29.あなたの番になりたかった(了)
「もちろん家族として、そういうこともあるでしょうが……。私より、姉を守ってもらわなくては」
「なぜだ」
「なぜってその……そういうもの、です、よ、ね?」
慌てて自分の知る限りの常識と照らし合わせたが、間違ってはいないだろう。姉達との会話を思い返しても、「妻を守らない男は滅べ」だった。もしくは「ひねり潰されるか握り潰されるか選べ」だ。何をと聞いたら、二人そろってうふふと笑った。過激な姉で何よりだ。
「意味が分からない。お前を一番に守らなくてどうする」
「守られても困ります。そんなことになったら、家庭不和じゃないですか」
「どうしてそうなる。人間の習性か」
「違いますよ。普通はそういうものです」
「なぜだ」
「なぜって……」
むしろなぜそんな事を聞く。
「理由が分からない。なぜ姉を優先する?」
「当たり前じゃないですか。優先してくれないと困りますよ」
「どうしてだ。理由を話せ」
「理由も何も……」
姉の夫が、特別な事情もなくアイナを優先したら問題だろう。夫婦喧嘩まっしぐら、場合によっては離婚である。いや、その前にひねり潰されるかもしれない。そもそも、別に暮らす事は決まっているので、優先したくても無理だろうが。
言いたい事は多々あったが、ギルフェルドの表情を見て口をつぐんだ。
ギルフェルドは理解しがたいという顔をしていた。
「お前は、その男がお前より姉を優先するのを認めると?」
「それはそうですよ」
姉の夫なのだから当然だ。
「理由があるのか」
「ありませんよ」
むしろないからそうなるのだ。
「それならば、どうしてそんな横暴を許す?」
「横暴じゃないですよ。当然です」
「なぜだ。お前の夫になる男だろう」
「姉ですよ!」
思わずアイナは叫んだ。
「姉?」
「姉の夫になる人に、一番に守られるわけにはいかないじゃないですか。姉を優先するのも当然です。もしかして、竜人は違うんですか?」
だとすれば、種族の違いは大きすぎる。
何か言おうとしたアイナは、ギルフェルドの様子に気がついた。
彼は大きく目を見開き、ぽかんと口を開いている。そんな表情を見るのは初めてだった。
「……姉? では、今日の婚礼は」
「花嫁は姉で、私は花嫁の妹です。……え、あれ? もしかして、私が花嫁だと思ってらしたんですか?」
ギルフェルドは何も答えない。呆然と、というのがぴったりな表情で、アイナの顔を見つめている。「ジェイドめ…」と呟いた声は空耳か。次の瞬間、息を呑むような変化が起きた。
藍色の瞳に光が宿り、金色がまばゆい輝きを帯びる。大空の星々が一斉に騒ぎ出すように、きらめきが一気によみがえった。
「私に夫はいませんし、結婚の予定もありません。誤解してお祝いにいらしてくださったんですか? それは……申し訳ありませんでした」
「いや……」
曖昧に首を振り、ギルフェルドは胸を押さえた。
その目はアイナを見つめたままだ。瞬きもせず、食い入るようにアイナを見ている。揺らめいていた瞳の奥の炎が消えて、別の炎が点ったように見えた。
執着。未練。哀しみ。慟哭。――そして、希望。
「構わない。お前に会えてよかった」
「ギルさま……」
「次はきちんと確認しよう。今度こそ、あふれるほどの花を贈る」
約束する、と穏やかに告げる。炎はすぐに形を変えて、瞳の底に閉じ込められた。
この人は、と思った。
本心を隠すのがうまいのだ。瞳以外、すべて。
その瞳さえ、ずっと見ていなければ分からなかった。理由は不明だが、彼はひどく悲しみ、その後喜ぶべき事が起こり、なぜかそれを隠そうとしている。
理由を考えようとして、アイナはそれを放棄した。
思考はまるで働かない。彼はアイナから目を離さず、アイナも彼から目をそらせない。この目を離したら消えてしまうとでもいうかのように、ひたすら互いを見つめている。
胸から一本の糸が伸びて、彼の心臓とつながっている。理由もなく、そんな想像が浮かんだ。
この糸を切ってしまったら、彼は死んでしまうだろう。体ではなく、心が。
