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あなたの番になりたかった  作者: 片山絢森
2.銀の髪、スミレの瞳
15/32

15.番の糸/失われたもの


「えっ?」


「わたくしは、確かにあの方の番だった。わたくしは人間だけれど、それはちゃんと感じていた。あの方が唯一だと思ったし、運命だと思ったわ。偽物と断罪されてもなお、あの方を慕う気持ちは変わらなかった」


 誤解しないでちょうだい、とジェイドを見やり、「今はあなただけよ」と微笑みかける。あからさまにしょげ返っていたジェイドが、それだけで元気を取り戻した。


「ただ――あの方に心から拒絶された時、糸が切れた気がしたの」

「糸……?」

「番同士は、糸でつながってるって言われてるんだ」


 ジェイドが胸を指さして、「ここ」と示す。


「僕とシェーラもつながってるよ。目には見えないけど、なんとなく分かる」

「わたくしもよ、ジェイド」

「迷信だとも言われるけど、僕は信じてる。だってあの時、迷わずにシェーラを見つけ出せた」


 それは番の糸が切れたせいではないかとジェイドは言った。


「それまで、シェーラの気配に気づかなかった。何かがある気がするのに、番だとは思わなかった。そんなことはありえない。最初から番だったのなら、あるはずがないんだ」

「わたくしは人間だから、ジェイドほどは分からないわ。でもあの時、大切なつながりが切れた気がした。とても大きな存在で、かけがえのない宝物。それが断ち切れてしまったの」


 その瞬間、途方もない喪失感があった。


 悲しくて苦しくて息ができない。この場から消えてしまいたい。叶うなら、この世界から。それなのに、心のどこかはそれを冷静に受け止めている。


 やがて、押しつぶされるような寂しさが薄れ、あっという間に消えていく。きつく抱きしめていた何かが砕けて消える。それは言いようのない感覚だった。


「あの方にひどい言葉をぶつけられた時、わたくしは泣くことができなかった。泣かなかったのではない、泣けなかったのよ」


 喪失感は未だにあったが、消えてしまいたいという思いはなくなっていた。


「その後で、ジェイドに出会ったの」


 それは不思議な感覚だった。


 会った事がないはずなのに、この人を知っている。

 なつかしい。会いたかった。ようやく会えた。

 失くしてしまった大切なものが、もう一度目の前に現れた。そんな気がした。


「番だと言われて、驚いたわ。信じられるはずがなかった。だってわたくしはあの方の番で、それだけは確かだったもの」


 信じる事はおろか、認める事さえできなかった。

 それを受け入れてしまえば、前王との絆を否定する事になる。


 彼と出会って六年、様々な出来事があったものの、彼の番である事を疑った日はなかった。自分は彼の番で、彼も自分の番だ。互いが唯一であり、絶対のはずだった。


 それなのに。


「あなたは『番』をどのようなものだと思っている?」

「どう……って、ええと」

 突然問われ、アイナは戸惑った。


「わたくしにとって、番は運命だった。唯一であり、絶対の存在。最愛の相手。伴侶。半身。他にも色々あるけれど、似たようなものだと思うわ」


 アイナもそれは知っていた。ガルゼルから聞かされていたからだ。


 獣人にとって、番はかけがえのない存在だ。

 唯一無二であり、代わりはいない。だからこそ獣人はそれを追い求め、見つけたら決して手放さない。ずっと昔からそうなっている。

 けれど、とシェーラは口を開いた。


「わたくしはずっと思っていた。うまく言えないけれど、違和感があった。わたくしが番ではなくなったら、愛は消えてしまうのかと」

「愛……ですか?」

「おかしなことを言っていると思うでしょう。わたくしだってそう思うわ。でも、わたくし、本当はずっと思っていたの」


 ずっとずっと思っていた。彼にとって、自分はどんな存在だったのかと。


 最愛の半身であり、一生をかけて愛する相手。

 それに不安などなかったし、輝かしい未来を信じていた。

 けれど、ふと思ったのだ。番でなくなった自分は、彼にとってどうなるのかと。


「番でなくなれば、特別なつながりは消えるでしょう。それは分かっているつもりだわ。でもその時、愛情も消えてしまうのかしら」

「それは……ええと」

「何もかも、なかったことになるのかしら。……何ひとつも残さずに?」


 どんなに会話を重ねても、心を寄り添わせたとしても。


 アイナは答えられなかった。

 だって番はそういうものだ。番だから特別で、番だから愛される。だったら番でなくなれば、愛も消えるのかもしれない。


(……でも)


 本当にそうだろうか?


