18.企み
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「兄上っ! どういうこと!?」
駆け込んできたジェイドに、ギルフェルドはちらりと目を上げた。
「騒々しい。どうした」
「それはこっちのセリフだよ。アイナを帰すって、どういうこと?」
「言葉通りだ。人間の国に戻す準備は進めていたが、それがようやく整った。遅すぎたくらいだ」
「そういうことを言ってるんじゃない。兄上、気づいてないの? あの子は多分、兄上の……」
「気のせいだ」
取りつく島もない返答に、ジェイドは「はぁっ?」と目を剥いた。
「そんなはずないよ。だって、分かってる? 兄上があの子を見る目、いつもすごくやさしいんだ。そもそも助けたのが本当でも、ここまで面倒を見る理由がない。それってアイナのこと、特別だって思ってるからじゃないか!」
「違う」
「違わないよ!」
「アイナはあの男の番だった。私の番ではない」
「そんなの、僕とシェーラもそうだったじゃないか!」
ジェイドの叫びに、ギルフェルドは嘆息した。
「……お前たちとは違う。あれは奇跡と呼んでいい」
「同じことが起こっても不思議じゃない。僕と兄上は血がつながってるし、シェーラとアイナも人間だ。条件は変わらない」
「なんと言われようと、私の気持ちは変わらない。話がそれだけなら、もう行け。私は忙しい」
「兄上の……分からず屋!」
もういい、と部屋を出ていくジェイドを見送り、そばにいたファナが眉を下げた。
「……よろしいのですか?」
「ああ」
「私の目から見ても、アイナ様はこの城で幸せそうに見えますが……」
言外に、無理に帰す必要はないのではと告げる。それに首を振り、ギルフェルドは口を開いた。
「アイナから家族の話を聞いたことはあるか」
「家族……ですか?」
「仲の良い家族だったそうだ。狼の国にいる間、くり返し思い出していたと。虐げられ、尊厳を傷つけられてもなお、忘れられなかったのだと」
故郷に帰りたい、とアイナは言った。
家族に会いたい、帰りたい、と。
それだけを心の拠り所にして、アイナは辛い日々を過ごしていた。
竜の城に連れてきて、衣食住を与えた。元の暮らしよりよほど贅沢なものを差し出しても、彼女は帰る事を望んだ。少しも迷う事はなかった。
――嫌だと思ってるわけじゃないんです。でも、ここは私のいる場所じゃないから。
どんなに手を尽くしても、一番の望みは与えられない。
アイナを家族の元に戻し、平穏に過ごさせる。そうする事が彼女にとっての最良なのだ。
「私といれば、寿命も変わる。家族と引き離し、別れを告げる。それを何度も繰り返す。最後にはひとり残される。無理に引き留めたとしても、アイナを悲しませるだけだろう」
「そんなことは……」
「国も違う。種族も違う。立場も違う。寿命も違う。私の何もかもが、アイナを縛る枷となる」
そんな事は断じて認められない。
あの娘を不幸にするくらいなら、そもそも言わない方がいい。
「それに、あの娘の番は狼だ。ジェイドの時とは違う」
「でも、ギルフェルド様はアイナ様がお好きでしょう?」
番でなくとも、愛しく思う気持ちがあるのだろう、と。
ギルフェルドは答えなかった。
藍と金の瞳が揺らぎ、深い影が落ちる。ファナはなおも言いつのった。
「あなたに番が現れないのは、アイナ様がいるからではないですか。それに気づいていても、あの方を手放されるのですか?」
「それがアイナのためになる」
「そんなの……ギルフェルド様が可哀想すぎるじゃありませんか……」
「そんなことはない」
ギルフェルドは静かに目を閉じた。
「ジェイドはああ言ったが、アイナは私の番ではない。……だが、幸せでいてほしいと思う。番であろうと、なかろうと、その気持ちは変わらない」
「ギルフェルド様……」
「あるべき場所で、幸せに暮らす。それが私の望みであり、アイナの望みだ」
だから、決定を覆すつもりはない。
「アイナを帰すのは半月後だ。皆にもそう伝えておけ」
「……かしこまりました」
ファナは深々と頭を下げた。
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(家に帰れる、か……)
最初にその話を聞いた時、喜びよりも戸惑いがあった。
信じられなかったのが半分、残りの半分は「帰るのか」という気持ちだった。
そう思った事が信じられない。ここに来るまでは、その事だけを願っていたのに。
家に帰れると知った時、嬉しさはもちろんあった。けれど、それと同じくらい、寂しいなとも思ってしまった。
ファナやシェーラ、ジェイドをはじめとした人々に、ここでの穏やかで平和な暮らし。どれを取っても、かけがえのない思い出た。
(それから)
――あの人のことも。
ギルフェルドの事を思うと、胸の奥がぎゅっとする。
でも、アイナに彼を想う資格はないのだ。アイナはガルゼルの番であり、ギルフェルドの番ではない。最初から無理な想いなら、考えない方がはるかに楽だ。
シェーラとは違う。あんな奇跡、何度も起こるものじゃない。
(でも……)
もし――もしも、許されるなら。
そう思ったところで現実に気づき、我に返る。
そうだ。自分はギルフェルドの手配で故郷に帰るのだ。最初から望みのない状況だった。
それに、とアイナは目を伏せる。
そんな事がなくとも、彼と一緒にいるのは無理な話だ。
シェーラの言うように、彼らと自分の違いは明白だ。何もかもが異なっていて、一生を共にするのは難しい。今はよくても、色々と弊害が出てくるだろう。何よりも生きる時間が違う。家族を見送る覚悟なんて、今のアイナにはない。考えたくもないと思う。
だから、自分には彼の隣にいる資格がない。
たかが平民の小娘がそんな夢を見てしまうほど、この城での生活は楽しかった。
やさしくて、あたたかくて、心地よくて。それは家族といる時とは違う、不思議に幸福な時間だった。
それを与えてくれた彼らには、感謝しかないだろう。
その時、アイナは胸がざわついた。
(何……?)
