ある雨の日のこと
ぼくがまだ大学生だったころの、あまりにも若く、そして恥の多い生涯の一欠片をどこかに書き残しておかなければならないと急に思った。
その日からもう十年ではきかない時が経っている。人も、街も、すべて変わってしまったような気さえする。ぼくの心だけがいつまでもその時に囚われているとは思いたくないのだが、ぼくの生涯で最もエゴイズムの罪に溺れた日と、それに加担して共犯者になってくれたきみに、どうしても感謝したかったんだ。
そんな一日と、その日に至るまでのおはなし。
その日は平日で、まだ大学生だったからもちろん授業に行かねばならないが、最初から授業に出る気はさらさらなかった。夕方からの待ち合わせに向けて、気もそぞろになっていたのは認めざるを得ない。
起きると、ばしゃばしゃと水の音が響いてくる。
窓を開けたら、それはもうしとしとどころではない強い雨音がより激しく聞こえてきて、もうげんなりとした気分になってしまった。なんとも風情の欠片もない秋の大雨の日であった。あとから思い起こせば、この日は今年の秋でもっとも雨の降った一日だったらしい。
何の気なしにつけたテレビでは、アナウンサーがこの雨は秋雨前線の影響だと無機質な声で告げていた。こんな日にまで雨を降らせてくれなくても良いのにな、と思いながらすぐにテレビを消した。
ベランダに出て、相変わらずおさまらない雨音を聞いてすぐに煙草に火をつけた。煙草は湿気が混ざると途端に風味を失ってどことなくじっとりした味になる。
最後の一口、フィルターの味が混ざるくらいしっかりと吸い切って、灰皿にもみ消すようにして叩きつけた。
その日は高校時代にもっとも長く付き合っていた、所謂元カノー仮にユキと呼ぼうーと会って少々酒を飲もう、なんて予定をしていた日だった。ぼくにはそのとき別にいい感じの女の子がいてー仮にシオリとでも呼ぼうかー花火を一緒に見に行ったり、ふたりで旅行にいったり、大学近くの喫茶店でコーヒーを飲んだりと、暇さえあればお互いに会う口実を作っていたように思う。性格や嗜好も一致した。その振る舞いやメッセージからもありありと好意を感じることができた。順当にいけば、シオリとはたぶんクリスマスあたりには付き合うことになるだろうと思っていた。なんとなく、この機会を逃せば、たぶんユキとは一生会うことはないだろう。そんな気がしていた。
ユキは同じ大学で、理系の大学院に進んでいた。同じ高校で机を並べた仲ではあったが、もはや進学先を選ぶ余地もないくらい成績だったぼくとは比較にならない優秀な女生徒で、いかにも横浜育ちの良家の子女といったふうであった。一方で北関東の田舎から記念受験でぽいと高校に受かってしまったぼくは、成績以外でも彼女たちとぼくでは生きる世界がなんとなく違うのだろうな、とその頃からうすうす感じていた。
色白で精緻な容姿と華奢な手足、そして黒目の大きな強いまなざしも、寡黙な部分をも含めて彼女の魅力をより引き立てているように見えた。
ユキと付き合っていたのは高校生のころのことだ。
ユキが意外にもオタク趣味を持っている、ということを聞いたのは高校2年の春ごろであった。共通の知人を介し、mixi(今思えば時代である)で趣味についていくつかのメッセージをやり取りした。お恥ずかしい話だが、当時病気にかこつけて部活を休み、ぶらぶらしていたぼくは女の子とどうしても仲良くなりたかったのである。ユキは以前付き合った男も何人かはいたようだが、数ヶ月もたずに既に別れてしまっており、当時フリーであったうえに男性を拒絶しないふうだったのも不純な目的をもっていたぼくにはありがたかった。
学校では目につくから、どこかそれ以外の場所で会おう、と言って、高校からほど近い江ノ島や、校外学習のついでに秋葉原へ誘って行ったりした。そんな日の中で、しだいに彼女のメッセージにもどこか心がほぐれてきたような親密さが見えるようになった。ある土曜、午前授業のおわりに彼女の希望で横浜にある海芝浦駅という無人駅へ行くことになった。