「あの方と出会って六年。数え切れないほどの思い出があるの。立場が変わっても、身分が変わっても、それは消えない。あの方と話したことも、笑い合った記憶も。何もかも、かけがえのない思い出だわ」


 共に過ごした記憶は、ひとつも変わってなどいないのに。


「そのすべては、いらないものになるのかしら……」


 シェーラの目には涙がなかった。けれどなぜか、泣いているようだと思った。


「わたくしはあの方の番だったけれど、それに頼り切るつもりはなかった。話し合い、分かり合って、本当の意味であの方の唯一になりたかった」


 本能によって惹かれ合っても、共にいる理由は別でありたい。


 あなたがあなただから、そして、私が私だから。


 中身を愛し、信頼して、一生を過ごしていきたかった。

 理由も分からず惹かれた彼と、本当の意味で結ばれたかった。

 それは贅沢な願いだったのか。今でも分からないとシェーラは言った。


「あの方にとって大切なのは番だった。わたくし自身ではなく、番という存在だった」


 どれだけ時間を積み重ねても、そんなものに意味はない。番でなければ価値はなく、捨ててしまっても問題ない。シェーラがどういう人間で、何を考えているのかなど、彼にとってはどうでもよかったのだ。


「糸が切れた時、悲しかったけれど、納得もした。あの方が見ていたのは番であって、わたくし自身ではなかったから」


 本当の番がいると知ったら、シェーラなど見向きもしなかった。

 それどころか、偽物の番とシェーラを憎んだ。


 今までの出来事を振り返れば、シェーラがそんな真似をするはずがないと分かっただろう。シェーラの発言を聞き、考えを知って、心を寄り添わせていたのなら。愛がなくなったとしても、信頼だけは残ったはずだ。それだけの日々を積み重ねてきた自負はあった。


 盲目的な愛情でなくとも、親愛なら。

 相手に対する尊敬も、思いやりも、確かに残り続けたはずだ。


 彼との関係は、そんなに浅いものではなかった。

 けれど、前王には分からなかった。


「あの方がこの城に侵入して、わたくしを取り戻そうとした時、どうしてなのかと思ったわ。わたくしの糸は切れてしまったのに、なぜまだ追い求めるのかと。……けれど、簡単だった。なぜだか分かる?」


 悲しげに笑われて、アイナは首を振った。なんとなく分かる気もしたが、確信はなかった。


「わたくしが『本物の番』だったからよ。それが分かったから、取り戻そうと思ったの」


 糸が切れていれば、もはやつながりはないだろう。それでもなお、彼は番を求め続けた。そこに愛情は存在しない。手放した相手が本物だったから、それが番だと分かったから、もう一度手に入れようと思っただけだ。


 それは愛情などではない。歪んだ執着、もしくは独占欲だった。


「わたくしは人間だから、獣人の感覚は分からない。番がどれほど大切で、失ったらどれほど辛いのか、本当の意味では理解できない。……それでも、分かることがあるの」


 ――それは本当に愛なのか。


 分かり合う事も、思い出も、信頼もいらない。そんなものが番と言えるのか。


 器だけを求めるならば、自分自身は必要ない。番という肉体さえあれば、あとはいらない。そう言われたも同然だ。

 それは、なんと空しい事だろう。


「番を求めるのは獣人の本能で、愛を求めるのは人間の都合ね。心と言い換えてもいいけれど。それが消えてしまったから、わたくしはあの方の番ではなくなった」

「シェーラさん……」

「今の状況が何なのか、わたくしにも分からない。けれど、ジェイドはわたくしと話をして、分かり合おうとしてくれる。番だからと言わず、わたくしだからと言ってくれる。それって、大切なことなのよ」


 ふふ、とシェーラは小さく笑った。悲しいけれど、さっぱりした表情だった。


「番を失ったわたくしが、もう一度愛する人と出会えるなんて思わなかった。あなたに見つけてもらえて、本当に幸せよ。ジェイド」

「シェーラ……」


 ジェイドが感激した様子で目をうるませる。ふるふると震えていたかと思うと、がばっとアイナを振り向いた。


「見た!? 僕の番本っ当に可愛いよね!? もう女神様もかくやという神々しさだよね?」

「は、はい、そうですね……?」

「落ち着いてちょうだい、ジェイド」

「この可愛い人が僕の番だなんて信じられる? あ、アイナも十分可愛いよ。でも見て! この可愛さ! 可愛い僕の番が可愛い顔で可愛いことを言ってくれるこのとんでもなく可愛い状況!」

「そ、そうですね……?」

「ああもう可愛すぎてどうしよう……! 僕の番の可愛いが最高すぎる……」


 ジェイドがばったりと倒れたので、アイナはぎょっとした。


「放っておいても大丈夫よ、アイナさん」


 シェーラは慣れているのか、特に動じた様子もない。いつもの事だと言われ、「ああ…」と納得してしまった。

 ジェイドのおかげで湿っぽい空気が薄れたのはありがたかったが、これが毎日なのか。それは大変だ。


「それで、先ほどの質問だけれど」

 話が戻り、アイナははっとした。


「あの方の番だったわたくしは、今はジェイドの番なの。わたくしの意思でやめたというよりも、糸が切れて、別の糸がつながった。そんな感じかしら」

「別の糸……」

「アイナさんにもそんな方がいたら、どうか忘れないで」


 シェーラの白い指が、そっと肩に載せられた。


「その糸を切るのも、つなぐのも、あなた自身よ」

「シェーラさん……」

「嫌なら拒んでもいいし、抗ってもいい。決めるのはあなたで、運命ではないのだから」


 番はきっかけであって、絶対ではない。

 どんなに強く惹かれ合っても、壊れてしまう事もある。アイゼルがシェーラを失ったように。


 だからこそ、本当の意味でつながりたい。

 それはきっとガルゼルではなく――。


「あなたはきっと幸せになる。わたくしが保証するわ」


 微笑む顔は美しかった。すべてを乗り越えた、迷いのない笑顔だった。

 それならとアイナは思った。


(いつか……)


 自分もそうなる事ができるだろうか、と。

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