6 きっとそれが答えだから
あっという間に季節は移り変わり、ギルたち三年生の卒業がひと月後に迫っていたある日。
先生に呼ばれたというギルの用事が終わるまで図書室で本を読んで暇を潰していると、普段は決して話しかけてこない妹がふらりと現れ、わざわざ声を掛けてきた。
「ご機嫌よう、お姉さま」
「……フローラ」
珍しく取り巻きの令嬢たちはいない。
何を企んでいるのかわからず、本を閉じて身構える。フローラは一見優雅な微笑みを湛えたまま、すっと耳元に口を寄せてきた。
「もうすぐ三年生の卒業パーティー、パトリックさまもご卒業ですわね。これがどういうことかおわかりになって?」
「……さあ、私にはよくわからないわ」
わざとしらを切ると、私の耳に寄せた口元が不気味に歪むのが、彼女の顔を見なくとも感覚でわかった。
この、身体じゅうに纏わりつくような、いやに耳に残る甘ったるい声。学園の入学と同時に寮に入ることができ、昔より聞く頻度は減ったけれど、それでも私は未だにこの声が苦手だった。
「フフ、相変わらず馬鹿なのね。そんな馬鹿なお姉さまには優しいわたしが教えて差し上げるわ。パトリックさまがいなくなれば、婚約者のいないお姉さまの価値はゼロに等しくなる。つまり、いつでも伯爵家から追い出すことができるのよ。わかる?お姉さまはもう、わたしに口答えすることすら許されなくなるわ」
「……」
何を今さら、と言いたいのを堪えて黙っていると、私がショックを受けているとでも思ったのか、フローラはさらに笑みを深める。
「その虚勢がいつまで持つか、見ものだわね。しかも最近はアメリアさまにまで目をつけられているそうじゃない、本当に馬鹿で可哀想なお姉さま。フフフッ、じゃあね」
言いたい事を言えて満足したらしく、フローラはそう言い捨ててさっさとその場から去ってしまった。
『……レベッカ』
しばらく無言で固まっていると、いつの間にそこにいたのか、机の上に音もなく座っていたキルシュに案ずるような声色で呼びかけられる。
「大丈夫、いつものことよ」
そう答えた自分の声が思ったより弱々しくて、内心で少し驚く。
不安そうに瞳を揺らすキルシュに大丈夫だと微笑み返し、先ほどのフローラの発言を反芻していた私は、ようやく状況を飲み込み始めていた。
どうやら周りには、私がアメリアさまに不敬を働き、目をつけられていると思われているらしい。十中八九、アメリアさまの策略だろうと当たりをつける。
ということは、恐らくフローラは私がギルやレオンハルト殿下と親交を深めていることを知らない。
そのことに対し、ひどく安堵する自分がいた。
魔術学の成績はトップクラスだというギルは、私と話す際にいつも認識阻害の魔法壁を展開してくれている。それでも私には、バレるかもしれないという恐怖が未だに付き纏っていた。
結局、臆病なだけなのだ。
差し伸べられた手を掴もうとして、躊躇う。希望を持とうとしても、すぐに諦めてしまう。
幸せがすぐ先にあるとわかっていても、足がすくみ、立ち止まってしまう。
もし全てが張りぼてで、ぜんぶ真っ赤な嘘だったとしたら。
一度そう考えてしまうと、この身体は石のように動かなくなってしまうのだ。
なんて弱くて、愚かで、傲慢なのだろう。
『……レベッカ』
「……」
半分だけ開いた窓から、春の香りを乗せた風が入ってくる。
別れの香り。そんなことを考えては、心は分不相応にキリキリと痛みを訴える。
「……馬鹿みたい」
こんなにも浅ましくて、欲深い女を、
「……一体、誰が愛してくれるというの」
「――俺は、愛してるよ」
カタリ、と椅子の背もたれに手が掛かる音がして、愛しい人の香りが鼻をくすぐる。
信じられない心地で振り返り、顔を上げた私の瞳に映ったのは、あの日と同じ、いや、あの日よりも随分と柔らかさを感じられるようになった、美しい二つのサファイアだった。
「……いつ、から」
「君の妹が余計なことを言い始めた辺りから、かな」
「全部見てたんじゃない……」
呆然としたままそう呟くと、見下ろしていることで陰になった瞳が可笑しそうに細まる。
