4 第二王子殿下と猫
『いやぁ、実にいいシーンを見たなぁ。アタシもう昨日からお腹いっぱい』
「やめて……これ以上私の精神を削らないで……」
翌日の昼休み。ゼーゲンの言った通り土砂降りの雨が降る中、私は雨の日の避難場所である、図書室近くの非常階段で頭を抱えて丸まっていた。
隣に座り、満腹と言いつつ私の昼食であるサンドイッチの端を器用につまみながら、昨日の出来事を楽しそうに話すキルシュに対し、私は激しい後悔と羞恥により現在進行形で死にかけている。
感情を押し殺すことに慣れ、すっかり枯れてしまったと思っていた涙はあの後も止めどなく流れ続け、結果ギルバート殿下のジャケットをしっとりと濡らしてしまった。
我に返ってからは恥ずかしさと居た堪れなさで顔が上げられず、ひたすらギルバート殿下に謝り倒していたが、殿下はケロリとして気にするなの一点張り。あの無表情が嘘のように柔らかな表情で微笑まれて、返す言葉を失った。
さらにレオンハルト殿下、アメリアさまには激励され、同時に何故かめちゃくちゃ感謝された。あのギルが、とか、成長したわね、とかいろいろおっしゃっていたような気がするが、正直それどころではなかった私は内容をろくに聞いていなかった。
それからは、ややこしいのでレオンハルト殿下とギルバート殿下のことは名前で呼ぶようにととんでもないことを言われるし、アメリアさまには気がつけばレベッカと敬称無しで呼ばれているしで、展開が早すぎて脳内処理がひとつも追いつかなかった。
最終的にギルバート殿下が寮まで送ると言い出したのだが、そんなことをされては絶対にあらぬ噂が立つので全力でお断りした。
代わりにアメリアさまが送ってくださることになったが、何故か誇らしげにギルバート殿下に自慢していた。ギルバート殿下がとても悔しそうだったのは気のせいだと思う。恐らく気のせいである。
そんなことがあった昨日、勿論すんなりと眠れるわけもなく、寝不足と若干の腫れ(冷やしたが完全には腫れが引かなかった)により、私は散々な状態の顔で一日を過ごす羽目になった。
案の定、廊下ですれ違ったフローラには他人に見えない角度で嘲笑されたし、取り巻きのご令嬢たちにはわざと私に聞こえるような音量での悪口をお見舞いされたが、正直そんな些細な事に思考を奪われている暇はなかった。
(よくよく思い返してみれば、婚約者でもない殿方に私……だ、抱きしめ……られ……)
そこまで考えたところで、ボッと音がしたかと思うほど一気に顔が熱くなり、ますます顔が上げられなくなる。
婚約者とはいえ書類上だけの関係のパトリックさまとは勿論何もなく、加えて社交界からも嫌厭されてきた私は、残念なほどに男性に対する免疫がなかったのである。
不気味な唸り声を上げながら悶えていると、下の方から『……何やってんだ』という呆れ声が聞こえてきた。
『あれ、ゼーゲンだ。昨日ぶり〜。レベッカは昨日の自分の行いを振り返って絶賛後悔中だよぉ』
『おう。いや、後悔することなんかあったか?そこまで馬鹿真面目に考えなくたって大丈夫だろ』
『まぁまぁ、そこがレベッカのいいところじゃん。ところで今日はご主人さまと一緒にいなくていいの?』
『……別に、そのうち来るしな』
「……待って、何だか聞き捨てならない話が聞こえたような」
ゼーゲンの言葉にガバリと私が顔を上げたのと、後方の非常扉が開くのはほぼ同時だった。
「……こんなところにいたのか」
今一番会いたくない人物の声が背中に降ってきて、私は身体中の体温が再び上昇するのを感じていた。
しかし振り向かないわけにもいかず、ギギギと壊れかけのおもちゃのようなぎこちない動きで顔を上げると、心なしか穏やかな視線でこちらを見下ろすギルバート殿下がそこに佇んでいた。
改めて見ると、本当にびっくりするほど顔が整っている。いや、確かに顔もそうなのだが、スタイルもべらぼうに良い。少し細身のスラリとした体型だが、肘まで捲り上げられたシャツから覗く腕にはしっかりと筋肉がついており、指は長く手のひらも大きい。見かけのわりに肩幅も広くて……と考えたところで昨日の出来事と殿下の胸板の感触をしっかりと思い出してしまい、勢いよく視線を逸らしてしまった。
不自然な私の様子をどう思ったのかわからないが、殿下は無言のまま階段を降り、サンドイッチを挟んで私の隣に腰を下ろす。キルシュはいつの間にか数段下に移動しており、呆れ顔のゼーゲンと並んで行儀良く座っていた。
「……昨日は、すまなかった」
しばらくの無言の後、先に口を開いたのは殿下だった。
少し言いにくそうに零されたその言葉にハッとして顔を上げると、殿下は所在無さげに視線を彷徨わせ、両手を閉じたり開いたりしていた。ほんの少しだけ、目元が赤いような気もする。
もしかして照れているのかも、と思うと、急に目の前の男性が可愛らしく見えてきた。少し冷静になってみると、何だかこの状況がとてもおかしく思えて、沸々と笑いが込み上げてくる。
「……ふ、ふっ」
「……レベッカ嬢?」
「いえ……ふふ、何でもありません。殿下は何も悪くありません、謝らなければならないのは私の方です。お見苦しいところをお見せしてしまい、大変申し訳ありませんでした」
「いや、そんなことはない。君が謝る必要はない」
