21.怒り※
「アハハハハ! いい顔ね。その顔が見たかったのよ」
「や……」
「もっとわたくしに見せてちょうだい。そのみすぼらしい顔が苦痛と羞恥に歪むのが、今からとても楽しみだわ」
「アイナにひどい真似をする気はない」
ガルゼルが口を挟んだが、「お黙り」と撥ねつけられる。
「お前が今からどんな目に遭うか、じっくり教えてあげましょうか? わたくしの目の前で、お前はこの男のものになるのよ。どんなに嫌がっても許さない。この男はお前を逃がさないし、わたくしも逃がすつもりはない」
「やめ……」
「どれだけお前が悦んだか、あの方に報告してあげる。心配しなくても、泣き叫ぶ声は聞こえないわ。ここは禁じられた奥庭の先。誰も助けには来ないもの」
「やめて、嫌……」
「最初は痛くて怖いでしょうね。でも、すぐに慣れるはずよ。だってお前たちは、運命で結びついているのだから」
「いや……っ」
「この男のものになりなさい。そうすれば、命だけは助けてあげる」
みっともない小娘、とレフリレイアが吐き捨てる。
「下等な人間の小娘が、あの方のおそばにいるなんて。最初から許されないことだったのよ。それをわたくしが正してあげる」
扇を閉じ、その先でアイナの頬を軽く打って。
「泥棒猫にはお似合いでしょう? ああ、狼だったかしら。どちらにしても、同じことね」
ふふ、と意地悪く含み笑う。
そんな事を企てる者がいるという事実に、アイナは目を見開いた。
人間でも、竜人でも関係ない。
種族は違えど、相手は意思ある者なのだ。その思いを無視し、尊厳を傷つけて、自らの望みを叶えようとする。
そしてその相手が望むのは、ギルフェルドの番の座だ。
彼の番となるために、邪魔なアイナを追い落とす。そのためには手段を選ばない。それどころか徹底的に追い詰めて、取り返しのつかない事をしようとしている。
(……こんな人が……)
彼の番になるというのか。
運命に導かれず、互いに想い合う番。そんなものになろうというのか。
――嫌だ。
その瞬間、胸の中の怒りが燃え上がった。
「……あなたはギルさまにふさわしくない」
「なんですって?」
「あなたはギルさまの番じゃない。番になんか、なれるわけがない」
怒りが胸を燃やしていた。
竜の城で過ごしているうちに、体の傷は癒された。それと同時に、心もゆっくりと癒えていった。こうして怒れるようになったのは、助けてくれた人々のおかげだ。アイナを案じ、気遣ってくれたからこそ、こうして立ち直る事ができたのだ。
それをふたたび踏みにじろうとする人が、あの人の番のはずがない。
「ギルさまはあなたの番じゃない。私があの人の番じゃなくても、あなただけは違う。だってあなたは、ギルさまの隣にふさわしくない」
「何を……小娘が」
ガルゼルの腕から抜け出し、よろけつつ身を起こす。立ち上がる事はできなかったが、それでも今は十分だった。
「あなただけは番になれない。どんなに望んでも、手に入るはずがない」
何があろうと、絶対に。
(だって)
「あの人はそれを望まない」
だって。
「あなたみたいな人、ギルさまが選ぶはずがない!」
アイナの叫びに、レフリレイアは息を呑んだ。
じり、とヒールを履いた足が後ずさる。
肩で息をつき、アイナはレフリレイアを見据えた。
黒曜石のような瞳がきらめき、まっすぐに彼女を刺し貫く。
意識していなかったが、それはギルフェルドのまなざしによく似ていた。
アイナに気圧されたのを知ったのか、レフリレイアの顔が怒りに染まる。
「人間の小娘風情が、生意気なっ……」
始めなさい、とレフリレイアが命じる。
「その小娘に思い知らせてやりなさい。早くするのよ!」
「!」
絨毯の上に押し倒され、ガルゼルがのしかかってくる。彼は性急な手つきで肌をまさぐり、アイナの服をたくし上げた。
「やだ、やめっ……」
「おとなしくしろ。お前に怪我をさせたくない」
アイナの意思を無視している張本人が、そんな気遣いを向けてくる。お笑いだ、とアイナは思った。
「気持ちよくとまではいかないが、痛みを与えるつもりはない。お前は俺の最愛だ」
「だったら、離してっ……」
「それはできない。ここでお前を俺のものにする。今度こそ、本当の番になるために」
それが番なら、アイナには永遠に分からない。
分かりたくもない。これは単なる暴力だ。
見当違いも甚だしい。こんな手段で番になったところで、心がついてくる事は絶対にない。彼にはそれが分からないのか。
彼も――前王も。
番という存在さえあれば、あとはどうでもいいのだろうか。
アイナを傷つけ、無理やり自分のものにしても、心は手に入らないのに。
「愛している、アイナ。俺の番」
「嫌っ……」
「今度こそ大切にする。何があっても離さない」
「やめて――離して!」
「お前は俺の番だ。俺と一生を共にすることが、番であるお前の幸せだ」
その瞬間、先ほどとは別の怒りが湧き上がった。
「あなたがそれを決めないで!」
びっくりするほど大きな声が出た。
ガルゼルが弾かれたように身を起こす。まるで雷に触れたかのごとく、アイナを押さえつけていた手が離れた。
それを不思議に思う間もなく、急いで彼の下から抜け出す。出口に駆け出そうとして、アイナの全身が硬直した。
(何……!?)
