16.成長/レフリレイア再び
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「り……りゅう、竜人。竜人の……王、子……は、姫君の手をとる、とり、とって……?」
「取って、が正解ね」
「取って、二人は、幸せに……暮らし、ました」
「よくできました」
シェーラの声に、ほっと胸をなで下ろす。読んでいた本を置き、アイナは小さく息をついた。
「もうこの本が読めるようになったのね。すごいわ、アイナさん」
「シェーラさんのおかげです。ありがとうございます」
礼を言うと、シェーラは美しく微笑んだ。
あれからシェーラと交流を重ね、今ではすっかり仲良くなった。文字が読めないと言ったアイナに、シェーラが教師を買って出てくれた。子供向けの教本だが、今のアイナにはぴったりだ。
ついでにと言われ、行儀作法も習う事になった。そちらは必要ないと言ったのだけれど、覚えて損はないと言われれば、強く抵抗できなかった。ファナが賛成してくれたせいもある。
ドレスの端をつまんでの挨拶も、お茶を飲む時の作法も、実はちょっと面白い。お茶をしながら話してくれるのはこの国の歴史で、非常に興味深いものだった。
シェーラは他に、人間の国の話もたくさんしてくれた。
簡単な計算や異国の言葉も教わったので、故郷に戻ったら重宝しそうだ。
「アイナさんは、本当に呑み込みが良くて素晴らしいわ。頭が混乱していない?」
「全然。とっても楽しいです」
自分が勉強好きな事を初めて知った。
ガルゼルと一緒にいた時は、そんな空気にならなかった。緊張していたせいもあるけれど、アイナが文字を読めないと言ったら、目につくすべての本を撤去されてしまった。「お前に恥をかかせる気はない」と言われたけれど、本当は文字を覚えたかった。
こっそり学ぶにも限度があって、結局はあきらめてしまったのだけれど。
でもこの城では、アイナのしたいようにさせてくれる。
午前中の勉強は終わったので、二人で一緒にお茶を飲んだ。お茶を持ってきてくれたのは、シェーラの事を口止めした侍女だった。改めて謝られてしまい、アイナはうろたえるはめになった。
午後の勉強の約束もして、アイナは早めに部屋を辞した。これから自分の部屋に戻って、予習と復習をしなければ。
歩き方も教わったので、ぎこちなく淑女の足取りで歩く。
シェーラは軽々とこなしていたけれど、当分できる気がしない。
人の少ない廊下を通り、奥庭を抜けた直後だった。
「そこのお前、止まりなさい」
聞き覚えのある声に、アイナはびくりとした。
「お前、竜人ではないわね? ただの人間ごときがその庭に入っていいと……あら、お前、見覚えがあるわね」
近づいてきたのはレフリレイアだった。反射的に顔を伏せたが、「顔をお上げ」と命令される。一瞬ためらったが、アイナはそろそろと顔を上げた。
「お前……そう、そうだったわ。ファナにかばわれた人間ね?」
「……お久しぶりでございます」
「挨拶だけは一人前になったのね。ファナは客人と言ったけれど、お前はただの人間でしょう。王族に面識があるなんて、いくらなんでもおこがましいわ」
レフリレイアは今日も機嫌が悪かった。ギルフェルドに追い返されたのかもしれない。彼女は美しい唇を歪め、「臭うわね」と吐き捨てた。
「人間ごときが、この竜の城にいるなんて。身の程知らずにもほどがあるわ」
「す、すみません」
「ファナにかばわれたからといって、勘違いしないことね。大方、王子殿下と面識があるというのもでたらめでしょう。あの娘は王家のお気に入りだから、特別扱いされているだけ。お前には何の価値もないの」
その通りだったので、アイナは深く頭を下げた。
ただ、彼女の言葉には間違っているところもある。
