13.銀の髪とスミレの瞳
「最初はうまくいっていて、とてもやさしくしてくれました。だけど、ある日いきなり『番じゃない』と言われて。突然のことで、何も分からなかった。ただ、みんながすごく怒っていて……誰も説明してくれないまま、私は番じゃなくなりました」
そして番を偽った罰として、彼らの奴隷になったのだ。
シェーラの唇が震えたが、アイナはそれに気づかなかった。
「一か月、二か月……多分、三か月くらいかもしれません。あのままだったら、どうなっていたか分からない。奴隷として働いて、二年後には娼館に行かされる。そう聞かされましたから」
あの出来事を思い出すと、今でも身がすくみそうになる。けれど、今はシェーラの質問に答えなければ。そう思い、かつての記憶を振り払う。シェーラは口を挟まなかったが、指先がかすかに震えていた。
「なんてこと……なんてひどい」
「助けてくれたのはギルさまなんです。ひどいことをされそうになっていた私に、『一緒に行くか』って聞いてくれた。行きたいって答えたら、本当に連れ出してくれました。嬉しかった。本当に嬉しかった。だからもう、大丈夫なんです」
「そんな目に遭っていたなんて……わたくし以外にも、そんな子がいたなんて」
シェーラの声はかすかだったが、悲しみと衝撃に揺れていた。
どうしてそんな表情をするのだろう。彼女には関わりのない事なのに。
けれど、シェーラが立ち直るのは早かった。
今の衝撃を押し殺し、完璧に表情を取り繕う。自分のためでなく、アイナのためなのはよく分かった。
アイナは心から感謝した。
大げさに同情されるより、何気なく聞き流してもらいたい。そうでなければ、あの時の自分がみじめすぎる。
シェーラはどうしてそんな事が分かるのだろう。まるでアイナの心を読み取ったように。
聞いてみたかったが、そんな事はできなかった。
シェーラは黙ったままこちらを見ている。
淡い色の唇は何も語らず、ただスミレの瞳で見つめるだけだ。
――スミレの瞳。
その時、何かを思い出しかけた気がした。
「これで私の話はおしまいです。他に秘密なんてありません」
「わたくしも、ここに来たのは似たような経緯だったけれど……。だからといって、秘密にする理由はないわね」
「シェーラさんも、ですか?」
目を丸くすると、シェーラは悲しげに微笑んだ。
「……ええ、そうね」
この美しい人も、誰かの番だったというのか。
そしてそれが解消された。おそらくは本人の望まない事情によって。
アイナと同じという事は、彼女も奴隷扱いだったのか。まさか。こんなにたおやかで可憐な人が?
何か言おうとして、アイナは口を閉じた。軽々しく言葉を発する空気ではなかった。
「……あなたはやさしい方ね、アイナさん」
シェーラが目元を和らげた。
「そして、強い方だわ。辛いことを話してくださってありがとう」
「いえ、そんな」
「あなたを手放した獣人は、きっと後悔するでしょう。どんなに嘆いても、悔やんでも、取り戻せないものがある。それを知って、絶望の淵に立つと思うわ」
「そんなことは……」
ガルゼルにとって、アイナは偽物の番なのだ。今さら取り戻したがるとは思えない。
それに、ギルフェルドの言葉を借りるなら、アイナが本物の番とも限らない。その場合、やはりガルゼルは自分を要らないものとみなすだろう。わざわざ価値を見いだす可能性は低い。
けれど、シェーラは首を振った。
「番というのは特別だわ。その時になっても遅いのに、彼らはそれに気づかない。それが誰でも、失ってから初めて分かることがあるのよ」
シェーラの瞳には悲しみがあった。思えばずっと、彼女はそんな表情をしていた。
「狼の……」
アイナが口を開くと、シェーラがふと顔を上げた。
「狼の国にいた時、私もそんな顔をしていたんでしょうか……」
「……狼?」
シェーラの目が見開く。
信じられない単語を聞いたというように、彼女の動きが止まった。唇がわななき、白い頬から血の気が引く。