言いようのない不安が胸をかすめる。一瞬で消えてしまったそれは、つむじ風のようだった。
気のせいだろうか、でも。
その時、アイナは扉の下に何かが差し込まれているのに気づいた。
拾い上げてみると、それは小さな紙片だった。
中を開くと、短い文字が記されていた。
――ギルフェルドに異変あり。急ぎ奥庭へ。
(ギルさまが……!?)
何があったというのだろう。
ファナは席を外している。いつもならいるはずの女官の姿も周囲にない。
誰かに聞こうと思ったが、廊下に出ても人の姿はなかった。
遠くで騒がしい声がする。何かあったのは間違いない。バタバタと駆け回る音がして、「急げ!」「こっちだ」と叫んでいる。
(どうしよう……)
アイナに何ができるか分からない。けれど、もし、少しでも何かの役に立つなら。
アイナは奥庭へと駆け出した。
奥庭へ向かう廊下にも人の姿はなかった。いつもならありえない光景だ。どうやら大部分の人員を割いているらしい。ギルフェルドに何かあったのは、もはや間違いないだろう。それとも別の理由なのか。
不安が背中を押し、足はもつれるように先を急ぐ。
奥庭に着くと、そこにも人の気配はなかった。
「誰か……誰か、いるんですか?」
心がはやり、辺りを見回す。
「教えてください。何があったんですか?」
答える声はない。いたずらだろうか、まさか。
その時、草を踏みしめる音がした。
「……本当にあの部屋にいたのね」
見ると、レフリレイアがそこにいた。
豪奢なドレスを身にまとい、今日も相変わらず美しい。けれどその表情には険があり、彼女の美貌をわずかに損なっていた。
彼女はこの奥庭に入れないはずなのに、どうしたのだろう。
そう思ったところで、忌々しげな舌打ちをされた。
「あそこは特別な客人にしか許されない、高貴な部屋よ。どうしてお前が……まあいいわ。来なさい、こちらよ」
「何があったんですか?」
「それは向こうで説明するわ。お前にも関係あることなのだから」
それだけ言って背を向ける。だが、アイナは妙な違和感を覚えた。
彼女は自分を嫌っている。直接話すのも嫌なほど。
それなのに、こうして会話を交わしているのは不自然だ。
それほどの緊急事態だというのだろうか。でもそれなら、もう少し焦ってもいいはずだ。
(それに)
先ほどからずっと、胸の中がざわざわしている。
「あの……レフリレイアさま」
「なぁに?」
「教えてください。私をどこに連れて行くつもりですか?」
「着けば分かるわ」
「先に教えてください。そうじゃないと、一緒には行けません」
「あの方の一大事なのよ。それが分からないの?」
イライラしたように言われたが、却ってそれで確信した。一歩下がり、アイナはかすかに身構えた。
「教えてくださらないなら、部屋に戻ります。ファナさんか、他の誰かを連れてきます」
「だから、用があるのはお前だけなのよ。他の者は不要だわ」
「だったら理由を教えてください。できないなら、もう帰ります」
この話には何かある。やみくもに信用する事はできない。
「生意気な……」
レフリレイアが顔を歪めたが、アイナは一歩も引かなかった。
彼女は何かを隠している。よく分からないが、あまりいい事ではないだろう。
こうしていてもらちが明かない。一度戻って、誰かを呼んだ方がいいだろうか。できればファナか、無理なら別の人にお願いして――。
踵を返そうとした時、背後に人の気配がした。
振り向くより早く、鼻と口をふさがれる。ツンという匂いがして、ぐらりとアイナの体がかしいだ。
「何っ……」
「奥の部屋に連れ込みなさい。急いで!」
その言葉に合わせ、軽々と体を抱えられる。抗おうとしても、手足が言う事を聞かなかった。アイナを抱え上げたのは長身の男で、顔を布で覆っていた。
「その薬の効果は数分しかもたないわ。その前に、準備を済ませてしまいなさい」
(準備……?)
「楽しい宴の始まりよ、小娘」
レフリレイアがふふ、と含み笑う。
高慢で残酷な声だった。