ギルがこんなにも表情豊かになるとは思わなかった、と驚きつつも喜んでいたレオンハルト殿下のことをふと思い出し、確かに今の彼は第一印象とはかけ離れているな、と今さらながらに納得した。
僅かな時間の現実逃避でも、見逃してはくれなかったらしい。不満気な色が覗いたかと思えば、骨ばった男らしい指がさらりと私の髪を撫でた。
途端、その部分だけ急に熱を帯びたような感覚に襲われる。
いつもは絶対に、指一本すら触れてこないギルが、初めて意思を持って私に触れた瞬間だった。
「……レベッカ、返事が聞きたい」
「へ……返、事……?」
顔が異様に熱い。きっと淑女にあるまじき表情をしているのだろう。恥ずかしくて恥ずかしくて逃げてしまいたいけれど、はっきりと熱を帯びた双眸に射抜かれた私は、もう微動だにできなくなっていた。
「そう、返事。俺はレベッカが好きだ。愛してる」
「そ……え……」
「信じられないなら、信じてもらえるまで何度でも言う。大丈夫、俺は「待て」ができる男だ」
何が大丈夫なのか。さっきから私の脳内は大パニックに陥っていて、全く大丈夫ではないのだが。というか「待て」ができると言いつつ、返事を急かしているのはどういうことだ。いきなり矛盾しているではないか。
ぐるぐると回らない頭で考えていると、不意に目の前の青い瞳、その奥に揺らぐ熱が少しだけ和らいだ、ような気がした。
「……本当はもう少しちゃんと、準備が整ってから言うつもりだった」
「準備……?」
「ああ。でも予定が狂った。あんなにも儚げな、今すぐどこかへ消えてしまいそうな表情をされてしまっては、堪らない。君を繋ぎ止めなければと思ったら、思わず告げてしまっていた」
「……ギル」
ゆっくりとギルが跪き、私たちの視線の高さが同じになる。
大きな手が頬に添えられて、反射的にぴくりと肩が震えた。
耳元で鳴っているのではないかと疑うほどうるさかった心臓の鼓動は、知らぬ間に全く気にならなくなっている。
今はただ、愛しいその声で発せられる言葉を待つだけ。
捨てきれない期待を、ほんの少しだけ胸に抱いて。
「愛している、レベッカ。君に出逢えたことが、俺のいちばんの幸せだ」
(ああ……私ったら、ダメね。もうパトリックさまを笑えないわ)
そんなことを頭の片隅で考えながらも、すっかり馬鹿になってしまった涙腺は、いとも簡単に崩壊してしまう。
どんどん滲んでいく視界の中、けれど輝くサファイアからは絶対に目を逸らすまいと、ぐっと目を凝らした。
今の私はきっとものすごく不細工で、ものすごく情けない顔をしているのだろう。それも、鏡を見たら羞恥で一週間は寝込みそうなレベルのひどい顔。
それでも、この人ならいいか、と思った。
思ってしまった。
たぶんきっと、それが答えだ。
「……私も、愛してる、ギル」
溢れる涙で輪郭という輪郭がぼやけきった世界の中。
私は確かに、愛しい二つの宝石が優しく微笑んだのを見た。
====================
そんな二人の様子を、本棚の隙間から静かに見守る小さな影が、ふたつ。
『ーー連れてきてくれてありがとねぇ、ゼーゲン』
『連れてくるも何も、元々そういう予定だっただろ。オレは別に何もしてない』
『そう?ちょっと急かしてくれたのかなぁと思ったんだけど』
『……急かさなくたって、どうせ同じだったろーよ。ギルはレベッカにはやく会いたくて仕方ないんだ、いつも速足だよ』
『ふふふ、アタシが言ってるのはそういう話でもないんだけど………まあいっか』
そこで一度言葉を切り、さくらんぼ色のまんまるな瞳は、大好きな親友が幸せそうに笑う姿を見つめ、その表情をさらに和らげる。
『それにしても、本当に頼もしい王子さまだねぇ。レベッカにぴったり、お似合いの二人だ』
わざとらしく最後の部分を強調すれば、次いで呆れを隠そうともしない大袈裟なため息が落ちる。
『……だから、最初っからそう言ってるだろ』
『……なんだ、通じてるじゃん』
クスクスと楽しそうに笑う黒猫に、少し気恥ずかしくなった三毛猫はツンとそっぽを向いた。