アイナはギルフェルドと面識があるし、彼に連れられてここに来た。そこだけは訂正しておくべきだろうか。
「あ、あの……」
説明しておこうと思ったが、「誰が口を開いていいと言ったの」とぴしゃりと言われ、思わず首をすくめてしまった。
「人間風情が、わたくしと言葉を交わせると思わないことね。恥を知りなさい」
汚らわしい、と吐き捨てられる。
しばらくこんな扱いを受けていなかったせいで、対処の仕方を忘れてしまった。これ以上怒らせず、穏便に目の前から消えなければ。このタイプは怒らせると厄介だ。
けれど、一度獲物と定められた場合、徹底的に痛めつけられるしか道はない。
(どうしよう……)
そう思った時、天の救いのような声がした。
「何をしている」
現れたのはギルフェルドだった。彼はレフリレイアに目もくれず、困った様子のアイナに目を留めた。
「何かあったのか、アイナ」
「いえ、あの、ええと……」
この状況をどう説明したものか、アイナがやや口ごもる。
「ギルフェルド様! なぜそんな人間にお声をかけられるのですか。貴き竜王の血を受け継ぐあなた様が、そのような貧相な小娘に……っ」
レフリレイアがヒステリックに叫んだが、ギルフェルドは意に介さなかった。
「アイナは私の知り合いだ。私がこの城に招待した、正式な客人でもある」
「なんですって……!?」
「ファナから聞かなかったのか。何かあれば、私を通せ。この娘に手を出すことは許さない」
「ですが、人間の名を呼ぶなんて!」
「私が誰の名を呼ぼうが、お前には関わりのないことだ」
それと、と藍と金の瞳が彼女を見据える。
「前々から言っているが、私のことは第一王子と。名を呼ぶ間柄ではないだろう」
「それは、だってっ……」
「アイナに手を出すな。――返事は?」
ゆらり、と瞳の中の黄金が燃え上がる。レフリレイアは気圧されたように頷いた。
「……分かりましたわ」
「約束だ。――アイナ、こちらへ」
「は、はい」
ギルフェルドに促され、アイナはほっと息を吐いた。助かった。
レフリレイアは悔しげな顔をしている。ぎろりとにらみつけられて、思わず体がすくみ上がった。
あれが竜気というものだろうか。確かに、あの怒りをぶつけられたら相当怖い。
その時ふとアイナは思った。
そういえば、アイナはギルフェルドの名前を呼ぶ事を許されている。今まで深く考えた事はなかったけれど、いいのだろうか。
「あの、ギルさま」
「どうした」
「私……ギルさまのお名前を呼ぶの、やめ……」
言いかけたアイナは固まった。ギルフェルドが顔を近づけたからだった。
「やめなくていい」
「でも、ご迷惑じゃ……」
「お前に名を呼ばれるのは心地いい。うまく言えないが、心が弾む」
ギルフェルドの瞳は柔らかな色をたたえていた。
「これからも名を呼んでほしい。私もお前の名を呼ぶ。――アイナ」
「は、はい」
「困ったことがあればすぐに言え。何があっても駆けつけよう」
吐息がかかるほどの距離で、そっと囁く。
どうしよう、見つめられるとどきどきする。
これは慣れないせいだろうか、それとも。
「ギルさま」
名前を呼ぶと、その瞳が甘くにじんだ。
瞳の中の金色がキラキラ光る。その色が、言いようもなく綺麗だと思った。
「ギルさま……ギルフェルドさま」
「どうした、アイナ」
「ギルさま」
「アイナ」
名前を呼び合うたびに、何かが胸を満たしていく。
くすぐったくて、恥ずかしくて、言葉にできない不思議な感じ。
でも、決して嫌なものじゃない。
「私も、ギルさまのお名前を呼びたいです」
そして自分の名も呼んでほしい。
アイナの返事に、ギルフェルドは「そうか」と頷いた。
無表情だが、どことなく満足気な顔だった。
お読みいただきありがとうございます。
※前回の話(15話と16話)を1話にまとめました。リアクションくださった方、ありがとうございます。嬉しかったです!