9 本当の悪女
「落ちこぼれのくせに、王子殿下と婚約ですって……?冗談も大概になさって?ねぇ、お姉さま?」
ピキピキと音が聞こえそうなほどにこめかみに青筋を立て、鬼のような形相で私を睨みつけるフローラ。そこに普段のか弱く可愛らしい令嬢の面影など微塵も無く、あまりの豹変ぶりにパトリックさますら引いているようだ。
このまま取り繕わずに感情を爆発させれば、フローラの化けの皮は見事に剥がれ落ちるだろう。
しかしそんな重要なことすら思考の彼方へ追いやってしまうほどに、彼女は今、私への怒りだけに支配されていた。
「……なるほど、これが本当の癇癪持ち、か」
この状況で冷静に分析を始めるギルにがっくりと肩を落としそうになる。この人は本当に、急に天然になるのだけはやめてほしい。こんな真剣な場面でも気が抜けてしまいそうになる。
気を持ち直して真正面からフローラを見据えれば、普段の私とはかけ離れた堂々とした態度が癇に障ったのか、さらにその眉間に皺が寄った。
せっかく可愛らしい顔立ちをしているのに、そんなに顔を歪めてしまって、勿体ない。そんな関係のないことを考えながら、できるだけフローラを刺激しないように言葉を選んでいく。
「冗談ではないわ。私はパトリックさまと婚約破棄をした。だから殿下の申し出を受けることができるの」
「はぁ?アンタにそんな権限があると思ってるの?そんなことお父さまが許さないわよ、絶対にね!」
「……お父さまが許さなくても、私にはもう関係がないのよ」
「何わけわかんないこと言ってるの?気でも触れたのかしら?」
そう。確かに、お父さまはこんなこと絶対に許さないだろう。
だから私は、ここで殿下たちの手を借りた。
「私はもう、コリンズ伯爵家の娘ではないの」
「……はぁ?」
ここまで言ってもまだ意味がわからないと言ったふうに片眉を吊り上げるフローラに、やはりこの場で全てを話してしまうしかないか、と私は腹を括る。
と、突然ギルの後ろに学園の生徒らしき青年が音もなく現れ、サッと何かの書類をギルに手渡してきた。ギルは特に驚くこともなくそのままその紙をフローラに向けて掲げたので、私は予定に無い段取りに目をぱちくりさせて書類を見る。そしてそのまま呆れ顔になった。用意が周到すぎる。
「……何よ、それは」
「レベッカ嬢の戸籍書類、最新のものだ。家名をよく見るんだな」
我が妹ながら、王子殿下に対しての口の利き方がまるでなっていないことにひゅっと血の気が引くも、ギルはそもそもフローラ自体に興味が無いようで、要件だけを淡々と述べた。
フローラは不満気に、しかし渋々ながらも言われた通り書類の内容に目を凝らす。そうして私の家名を見た途端、勢いよくその目をかっ開いた。
「は……?レベッカ・セルヴァン……?」
フローラが呆然と呟いたその名前に、息を潜めて成り行きを見守っていた生徒たちも一斉に騒めき出した。
「セルヴァンといえば、あのセルヴァン伯爵か……?」
「代々優秀な人材ばかりで有名な、あの宰相一家の……?」
「待てよ、そういえば先代のコリンズ伯爵夫人は確かセルヴァン家の……」
皆が口々にレベッカの家名について言及する中、ただ一人わなわなと唇を震わせて私を睨み続けているフローラ。
この件については、実はフローラも少なからず関係している。恐らくその事実に気づいたのだろう。
本当は少しだけ、胸が痛んだ。
半分しか血が繋がっておらず、加えてどれだけ私を虐げ見下していたとはいえ、これほど大勢の人々の前で妹を断罪することには抵抗があった。
だけどここまで事態を大きくする羽目になったのは、間違いなくフローラのせいだった。
……ごめんなさい。でもね、フローラ。自分で犯した罪の責任は、自分で負わなければならないのよ。
ゆっくりと息を吸い、全ての観衆に聞こえるように、精一杯声を張る。
「……今朝、執事に提出するようあなたが指示した、私の貴族籍及び家名剥奪に関する文書。それが受理されると同時に、私はセルヴァン伯爵家に養女として迎え入れられたの。だからもう、私はあなたの姉ではない」
「……騙したのね。わたしが今日、あの文書を提出するようにアンタが仕向けたんでしょう!?」
「……私は何もしていないわ」
「嘘よ!ふざけんじゃないわよ!わたしを嵌めて、タダで済むと思ってるの!?」
金切り声を上げて激昂するフローラの様子に、周りの同級生たちはヒソヒソと騒めき出す。
ここまで来てしまえばもう、皆が気づき始めていた。
本当に虐げられていたのが誰なのか。
本当の悪女が、誰なのか。
「アンタが侍女を唆したんでしょう!?アンタをさっさと追い出せば、邪魔者は完全にいなくなるって!そう言えば、わたしがお父さまよりも先にアンタを勘当するために文書を出すとわかっていて、そう指示したんでしょう!?」
確かに侍女を唆し、フローラを誘導するような行動を取らせた人物はいる。けれどそれが誰なのか、私は詳しくは知らない。
ただ私たちは、最終的に侍女がフローラを唆すように仕向けただけだ。