「では、お互いさまということで」
そう言って微笑むと、虚を衝かれたようにサファイアが真ん丸になり、それからすぐにふっと和らいだ。
「……そうだな、お互いさまということにしよう」
「……ええ」
この人はこんなにも優しく笑えるんだなと、昨日からずっと抱いていた感想を改めて噛みしめる。
そうするとぽかぽかと温かい気持ちになると同時に、現実を見ろ、という冷淡な自分の声が脳裏に響いた。
(……わかっている。大丈夫、ちゃんと弁えているわ)
そう自分に言い聞かせ、私は小さく息を吸って呼吸を整えた。
それから昼休みが終わるまで、二人で他愛もない話をした。ゼーゲンとは五年前、留学に行く数ヶ月前に出会ったということ。レオンハルト殿下はああ見えて結構腹黒い性格らしいこと。アメリアさまとは幼馴染だが、正直おっかない女だと思っていること。
その中で一番印象に残っているのはやはり、殿下とゼーゲンとの出会いの話だ。
「出会い、と言われたら……そうだな、こいつが密猟人の元から脱走してボロボロになっていたところを拾ったのが最初かな」
「密猟……ですか?猫を?」
「三毛猫の雄はかなり珍しいんだ。高値で売れる国もあるらしい」
猫を捕まえて売り飛ばすような人間がいるなど初耳だった。驚いてゼーゲンの方を見れば、またもや呑気に毛繕いをしながら『まぁな』と何故か自慢げに返される。
『この国だと猫の性別なんざ大して気にしない人間が多いが、国によっちゃあ縁起物としてとんでもねぇ価値がつくんだとよ』
「そ、そうなのね……」
「で、道端で蹲ってた傷だらけの猫を見つけた私は、そのまま城に連れ帰ったってわけだ」
もちろん正面から入れば護衛やら侍女やらに止められるとわかっていたため、裏道を使ったり部屋には窓から入ったりといろいろ工夫したらしい。
そもそも護衛なしで城下に降りてたんですか、とか、殿下の部屋って一階ではないと思うんですけど窓から入るとは……?とか、最初から最後までツッコミどころしかない説明をされたが、いちいち話を止めると時間が無くなると判断し、大人しく最後まで聞くことにした。
「まぁその後は特に大した話じゃない、私に恩義を感じたらしくて居着いてしまったから、どうせなら自分の猫にするか、と思って契約を持ちかけた」
『さすがに命の恩人に礼の一つもしねぇでさっさと退散するわけにはいかねぇだろ』
『ゼーゲンにも一応礼儀っていう感覚はあったんだねぇ』
『おいコラ、バカにしてんのか』
「……あれ?でもその時はまだ、殿下はゼーゲンの声は聞こえなかったはずでは……?」
意地悪く笑うキルシュにぎろりと睨みをきかせるゼーゲンを苦笑しつつ見つめていると、ふと疑問が湧いてくる。思わず呟きを落としてしまったが、その問いについても殿下は特に気を悪くする様子もなく、丁寧に説明してくれた。
「ああ。だが、ゼーゲンは元々人間の言葉を理解していたからな。そもそもこの契約自体、人間の言葉を理解できる動物相手にしか成立しないんだ。だから王家が使役する動物は皆、神の使いだと言われている」
「神……!?えっ、そうだったの?ゼーゲン」
『知らん』
「えぇ……」
いきなり話のスケールが大きくなり、ギョッとしつつ本人(猫)に問い掛けるも、バッサリ即答されて拍子抜けしてしまう。殿下も同じ問い掛けをしたことがあるらしく、同様の反応が返ってきたと笑っていた。
「まぁ、あくまでその可能性が高いというだけで、確証はない。神殿に行けばわかるかもしれないが……私は昔からあの場所がどうも苦手でな」
『つか、んなことどうでもいいだろ。別に神サマの声が聞こえるわけでもねぇし、聞こえたところで従う義理はねぇよ』
「……と、いうわけだ。まぁ、いざ契約してみるとなかなかに口が悪くて驚いたが、それ以外は特段不満もない。いい相棒だよ」
『……ギルお前、褒めんのか貶すのかどっちかにしろよ』
照れ隠しか、文句を言いつつも殿下と軽口を叩き合うゼーゲンはどこか嬉しそうだった。その光景を微笑ましく眺めていると、ふとキルシュと目が合い、互いに肩を竦めて笑みを深めた。
キルシュと私の出会いも少し似ているところがあるけれど、その話はまた今度、機会があれば話すことにしよう。
と、そこで予鈴が鳴り、何となく会話が途切れる。
しかしすぐに「レベッカ嬢」と呼びかけられ、思わず背筋がぴっと伸びた。少し緊張した面持ちで見つめられ、心臓がざわざわと騒ぎ始める。
「その……よければこれから、昼休みは一緒に過ごしてもいいだろうか」
「……っ、」
「目立つことを危惧しているのであれば、放課後でも構わない。人目も避ける。……私は、君ともっと話がしたい」
頭の中で警鐘が鳴り響いている。
断らなければいけないことは、勿論わかっていた。
わかっていた、はずだったのに。
「……はい、是非。私も、もっと殿下のお話が聞きたいです」
――欲が、出た。
思わず口をついて出てしまった言葉に、すぐさま後悔の波が押し寄せる。しかし、目の前で嬉しそうに目尻を下げる殿下を見てしまえば、発言を撤回することなどできなかった。
こうして会話を積み重ねるうち、私たちの間にはすっかり敬語が無くなり、ひと月も経てば「レベッカ」「ギル」と呼び合うまでの仲になってしまっていた。