そしてアイナも無事ではいられない。それなのに、実際は目に見えず、手に取る事もできないのだ。ある事さえ気づかない、細い細い、頼りない糸。
その糸だけをよすがに、アイナは彼を見つめ続ける。
永遠と呼べるほどの時間が過ぎ、やがて片方が均衡を崩した。
先に動いたのはギルフェルドだった。
「邪魔をして悪かった。元気で暮らせ、アイナ」
「あ……」
「本当に、会えてよかった」
会いに来て悪かった、と聞こえた気がした。
背中を向けようとして、ギルフェルドは手にした花の存在を思い出したらしい。少し笑い、アイナの髪にそれを挿した。
しなやかな指が髪に触れ、耳の脇をかすめる。以前にも似たような事があったと思い出した。
ふわりと甘い香りがする。
体温を感じたのは一瞬、すぐにそれは離れていった。
「よく似合う。祝いの花だ」
「ありがとう……ございます」
どうしよう。
このままだとギルフェルドが行ってしまう。
引き留めたくても、どうしたらいいか分からない。彼は小さく顎を引き、今度こそアイナに背を向けた。ためらう様子はなく――少なくとも表面上は――見えない翼をはためかせるために顔を上げる。
(待って)
何か、何か方法は。
(行かないで)
だって、まだ。
(ここにいて)
まだ――何も。
ギルフェルドの上体が動き、空に飛び上がろうとした――その時。
「……ギルさま!」
アイナの声が、彼の動きを縫い止めた。
ギルフェルドが驚いたように振り返る。
「ギルさまは……竜人の、番の方が、見つかりましたか?」
「……いや」
浮かんだ表情をすぐに消し、ギルフェルドが首を振る。
「じゃあ、今はご自分で番を探していらっしゃるんですか?」
「いや、そのつもりはない」
必要もない、と後を続ける。それを聞き、胸がしくりと痛んだ。
「どなたか……心に決められた方がいらっしゃるんですか?」
「……そうだな」
頷いた彼に、先ほどよりも鋭い胸の痛みを感じた。
それはそうだろう。彼ほどの人ならば、いつまでも独り身というわけにはいかない。きっとその恋はうまくいく。新たな番をわざわざ探そうとしないのも、その人がいるからに違いない。
それでは、彼は番を手に入れるのだ。
本能と運命に導かれる番でなく、自らの意志で選び取る、己自身の番を。
そうか。
そうなのか。
(そうなんだ……)
よかったと、言わなければならない。
うまくいくといいですねと、笑って背を押さなければ。
幸せを祈っていますと告げて、今度こそ決別しなければいけない。
それなのに、どうしてだろう。
勝手に涙が込み上げてきて、笑顔さえうまく作れない。
(待って)
お願い。
どうか――どうか。
「……決めないで」
「アイナ?」
「番……まだ、選ばないで……」
小さな小さな、声だった。
あまりに小さくて、自分の耳に届くのがやっとなほど。それなのに、ギルフェルドは正確にそれを聞き取ったようだった。
「勝手なことを言ってごめんなさい。でも……でも、お願いします。少しだけ、もう少しだけ、待って……」
お願いだから――。
「種族が、違うと……駄目ですか」
「アイナ、どうした」
「寿命が違うと……無理ですか」
「どうした、何かあったのか」
「ギルさま……ひとつだけ、私に聞いてないことがあります」
こぼれ落ちる涙をぬぐい、アイナは小さくしゃくりあげた。
「幸せかって……聞いてない」
「――――」
「家族もいて、周りはみんな人間で、ご飯もちゃんと食べてます。平和で、にぎやかで、幸せで……。そんな、幸せな、はずなのに……」
いつもどこかが空っぽで、少しだけ寂しかった。
家族と笑っている時も、ぐっすり眠った翌朝も、お腹いっぱい食べた日も。
ふとした時に浮かぶのは、いつも同じ姿だった。
「……家に戻ってからずっと、同じことを考えてました」
「…………」
「ギルさまのことを、思い出していました」
あの人はどうしているだろうか。
今も仕事に追われているだろうか。疲れてはいないか、何か困った事はないか、命を狙われたりはしていないか。
たまには庭を眺めたり、空を見上げたりしているだろうか。もしかして、同じ時刻に同じ空を眺める事もあっただろうか。