それを受けたフローラが、お父さまの許可も得ず、独断で文書を提出するかどうかは賭けだった。
「……いいえ、フローラ」
一度言葉を切り、震えそうになる喉を叱咤する。
……フローラ。
ここで私は、あなたに引導を渡すわ。
「私はこれまでもずっと、あなたには何もしていない」
その言葉が引き金となったのだろう。
血走った目で私に掴み掛かろうと突進してきたフローラを、私はただぼんやりと眺めていた。
彼女の手が私に届くことはなかった。
生徒に扮していた警備隊にあっという間に取り押さえられた彼女は、意味の成さない言葉を大声で喚き散らしながら、憤怒に染まったその瞳を最後まで私だけに向けていた。
あまりにも暴れるものだから、結局フローラは鎮静剤で眠らされて連行されて行った。
その様子を唖然として眺めていた生徒たちは、未だ騒然としていた。ある者は困惑、ある者は恐怖、といったさま々な表情で立ち尽くしている。
特にこれまでフローラに肩入れし、レベッカを虐めていた令嬢たちの表情は真っ青だった。
「れ、レベッカ……」
大仕事を終えた気分で疲労感に浸っていると、私の名を呼ぶか細い声が聞こえた。いい加減休ませてほしいのだけど、という文句をギリギリ飲み込んで、声のした方へ視線だけ向ける。
何が何だかわからないといった表情だが、それでもここでレベッカに見捨てられれば後がないということだけは察したのだろう。引き笑いのような表情を浮かべたパトリックさまがふらふらと近寄って来る。
と、すぐに彼と私の間にギルが割って入ってくれた。
「もう婚約者でも何でもない者が、レベッカの名を軽々しく口にするな」
「ひっ……も、も、申し訳ございません。しかし、あの、レ……セルヴァン、伯爵令嬢に、少しお話が……」
ギルの言葉に対して過剰に怯え、おどおどとした情けない様子を惜しげもなく晒すパトリックさまに、フローラは一体彼のどこが好きだったのだろうと首を傾げたくなった。
小さく息をつき、視線を合わせることもないまま、私は自分でも驚くほど感情のない声でパトリックさまに告げる。
「私はあなたと話すことはありません。……もう二度と、会いたくもありません」
「そ、そんな……僕を見捨てるのかい!?」
「見捨てたのはあなたでしょう、シャーマン侯爵令息」
私のその言葉に愕然とし、悲鳴のような声を上げるパトリックさまに対して、冷たく凛とした声が響く。
ギルと同じく私を守るようにしてその場に現れたのは、レオンハルト殿下とアメリアさまだった。
特にアメリアさまはいつもの穏やかな表情はそのままに、けれどそのペリドットの瞳には一縷の光も無く、全身に恐ろしいほどの怒気を纏っていた。
「わたくしの大切な大切な友人を愚弄し、あまつさえ傷つけてあっさりと捨て置いた男。あなたのことはしかと記憶いたしましたわ」
「ひっ……」
「本当ならわたくし直々に厳罰を下したいところなのですけど……わたくしの心優しい友人はこれ以上の罰を求めないそうです。よかったですわね。けれど……わたくしの怒りが抑えきれなくなる前に、さっさとこの場から立ち去ることをお勧めしますわよ」
「……リアにほとんど言われてしまったけれど、私も君は早く帰ったほうがいいと思うよ。あと、君の一家には別の横領の件で嫌疑がかかっているから、それについては後日またゆっくり話を聞かせてもらうね」
ニッコリと完璧な微笑みを浮かべているのにも関わらず、その周辺の空気が氷点下なアメリアさまとレオンハルト殿下に、パトリックさまは恐怖で完全に腰が抜けたらしい。しばらくして、見兼ねた同級生たちにずるずると引き摺られて退場していった。
「……アメリアさま、少し脅しすぎでは」
「あら、レベッカの代わりにわたくしが釘を刺しておいたのよ。ここはわたくしに感謝するところではなくって?」
「いえ……いえ、そうですね。本当にありがとうございます」
「ふふ、よくってよ」
満足気に微笑むアメリアさまに、思わず気が抜けてしまう。そのままつられて、私もくすりと笑ってしまった。
そんな私を見たアメリアさまの瞳に、微かに安堵が浮かんだような気がして、またじわりと胸が温かくなる。
ふと思い立った私は、もう一度アメリアさま、と彼女に呼び掛けた。
「何かしら、レベッカ?」
指先まで洗練された美しい動作で、コテンと小さく首を傾げるアメリアさまに、私は微笑む。
そこに最大限の敬意と親愛を乗せて。
「あなたに心からの感謝を。こんなにも素晴らしい友人を持つ私は、本当に幸せ者です」
このとき私は初めて、アメリアさまを友と呼んだ。
そのことに気がついたアメリアさまは、驚いたように目を丸くし、ほんの一瞬だけ唇を震わせた。けれどすぐに、いつもの完璧な微笑みを浮かべてみせた。
流石は第一王子殿下の婚約者、淑女の鑑と名高いご令嬢である。
「ねぇレベッカ嬢、私は?」
「バカ、空気を読め」
一方、後方ではそんなやりとりが行われていたらしく、後日満面の笑みで「私は?友人じゃないのかな?」と詰め寄ってきたレオンハルト殿下はなかなかにホラーだった。




