24.番だった娘
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それから二日、アイナは熱を出して寝込んだ。
「ひどい目に遭われて、心労が大きかったのでしょう。お気の毒に……」
ファナが付きっきりで世話を焼いてくれたが、ろくにお礼も言えなかった。
熱にうなされている間、昔の夢をいくつも見た。ほとんどは辛い記憶だったが、中にはなつかしいものもあった。
――アイナ。ほら、ザクロをやろう。お前が好きだと言ったから、取り寄せたのだ。
ああ、これはガルゼルの声だ。
記憶の中のガルゼルの声。
――アイナ、うまいか? 一番良いものをと命じたのだ。一番大きくて、一番甘いのだ。すごいだろう!
真っ赤なザクロの実と、それを差し出すガルゼルの手。
――俺にも一粒分けてくれ。お前の手からもらいたい。
そう言って、アイナが手渡すザクロの粒をぱくりと食べた。
指先に唇が触れ、アイナは思わず手を引っ込めた。
それを見て笑ったガルゼルの顔は、ひどく幸せそうだった。
(そうだ)
出会ったころのガルゼルは、いつでもこんな顔をしていた。
赤く輝く瞳がこちらを見ている。
ザクロとよく似た、宝石のようなガルゼルの瞳。
あの色が、アイナはとても好きだった。
この人とずっと一緒にいるのだと、そう思った時もあったのに。
「……あ……」
目を開けると、そこは自分の部屋だった。
「アイナ様、お目覚めになられましたか?」
すぐにファナが駆け寄ってくる。
「こんなにやつれて、お可哀想に……。何か召し上がりたいものはありますか? 飲み物は?」
「いえ、大丈夫……です」
「では、せめてお水を」
口元に差し出された水を、アイナは一口飲み込んだ。
レモンを絞っているらしく、爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。喉を通った心地良さに、思わずほっと息がこぼれた。
「おいしい……」
「それはよかったです。本当に……あのクソ狼……ぶち殺してやる……」
アイナの意識が戻ったせいか、ファナの口癖が復活している。それには触れず、アイナは一番気にかかっていた事を口にした。
「……ガルゼルさまは……どうなったんですか?」
「アイナ様が気になさる必要はありません。あんな男、八つ裂きにしても足りないくらいです」
相当腹に据えかねたのか、ファナの目が据わっている。一応狼の国王なのだが、それは関係ないらしい。あんな男、と吐き捨てる口調には凄みがあった。
それ以上聞き出す事もできず、アイナは追及をあきらめた。
「すぐに第一王子殿下をお呼びします。アイナ様がお目覚めになる直前まで、ずっと付き添っていらしたんですよ」
「そうですか……」
そういえば、夜中に何度か目覚めた時、ギルフェルドの姿もあった気がする。
ツキン、とアイナの胸が痛んだ。
「アイナ様?」
「……なんでもないです。もう少し寝てもいいですか?」
もちろんですという声を受け、アイナはふたたび横になった。
心の中でいくつもの感情が生まれて消える。
泡のように浮かび上がり、パチンと弾けて消えていく。
どうしよう、とアイナは思った。
誰にも言えない。言えるはずがない。
今になってこんな事、知りたくなかったのに。
翌日もアイナの体調はすぐれず、食欲もあまり湧かなかった。
ファナはガルゼルのせいだと思ったらしく、「クソ狼」が「どクソ狼」に進化していた。止めるのも変なので放っておいたが、さすがに周囲に止められていた。止めたところで「どクソ狼」が「クソ狼」に戻るだけなのだが。
ギルフェルドも毎日見舞いに訪れ、アイナの様子を確かめている。ガルゼルの話は出たものの、詳しい話は聞けなかった。
誰もが皆、ガルゼルのしでかした事に憤り、アイナに同情を寄せている。
レフリレイアの処分も決まった。ギルフェルドの言った通り、王家との絶縁は決定的となり、ザグートの一族もかなりの責を負ったようだ。レフリレイアの暴走はもちろん、一族の者が竜の城を襲撃したのだ。そうなるのも当然だろう。
しかも、襲われたのは第一王子が目をかけている侍女と、第七王子の番である。特にジェイドの怒りはすさまじく、一族を壊滅する勢いだった。
あんなにやさしくて可愛い人が、そんなに怒る姿は想像もできない。