すさまじい衝撃が足を凍らせる。
先ほども感じた恐怖と重圧。屈服したくなる衝動に抗いながら、かろうじて踏みとどまる。冷気が体にまとわりつき、足元から震えが湧き上がった。
動けなくなったアイナを引き戻し、ふたたび床に転がすと、レフリレイアは扇で指先を払った。
「言ったでしょう、逃がさないと」
「なに……を……」
「竜気で威圧を与えたわ。当分まともには動けないはずよ」
触れてしまったわ、忌々しいこと、とひとりごちる。
「人間の小娘ごときが、竜人に逆らえると思っていたの? お前はもう逃げられない。お前は今日ここで、狼の番になるのよ」
続けなさい、とガルゼルに命じる。同じく固まっていたガルゼルが、我に返ったようにアイナに近づいた。
「や……っ」
「このまま竜気を浴びせ続ければ、体の自由は利かないはずよ。嫌がって暴れる姿が見たかったのだけれど……仕方ないわ。たっぷり鳴かせてあげなさい」
「アイナ……大丈夫だ。おとなしくしていれば、すぐに済む」
「わたくしによく見えるようにしてちょうだい。特に、泣き叫ぶ顔が見えるようにね」
「嫌、誰か……!」
ふたたび冷気が吹きつけて、アイナの抵抗を封じてくる。
これが竜気なら、とんでもない代物だ。
ガルゼルが腰を抜かしたのも頷ける。こんなものをまともに浴びたら、竜人に逆らう事はおろか、顔さえまともに見られない。
ギルフェルドからたまに漏れていたピリピリとした気配。あれは竜気だったのだろうか。一度もアイナを傷つけた事のない、アイナを案じるあの気配は。
(ギルさま)
首筋に顔を近づけられ、アイナは懸命に抗った。
こんなところで彼らの思うようにはさせない。たとえ無理でも、限界まで抗ってやる。最後の瞬間まで、絶対にあきらめてたまるものか。
その強さをくれたのも、この城にいるやさしい人々――そして、ギルフェルド本人だった。
「私に、触らないで……っ」
「おとなしくしてくれ、アイナ。これで何もかも元通りだ」
「元通り?」
何を言うのかとアイナは思った。こんな時なのに、笑ってしまいそうだった。
「私は……変わりました。多分もう、元に戻ることはありません」
「何を……アイナ……」
「あなたへの気持ちは、恋じゃなかった。でも、寄り添うことはできると思った。私には番が分からないけど、そばにいることはできるから」
そう、彼に対する恋情はなかった。
けれど、親愛の情は感じていた。多分あのままいけば、やがて恋心に育っただろう。そういう予感は確かにあった。
――けれどもう、そんな未来は存在しない。
「あなたが私を捨てた時、私は番じゃなくなりました。本当はどうかなんて関係ない。私はあなたの番じゃないし、番に戻ることもありません」
「何を言っている!? お前は俺の番だ。それは間違いのないことなのだ!」
「私にはそれが分かりませんし、分かったとしても、答えは同じです」
胸の中がじくじくとうずいている。
その理由が分からないまま、アイナはガルゼルの目を見据えた。舌は先ほどよりもなめらかに動いた。
「離してください、ガルゼルさま」
「あ……」
「何をされても、元には戻れない。こんなことをしても、ただ嫌いになるだけです」
知らないうちに、冷気から解き放たれていた。
胸の中で燃える火が、彼女の威圧を消し去ったようだった。
それが分かったのか、レフリレイアが眉を吊り上げる。
「さっさと最後までしておしまい! 急ぐのよ、早く!」
「あ、ああ……」
ガルゼルがアイナの服に手をかけた時だった。
すさまじい風が吹きつけ、ガルゼルの体を吹き飛ばした。




