第2話
家の鍵を開けて中に入ると、何かの匂いが鼻をかすめた。
今日は……カレーか。なんか久しぶりだな。
「あら、おかえり。ちょっと遅かったわね」
と言いながら料理をする手を止め、キッチンから母さんが顔を出す。
「うん。ちょっと考え事しながら自転車漕いでたら遅くなっちゃった」
「何考えてんのか知らないけど、そういうのは程々にね?」
「大したことじゃないし大丈夫だよ」
と言うと母さんは「あらそう」と言って包丁を持ち直し、料理をまた始めた。
僕は制服から着替えるとテレビを点けた。今話題のアニメ、長く続いているバラエティ番組、なんかの職人に密着取材したドキュメンタリー番組…と、全てのチャンネルを回してどれにしようかなと選んでいると、ひとつの番組に目が止まった。ニュース番組で、僕へのインタビューの様子を映していた。
あぁ...これ受賞後のやつか。
確かそんなこともあったなと思い出しながら、ちょうどいいし見ることにした。
『赤井さんはいつから絵を描いていたんですか?』
『んー...そうですね...ずっと昔から絵が大好きで、物心ついた時にはペンを握ってたらしくって。面白いですよね』
『そうなんですね。では、赤井さんにとって、絵というのはどういうものですか?』
『んー...なんかカッコつけてるみたいな感じになるんですけど、僕の中で絵っていうのは人生そのもの...みたいな。絵があって僕の人生それでよくて、なんだろう、絵に人生を捧げてもいいみたいな感じですかね。すみません、カッコつけてるみたいで...』
「へぇ〜、随分とカッコつけたこと言うじゃない」
母さんが料理をしながら言ってくる。
うん、確かにカッコつけてる。そして恥ずかしい。羞恥心で死にそうだ。てか死にたい。
あの時はまともな回答をしたはずなのに、いざ見てみるとなかなか恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
「いやいや本心だから」
母さんに恥ずかしさが悟られないよう平常心を保って言ったつもりだったが、どうやらバレバレのようだ。母さんの顔を見てみると小馬鹿にしたようにニヤついていた。なんだその顔は。
「そっかそっかぁ〜...ま、とりあえずご飯できたわよ」
「...ほ〜い...」
うーん、なんだろう...気に食わない。気に食わないけど...まぁ、いっか。
いただきます。
そう言って、一口目を口に運んだ。
「斗真、昨日ニュース見たぞ?いやぁ〜カッコよかったなぁ〜。俺が女だったら惚れちまう」
翌日、登校するなりこいつから言われた言葉がこれ。
"こいつ"と呼ぶのは僕の数少ない親友の長谷川結城。中学校からの付き合いで、陽キャの極みみたいなやつ。いつでも明るくてお調子者なんだが、頭はそこそこいいのが鼻につく。やっぱ頭いいやつってアホなのかな。
「ばか言うなこのやろー。しかもカッコつけてねーし」
「ほんとかなぁ?俺にはわかっちゃうよ〜?」
こいつ...こんなやつを頭良くして地に送り出した神様はどうかしてる。
「でも、俺はほんとにすげーと思ってるぜ?自分の親友にこんなやつがいるとはって」
「ふーん...そりゃどうも」
「まぁまぁそれはそうとして...」
そう言うといきなり僕の肩を掴んでぐいっと引き寄せた。顔が近い。
「そろそろいいだろ?俺半年ぐらい待ってるんだけど」
あー...そういえば。
結城は僕の先輩である七海さんのことが好きらしい。一回結城が部活をサボって美術部に遊びに来た時に七海さんと鉢合わせし一目惚れ。以降僕に彼女の連絡先をことあるごとに聞いてくるようになった。いや自分で聞けよって。
「そんなに知りたかったらお前も美術部入れよ」
「う〜んそうしよっかな〜。卓球部やめちまおっかなぁ〜」
