1.目覚め
【ざっくりしたあらすじ】
狼の獣人ガルゼルの番だったアイナだが、突然偽物と言われ、奴隷の身に落とされる。使用人達にも虐げられ、辛い日々を送っていたアイナを救ったのは、見知らぬ竜人の男だった。
彼はアイナを狼の国から助け出し、竜の国へと連れ去ってくれたのだが――?
――汚らわしい、偽物が。
――嘘つきのまがい物め。恥を知れ。
――膝をついて、四つん這いになれ。それがお前にはお似合いだ。
(いや)
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
(助けて)
誰か、ここから救い出して。
(逃げたい)
彼らから遠く離れた場所へ。
(消えたい)
誰も自分に気づかぬように。
(いなくなりたい)
もう二度と、誰からも傷つけられないように。
(だけど)
(それは)
(かなしい)
ゆらゆらと思考が揺れている。
悲しさと寂しさと、押しつぶされそうな絶望が胸を満たす。
このまま消えてしまっても、誰も寂しくはないのかもしれない。
待っている人なんて、もうどこにもいないのかもしれない。自分を好きでいる人も、自分のそばにいてくれる人も。
自分を必要としてくれる人なんて、この世のどこにもいないのかもしれない。
そんな事は分かっている――けれど。
涙がこぼれると、それは小さな星になった。
すうっと頬を流れ落ちた後、手のひらの上で輝き始める。ちっぽけなその輝きに目を見張ると、光の中に何かが見えた。
藍色の輝きに混じる、金色のきらめき。
あれ、とアイナは首をかしげた。
星が藍色なんて変だ。
だって星は金色のはずで、だとすればこれは逆のはずで、でも金色の中に藍色が混じるのも変な気がするし――。
(だって、この色は)
あの人の――……。
「……あ」
目を開けると、白い天井が目に入った。
広々とした、清潔な部屋だ。
アイナは窓辺にある寝台の上に寝かされていて、体の上にはふんわりとした上掛けがかかっていた。
少し開いた窓から、花の香りのする風が吹き込んでくる。
ここは……どこだろう?
「気がついたか」
はっと目を向けると、そこには見覚えのある人物がいた。
「ずいぶん長く寝ていた。具合はどうだ」
「だ……大丈夫です。あの……ここは?」
「竜の城だ」
端的に答えると、男は音もなく歩み寄ってきた。
明るい光の下で見ても、男の容貌は際立って整っていた。
作り物めいた顔の造作に、それを引き立てる漆黒の髪。瞳の色とよく合って、息を呑むほど端正だ。それでいて、表情には少しの変化も見られない。あまりにも整いすぎているせいで、本当に作り物のように見える。
彼は寝台の横に膝をつき、アイナの顔を覗き込んだ。
ためらいもなく手を近づけられて、反射的にびくりとする。そんな反応に、彼はわずかに動きを止めた。
「……心配ない。熱を測るだけだ」
「あ……」
「目を閉じろ。怖くはない」
穏やかな声に導かれるまま、アイナがおとなしく目を閉じる。
言葉の通り、すぐにひんやりとした手が額を覆うのを感じた。
大きな手だが、怖くはない。むしろ、触れられていると心地いい。
じんわりした何かが、指先を通して体の中に入ってくるようだ。
清らかな水のような清涼感と、体内に活力を取り戻させてくれる活性感。
いつの間にか、指先までポカポカしてくるのが分かった。
(……どうしよう)
怯えるなんて、失礼な真似をしてしまった。彼はあの人達とは違うのに。
もしかして、怒らせてしまっただろうか。
だとしたらどうしよう。謝るべきだろうか、それとも。
ぐるぐると考えるアイナには構わず、男は「熱はないな」と頷いた。
「食事にしよう。粥でいいか?」
「……え」
「果物もあるが、どちらがいい? どちらでも、好きな方でいい」
目を丸くしたアイナに、男が答えを待つそぶりを見せる。どうやら怒っていないようだと分かったが、それでも質問の意味を測りかねた。
「あの……私、どうしてここへ」
「覚えていないのか?」
「ええと……」
まだ混乱していたが、幸いすぐに思い出せた。
そうだ。自分はこの竜人に救い出されて、竜の国へやってきたのだ。
ここに自分を虐げる人はいない。奴隷だと蔑む人も、アイナを憎んでいる人も。
あの恐ろしい狼の王――かつて自分を「番」と呼んで慈しんだ獣人さえ、簡単に追ってこられる距離とは思えなかった。
(よかった……)
無意識に、ほうっとため息がこぼれ落ちる。
改めて目をやると、彼の瞳は藍と金の輝きに彩られていた。
夢の中で見た色だ。そしてこの色が、アイナを悪夢から救い上げてくれた。
「……助けてくださって、ありがとうございます」
「いや」
それより食事は、と再度聞かれる。
「いえ、あの、食事まで出していただくわけには……」
「食べないと治らない。そして人間は、飲まず食わずだと命に係わるのだろう」
そう聞いた、と付け加える。アイナはおっかなびっくり頷いた。
「それはそうです、けど……」
それでもこれはやりすぎだ。
食事はともかく、こんなに上等な部屋で、こんな立派な寝台にまで寝かされているなんて。
よく見れば、ぼろぼろだった服も着替えさせられていて、手足に包帯が巻かれている。ざっと見た限りだが、体も清めてくれたようだ。手当てのされた肌はさっぱりして、髪からもいい香りがした。
「お前の望みは、家に帰ることだったな。違うか?」
「……違わないです、けど」
「家族の元で、幸せに暮らす。そのためには食べないと治らない」
違うか、と再度問われる。アイナはおとなしく首を振った。
「……違わないです。ごめんなさい、いただきます」
「では、何が食べたい?」
なんでもいいと思ったけれど、この分ではきちんと告げた方がよさそうだ。しばらく考えて、アイナはおずおずと「……では果物をお願いします」と頭を下げた。
「分かった。すぐに用意させる」
「あっ……あの!」
すぐに踵を返した男に、アイナは慌てて声をかけた。
「本当にありがとうございました。私、できることはなんでもします」
「なんでも?」
「……あ、できれば、鞭で叩くのはちょっと……水責めと、犬をけしかけられるのも怖いですけど、できるだけ我慢します。蛇は本当に怖くて……でも本当に、できることはちゃんとやります。だから」
「しないでいい」
男の返答は早かった。
お読みいただきありがとうございます。