――幸せで、いるだろうか。
遠く離れていても、彼が幸福であるようにと願った。誰よりも幸せであってほしいと、毎日のように祈っていた。
届かないと分かっていても、元気だろうかと口にした。
会いたいと、顔が見たいと、何度も何度も思っていた。
種族の違い、寿命の違い、身分と立場の違いに、背負うべき荷物の重みと価値。それらを突きつけられてもなお、あきらめられなかったのだ。
「行かないで」
ぼろぼろと涙がこぼれていく。ひくっとしゃくりあげ、みっともなく袖口で涙を拭く。ギルフェルドは困惑した顔でそれを見ていた。
「……お前は、家族とともにいるだろう。人間の世界で生き、人間とともに暮らす。それがお前の幸福のはずだ」
「そうだけど……そうじゃない」
それでは足りない。決定的に足りないものがある。だって――だって。
「ギルさまがいない」
「…………」
「一番会いたい人が、いない……」
瞬間、ギルフェルドがきつく拳を握ったのが見えた。
「……竜の国に行けば、家族と離れることになる。今までのように一緒に暮らすことは難しい。私は国を離れられない。お前を家族と引き離したくない」
「兄は出稼ぎに行ったりするし、姉もお嫁に行きます。弟も妹も、ずっと一緒にいるわけじゃない。それが隣村でも、別の国でも同じです」
「だが、竜の国は遠い。お前が望むなら、できる限り里帰りさせよう。それでも、お前が家族から引き離されるのは変わらない」
「違いますよ、ギルさま」
すんと洟をすすり、アイナは笑った。
「離れていても、家族です。どこにいても、何をしていても、家族は私のそばにいます。ひとりぼっちなんかじゃない」
ここに、と自らの胸を示す。そこにはギルフェルドからもらった竜の鱗がきらめいていた。
「だが、それでは」
「家が花なら、家族は種です。ずっと同じ場所にいたいけど、いつかは旅に出るんです。そこで新しい場所を見つけて、新しい家を作ります。みんなそうやって、家族を作っていくんです」
小さな種が芽吹くように、新しい暮らしが息づいていく。
知らない土地に根を張って、新たな日々を歩み出す。
試行錯誤を繰り返し、喧嘩や仲直りを繰り返し、少しずつ思い出を積み重ね。
そうやって、新しい世界で花開く。
だから。
「新しい家族を作ることも、できるんです」
「……!」
「これから家族になることだって、できるんです」
そこには血のつながりも、種族のつながりも関係ない。
ただ、家族になりたい。そう願うだけで生まれる絆を、どうか消さないでほしいと思う。互いの覚悟ひとつでちぎれてしまう脆弱な糸。それでもそれは、何よりも強い絆だった。
ごめんなさい、とアイナは言った。
「勝手なことを言ってごめんなさい。幸せじゃないなんて言ってごめんなさい。でも……でも、私……」
――今のままじゃ、幸せになれない。
声にならない響きに、ギルフェルドは眉を寄せた。苦しげに息を吐き、囁くように告げる。
「……私のそばにいることで、お前は苦労するだろう。竜人の影響を受ければ寿命も変わり、いずれは家族を見送ることになる。愛する人に先立たれ、取り残される哀しみを背負わせたくはない」
「人間だって同じです。いつどうなるかは、誰にも分からないことだから」
「それでも、お前を悲しませたくはない」
「違いますよ、ギルさま」
どう伝えたらいいのか分からなかったが、言うべき事は決まっていた。飾る言葉も駆け引きもなく、素直な気持ちを口に載せる。
「私は今、悲しいです」
「……」
「寂しくて、辛いです。苦しいです。――私は今、幸せじゃない」
だって。
「あなたがいないと、幸せじゃない」
ギルフェルドがはっと息を呑んだ。
「す……好きな方がいるのに、こんなことを言ってごめんなさい。でも、どうしても……これだけは、ちゃんと伝えておきたくて」
今言わなければ一生後悔すると思った。
二年前は言えなかった。口に出すのが怖かった。そんな勇気も覚悟もなく、失う事に怯えていた。
あきらめて手放したつもりでも、どうしても忘れられなかった。