「……あなたは……狼の国からいらしたの?」
「ええ、そうですけど」
どうしてそんな表情になるのか分からずに、アイナが頷く。シェーラは両手で口を押さえた。
「まさかそんな……それでは、あなたは……」
「狼の国をご存じなんですか?」
首をかしげたが、竜の国にいるなら不思議でもない。他の獣人についての知識もあるだろう。けれど彼女の反応は、それとは違うようだった。
「もっと詳しく教えてちょうだい……。あなたを番だと言った獣人は、狼なのね?」
「は、はい」
「番だと請われて国を出たのに、突然違うと言われたのね。その理由は? 分かるかしら?」
「ええと……確か、番を偽る香水の匂いがするって言われて――」
「……なんてことなの……」
シェーラが呆然とした様子だったので、慌ててアイナは首を振った。
「で、でも、私は何も知らないんです。ギルさまは私の体臭だって言いました。偶然匂いが似ているだけで、香水とは別物だって」
「当然よ」
シェーラは断固とした口調で言った。
「あなたは何も悪くない。あなたは――わたくしの被害者だわ……」
「……え?」
「わたくしは――」
シェーラの言葉にかぶせ、慌ただしい足音が近づいてきた。
足音というより地響きに近い。その勢いのまま、バン!! と扉が開いた。
「シェーラ!! 奥庭にシェーラのマントが落ちてて、シェーラを見かけたかもしれないって人がいて……っ」
「ジェイド」
現れたのは第七王子のジェイドだった。彼はなぜか息を切らし、必死の形相を浮かべていた。
「心配してくれたのね。嬉しいわ、ありがとう」
「シェーラ……」
「ところで、わたくし新しいお友達ができたの」
シェーラがにっこりと笑みを浮かべた。
「ついさっき出会ったのよ。アイナさんというの。ご存じかしら?」
感激した様子のジェイドだったが、すぐにその表情が青ざめた。微笑みを浮かべるシェーラに目をやり、ぎくしゃくと視線をアイナに向ける。整った口元が引きつった。
「あ、あの、それは、とっても複雑な事情がありまして……」
「そうでしょうね。分かっているわ」
美しい微笑みを浮かべたまま、シェーラはひとつ頷いた。
「でもわたくし、隠し事をされると悲しいの。それがあなたならなおさらよ、ジェイド」
「し、シェーラ……」
「事情を話してくれるかしら。もちろん、アイナさんにもね」
ジェイドはだらだらと冷や汗を流している。助けを求めるようにアイナを見たが、すぐに観念した様子になる。はぁぁぁ……っとため息をつき、しょげた顔で頷いた。
「ごめんなさい……全部話します」
でも、と黄金色の瞳がシェーラを見る。
「君もアイナも傷つくかもしれない。それでもいい?」
「わたくしは構わないわ。でも……」
「私も大丈夫です」
気遣う視線を向けられて、反射的に頷く。ここで放り出されたらたまらない。
二人の返答に、ジェイドはもう一度ため息をついた。
「……分かった。じゃあまず、形から入ろうか」
そこで彼は恭しくシェーラの手を取った。
大切な宝物を捧げるように、胸の辺りまで上げる。
シェーラの胸元にかかった宝石がきらめく。ジェイドの瞳の色に似ていると思った。
彼はすうっと息を吸い、厳かに告げた。
「彼女はシェーラ・オルゴット。第七王子である僕、ジェイド・ドラクスの番だよ」
「……え」
「そして、もうひとつ」
続く言葉はシェーラが代わった。
「あなたをひどい目に遭わせた、その原因――いいえ、始まりでもあったのよ……」
「え……?」
目を見開くアイナに、シェーラは悲しげにまつげを伏せた。
長い銀髪がサラサラと揺れ、シェーラの細い肩を隠す。
スミレ色の瞳にかかる、月光のような銀髪。
その時、唐突にアイナは思い出した。
――銀の髪、スミレの瞳。
どこへ行ったのか分からない、行方知れずの前王の番――
(そうだ……)
その髪と瞳の色は、紛れもなく。
驚きに声も出ないアイナに、シェーラは言った。
「狼の国の前王――アイゼル・ウォルフスは、わたくしの番だった方なのよ」