「でもお前絵下手くそだろ」
「うるせぇこの天才がぁ!そうだ彫刻!彫るやつあるじゃん。あれだったら...」
キーンコーンカーンコーン...。
朝の会が始まるチャイムが鳴った。まじかと言って結城は自分の席に戻った。かと思えば戻ってきて
「あとでちゃんと教えろよ」
と小声で言ってそそくさと戻って行った。いやだから自分で聞けって。
放課後。七海さんが窓の方をぼーっと眺めている反対側で、僕は七海さんに連絡先を聞くかどうか迷っていた。なんせ七海さんは3年生でもうすぐ卒業する。今更聞いたって結城の役に立つかはわからない。朝ああは言ったが、結城は僕の大切な親友だから、ちょっとはあいつの願いに応えてあげたい。
「あの...七海さん」
「んーどした?」
「えっと...例えばですよ、例えば。僕の友達Aさんがいて、七海さんとAさんはそこまで面識はないけど、そのAさんが七海さんの連絡先を教えてくれって言ってきたら...教えてもいいですか?」
「え...急にどしたん...?」
七海さんがいかにも怪訝そうな顔で僕を見てくる。僕もこんなこと言われたらこんな顔になる。
「いや、例え話ですよ?」
「うーん...そのAさんが直接聞きに来てくれたら教えてあげてもいいかな」
ほれみろ結城。
「そうですよね。すみません、急に変なこと聞いて」
「どぉーせそういう友達がいるんでしょ?」
「いや、例え話だって...」
「いやいや、『そうですよね』ってまるで自分のことみたいに言ってたじゃない」
うぐっ。全てお見通しのようだ。
「います...」
「ほーら!七海さんの目の前で隠し事はだめだよー?」
「...すみません...」
「で、その子誰?そのAさん」
「え?えっと...長谷川結城です。一回美術部に遊びに来た...」
「あぁ〜結城くん?じゃあ教えてもいいかな。面識ないわけじゃないし」
思いもよらぬ答えが返ってきた。
「いいんですか...?」
「ぜ〜んぜんいいよ」
と七海さんは言った。
僕は七海さんが言ったのだからしょうがないと結城のLINEに七海さんの連絡先を送った。今日はちゃんと部活に行っているらしくすぐには既読がつかなかった。
そこまですると、室井先生が美術室に入ってきて僕は目的もなく絵を描き始めた。
冬真っ只中、下校時間になって学校を出て自転車を漕ぎ始めると寒さが体にまとわりつき、向かい風が冷たくてマフラーが機能していないかのように思えた。冬の時期は帰りは向かい風で心底鬱陶しくなる。いつでも追い風でいいのにな。
10分ほど走らせると赤信号に当たって自転車を止めた。
部活ではこれから何を描こうか。
コンクールが終わってからずっとふわふわしていた。何を描いたらいいのかわからず、部活では適当に鉛筆を動かしていた。コンクールの時期は提出する絵を作るために必死だったし休んでる暇などなかった。1年生の頃はコンクールに出ていなかったのだしその頃と同じようにすればいいのに、あの頃どんなことをしていたのかまったく思い出せない。
これからは......と、そこまで考えると思考を断ち切るように青信号になった。
ペダルを漕ぐ足に力を入れた、その時だった。
視界の右端に強い光を感じた。
と同時に体全体に稲妻が走ったような衝撃を受けた。
体全体に痛みが生じ、視界が大きく歪んだ。
自分が自転車を漕いでいないことがわかると、自分が宙に浮かんでいると感じた。
感じた?いや、ちゃんと浮かんでいるのだ。
世界がぐるんと回ると背中が地面に打ち付けられた。
視界がぼやけ、意識が遠くなっていく。
体が思うように動かない...。
僕は...死ぬのか...?
直感でそう感じた。
手に力が入らない...。
意識が遠のいていく...。
意識が...遠くなって......。
.............。