本当は、今でも怖い。拒絶されたらどうしよう。もう会えなくなったらどうしよう。なんて馬鹿な事をと思う自分が、胸の中で叫んでいる。それでも言葉は止まらなかった。
「……会いたかった」
「アイナ……」
「ずっとずっと、会いたかった」
「アイナ、私は」
「あなたが好きです、ギルさま」
最初で最後の告白は、涙に濡れてかすれていた。
ギルフェルドはどんな表情を浮かべているだろう。そう思うのに、視界がにじんで分からない。
「あなたに会えたら、言いたかったことがあります。もし……もし、まだ、番が決まっていないなら……」
声が詰まる。涙がこぼれる。
「……私を……番にしてください」
どうか。
どうか、叶うなら。
「あなたの番にしてください」
他には何も望まない。他には何もいらないから。
私はあなたの番になりたい。
種族が違おうと、寿命が違おうと、家族をいつか見送り、悲しみに押しつぶされそうな日が来ようと。
心細さに泣き濡れても、この手を離したくはない。そう思ってしまったから。
「あなたの番に、なり――っ……」
続く言葉は言えなかった。
ギルフェルドにきつく抱きすくめられ、アイナは思わず息を呑んだ。
「……竜人は番に執着する。他の種族など足元にも及ばないほど強く、強く。一度手に入れれば、二度と手放さない。死ぬまでずっとだ」
それでもいいのか、と囁かれる。アイナはこくこくと頷いた。
「お前の苦難は私が払う。邪魔する者は容赦しない。お前が望むなら、どんな願いも叶えよう」
「いらないですよ、そんなの」
ギルさま、とアイナは笑いかけた。
「一緒に生きていきたいです。嬉しい時も、悲しい時も、ずっと」
「……ああ」
約束しようとギルフェルドが頷く。
「お前が番だ、アイナ」
「ギルさま……」
「私の番だ。もう二度と離さない」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、さすがに苦しくなってアイナはうめいた。
「ちょっと……ちょっと待ってください、強い、きつい」
「すまない、つい」
すぐに力はゆるんだが、未だに腕の中に閉じ込められている。髪に頬に口づけられ、ふたたび強く抱きしめられた。
「愛している、アイナ」
「ギルさま」
「お前が、お前だけが……私の番だ」
間近で見上げたギルフェルドの瞳は、満天の星のようにきらめいている。
この瞳がこんなに輝いているのを初めて見た。
番を得た獣人は、皆このようになるのか。
至上の喜びに満ちあふれ、黄金の輝きに彩られ、尽きせぬ愛しさを捧げ続ける。胸を打つほど切実に、誠実に。狂おしいほどの熱情を秘めて。
(ああ……)
なんて、愛おしいのだろう。
ギルフェルドの体から目に見えない何かが湧き上がり、周囲に広がっていくのが分かった。
「アイナ」
そっと、名前を呼ばれる。
大切な宝物に対するように慎重に、ひそやかに。
だからアイナは身を固くして、少し身じろぎ、それからそろそろと目を閉じた。
たまっていた涙がこぼれ落ちる。
それと同時に、ギルフェルドの唇が重なった。
***
***
それからしばらくして、村からもうひとりの花嫁が出た。
家族全員に祝福され、色とりどりの花に囲まれて、美しい衣装に身を包んだ花嫁は凛々しい竜人の手を取った。
二人は幸福そうに微笑み合い、ごく自然に寄り添った。
「忘れ物は?」
「ありません」
「荷物はあるか。大切なものは」
「ありません。もう全部送りました」
「別れを告げたい者はいるか」
その言葉に、花嫁がくすぐったそうに笑う。
「もう十分言いました。さっさと行けって言われましたよ」
「なるほど」
それならいい、と竜人が微笑む。
「では――出発だ」
そして彼らは飛び立った。
行き先は竜の国。竜人達が暮らす地だ。
花嫁の衣装がなびき、風を受けてひるがえる。
その胸には、まばゆい竜の鱗がきらめいていた。
了
お読みいただきありがとうございました!
*『わたしは番になれなかった』の後日談です。
ブクマと評価とリアクション、どうもありがとうございます。とても励みになりました。またどこかでお目にかかれると幸いです!