも彼の言葉の中に気になる単語を発見して、アイナはようやく口を開いた。
「あ……兄上って?」
「第一王子って呼ばれてると思うけど、分かるかな。あ、僕は第七王子だよ。どうぞよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします……え、第七王子?」
その名前は聞いた事がある。
竜の国に連れられていく最中、第一王子の口から聞いた。
あれは何の話だったか。そう――確か。
「確か……人間の、番の方がいるって」
「――うん、そうなんだ」
そこで彼は困った顔で笑った。
「本当ならすぐに紹介したいんだけど、少しだけ待ってくれるかな。アイナはその……狼の国から来たって聞いた。間違いない?」
「……はい」
「嫌だったら答えなくてもいいから。アイナはそこで、あんまりいい扱いを受けていなかったとも聞いた。それも本当?」
「……はい」
「そっか。……大変だったね」
いたわりと苦さの混じった声に、アイナは目を瞬いた。
ジェイドは少し眉を下げ、悲しそうな顔をしている。
どうしてそんな顔をするんだろう。彼には関係ないはずなのに。
それを不思議に思う間もなく、ジェイドが「ごめんね」と微笑んだ。
「ちょっと事情があって、まだ会わせることはできないんだ。どう説明したらいいのか……とにかく、今は時期尚早だって言われて。特にアイナはまだこの国に来たばかりだし、もう少し落ち着いてからの方がいい」
「分かりました」
「嫌なことを思い出させたお詫びに、何かお願いを聞いてあげるよ。何がいい?」
「何って……ええと」
「なんでもいいよ。高い山に咲く花を摘んできてもいいし、海の水を汲んできてもいい。アイナが望むなら、できる限りのことをしてあげるよ」
「いえ、そんな」
驚いたが、ジェイドは本気のようだ。やる気満々で身を乗り出す。
「こう見えても、僕はそこそこ頼りになるんだよ。ねえ、ファナも知ってるだろう?」
「そうですね」
そばに控えていたファナが肯定する。
逡巡するアイナを見て、安心させるように笑いかけた。
「大丈夫ですよ、アイナ様。第七王子殿下はとても優秀なお方ですから、ご遠慮なく甘えてしまえばいいのです」
「でも、何をお願いすればいいのか……」
「なんでもいいよ。言っただろう? 僕の番は人間で、アイナと同じ種族なんだ。番の同族は僕の同族。その家族も同じだよ」
だから遠慮しなくていいと断言される。
まだ知らない彼の番は、どうやらとんでもなく愛されているようだった。
微笑ましいと思う反面、ツキリと胸の奥が痛む。
こうやって、大切にされる「番」もいる。
アイナもかつては同じように愛されていた。それはもう、二度と手に入る事がないけれど。
それをうらやましいと思うよりも、乾いた切なさと寂しさがあった。
なつかしさにも少し似た、もう戻らない遠い記憶。
多分、悲しいのかもしれない。理由はよく分からないけれど。
アイナから願い事を聞き出そうとしたジェイドだが、どうしても思い浮かばないアイナに固辞されて、しぶしぶその場はあきらめた。その代わり、いつでも手を貸すと約束される。
どうしてそこまでしてくれるのだろう。
不思議だったが、彼にとっては当然の責務のようだった。
「……ごめんね」
「え?」
去り際に聞こえた声は、空耳だろうか。
頬をなでる声はやさしくて、いつまでも耳の奥に残った。
それからは特に何事もなく、ゆったりと時間が流れていった。
竜の城は静かで、嘘のように穏やかだった。いつまでもここにいたいと思うくらい、本当に幸せな時間だった。
果物を食べ終えて一息つくと、なんだか眠くなってきた。
先ほどまでずっと眠っていたのに、まだ眠いなんておかしい。
でも、ずっと休みがなかったから、やっぱり疲れているのかもしれない。
「寝台でお休みください。私は外に控えております」
「……待って」
離れていこうとしたファナを、アイナは反射的に呼び止めた。
「行かないで……ください」
「アイナ様」
「ファナ……さん、行かないで……そばにいて」
「……お邪魔ではありませんか?」
ぶんぶんと首を振り、アイナはファナの服をつかんだ。
この手を離したら、彼女がどこかへ行ってしまう。それがひどく恐ろしかった。
「眠るまででいいんです。我がまま言ってごめんなさい……でも、でも、怖くて」
ひとりは怖い。
眠ったら誰かがやってきて、狼の国に連れ戻されてしまうかもしれない。
それともこれは全部夢で、起きたらまだあの国にいて、辛い一日が始まるのかも。
次に目を開けた時、アイナがいるのがこの城ではなく、見慣れた狼の国だったら。
指先が震えているのに気づき、アイナはぎゅっと目を閉じた。
なんて情けないんだろう。自分は今も、あの国に心を囚われている。
「……ご安心ください、アイナ様」
ふわりとやさしい感触に包まれた。
「お休みになるまで、ちゃんとおそばにおりますから。目を覚ましても、アイナ様をお守りする者をつけましょう。大丈夫、たとえ誰が来ても、アイナ様を渡すものですか」
「ファナさん……」
「ですからどうか安心して、ごゆっくりお休みくださいね」
しなやかな腕に包まれて、羽根のようにふんわりと抱きしめられる。
ほっとした途端、急激に眠気が襲ってきた。
(寝台に行かないと……。ここで、寝ちゃ、だめ……)
その思考が終わるより早く、アイナの意識は急速に途絶えた。