けれど、その話をした人々は全員遠い目をしていた。
――まぁ……番に手を出されたのだから……。そう、まぁ、仕方ない……でしょうね……。
彼が何をしたのかアイナは知らない。
アイナの周りは平穏で、静かな時間が流れていた。
数日もすると、ガルゼルの話題は出なくなった。
誰もガルゼルの名を口にせず、事件に触れない。ファナもあれ以来、たまに「クソ狼」と呟くだけになった。それはありがたかったけれど、気を遣いすぎだと思った。
――本当は、知りたいのに。
シェーラが訪ねてきたのはそんな時だった。
***
「気分はいかが、アイナさん?」
「シェーラさん……」
「顔色はいいみたいね。良かったわ」
今日もシェーラは美しかった。
ひどい顔つきに気づかないはずはないのに、シェーラはそれに触れなかった。部屋の外にはジェイドもいて、アイナにそっと手を振った。
「悪いけれど、二人きりにしてもらえるかしら。アイナさんと内緒のお話があるの」
「かしこまりました」
ファナが部屋を出ていくと、シェーラは寝台に歩み寄った。
「そのままでいいわ。起き上がるのは辛いでしょう」
「いえ、でも」
「気になるなら体を起こして、背中に枕を当てるといいわ。……ええ、それで大分楽なはずよ」
言われた通りにすると、確かにずっと楽だった。
「熱を出したと聞いたの。もう大丈夫なの?」
「はい」
「こうしているのも疲れるでしょうから、手短にね。アイナさんが心配されている方は、今は地下牢にいるわ」
「!」
はっとアイナは息を呑んだ。
「処分が決まっていないのよ。狼の国に使いは送ったけれど、尋問が進まなくて。その状態で送り返すわけにはいかないでしょう。あちらも困惑しているみたい」
「どうして、それ……」
「ジェイドに教えてもらったの。アイナさんが知りたいのではないかと思って」
シェーラのまなざしはやさしかった。
「……どうして?」
「だって、わたくしもそうだったもの」
知りたくてたまらなかったもの、と。
それを聞いてアイナは思い出した。
前王もこの城に忍び込み、シェーラを攫おうとしたのだ。そしてすぐに捕らえられた。今は別の場所にいるらしいが、詳しくは知らない。
シェーラはその時、一体何を思っただろう。
「それが分かるのは、この城ではわたくしだけだと思ったの。だから、教えに来たのよ」
「……ありがとうございます」
礼を言うと、彼女は柔らかく目を細めた。
「ねえ、アイナさん。あの方に会いたい?」
「それは……」
「誰にも言わないわ、約束する。だから、正直に答えてね。……会いたい?」
アイナは信じられない気持ちだった。
なぜ彼女がそんな事を言うのか分からない。会いたくないと――そう言ってしまうのは簡単なのに、口がうまく動かなかった。
「……どうして……?」
「言ったでしょう。わたくしもそうだったもの」
だから隠し事はなしよ、と微笑んで。
「わたくしの糸は切れてしまったの。だからあの方を見ても、番という情は湧かなかった。けれど、わたくしはあの方に恋していた。六年の間、ずっと」
人柄を知り、会話を交わし、思い出を積み重ねていく中で、愛しさは少しずつ育っていった。それは番だからでなく、彼自身を好きになったからだ。
番の糸が切れても、すべてが消えたわけではなかった。
「……番というのは、本当に不思議ね。わたくしたち人間には感じ取れないはずなのに、それでもどこかが訴える。この人が番だと分かる時がある。獣人よりもずっとわずかで、瞬きのようなものだけれど」
「シェーラさん……」
「行きましょう。ジェイドが時間を稼いでくれる」
そう言うと、シェーラは手を差し伸べた。
「地下牢の見張りに話もつけたわ。少しの間なら大丈夫よ」
「えっ、で、でも」
「心配ないわ。何かあればわたくしが責めを負う」
いつの間にか、扉の外に人の気配がなくなっていた。
ジェイドの姿も消えている。シェーラに付きっきりの彼が、そう簡単にそばを離れるはずがない。
「どちらにしても、尋問ができないと彼らも困るものね。たとえ見つかっても、きっと見逃してくれるでしょう」
シェーラは晴れやかに微笑んだ。さあ、とアイナに決断を迫る。
「私は――……」
アイナはごくりと息を呑んだ。
そして、シェーラの手を取った。