もう初夏の陽気で、とても暑い日だったことを覚えている。
海芝浦駅というところは鶴見線という路線の終着駅で、東芝の工場の敷地内であるから、駅でありながらそこから外に出ることはまかりならない。ではなぜそんな駅にわざわざユキが行きたがったのか、という話だが、駅の敷地には工業地帯の海を臨むことのできる公園があり、夜景もきれいなので隠れた人気スポットになっているのだということであった。
電車を降りたら一面の海であったのには些か驚いた。工業地帯だからもちろん南国のような美しい海でもなければ浜辺でもないのだが、これはこれで風情がある。しばらくたわいもない話をしているうちに夕暮れになった。海と夕陽のコントラストというのはどこで見ても美しいものだとここでぼくは知ったように思う。
夕闇がきて、話が途切れた。ユキはあまり話すほうではなかったので、いくらか無言の時間が続いた。なんとなく手持ち無沙汰になったので、ユキの体を抱き寄せてキスをしてみた。はたして拒まれず、ユキはされるがままになっていた。ぼくは、
「笑えばいいと思うよ」
と言った。彼女が綾波レイを、新世紀エヴァンゲリオンを敬愛しているのをぼくは知っていた。はたして、彼女はしくしくと泣き出した。ひょっとして地雷を踏んでしまったかと思って焦ったのだが、どうやら今すぐにでも帰りたいわけではなさそうで少し安心した。
落ち着いて、ユキはこんなことを言った。
「悪い人に遊ばれて苦しい思いをしたかったの、わたしは自分で言うのもなんだけどけっこうな男の子にアプローチされて、少し付き合ってはみたけどやっぱり何かが違った。でもそんな人たちにも申し訳ないから、いま悪い人に遊ばれてるっていうのもわかって、でも苦しくて、幸せなの。それなのに、笑えばいいと思うよって、そんなことを言われると、すごく救われてしまった気分になって、どうしたらいいかわからなくなる」
後年、この「悪い人に遊ばれたかった」というセリフはシオリからも、また違う女性からも同じことを聞くことになるので、そのときは全然理解できなかったけれども、男性に対して精神的な自傷行為を求める女性というのは一定数存在するのだということを認識したような気がする。
それからは無言のまま、手を引いて電車に乗って鶴見駅まで向かった。ユキは鶴見駅からバスで、ぼくは京急線に乗って帰る予定だった。
「あなたのことを、好きになってしまいました」
と言われた。ぼくのその日の記憶はそこで終わっている。
それから2年ほど、ユキとの付き合いは続いた。大学進学を機に生活は離れていき、自然に関係は消滅した。ぼくにはその間に短期間で別れた彼女がいて、彼女のほうにも数人の彼氏ができたようだが、もうどうなろうとユキへの興味はなかった。お互いに過去の思い出として葬り去る気持ちでいたのではないかと思う。
それがシオリとの関係を進めていく中で、急にユキの顔が見たくなったのである。付き合っていく中で傷つけていったときのことをきちんと謝って、思い出にちゃんと昇華することで、ぼくの中での青春にしっかりとケリをつけたかったのかもしれない。
やはり夕方になっても雨は止みそうにない。ユキは来てくれるだろうか。何回か、今日はやめにしないかとメッセージを飛ばしそうになった。だが、そのたびに今日を逃せば機会はないという思いは募った。
待ち合わせの野毛へは少し早く着いてしまい、「先に飲んでいる」とだけメッセージを送り、先に待ち合わせしたビアバーへ行くことにした。彼女は昨年ドイツに留学していた由で、美味いビールを教えてもらおうという魂胆もあった。
4年ぶりに会うユキは服装と化粧が大人っぽくなったこと以外、年月を感じさせるほど大きな差はなかった。だが、端正な横顔と意思の強い目はしっかりと大人の女性としての魅力をたたえていて、ぼくは少したじろいだ。これで理工学部の、それも機械学科だというのだから男性はほってはおかないだろう。
ジャズバンドの演奏がはじまり、ぼくらはしばらく他愛もない話をした。ぼくは留年していること、もうすぐ付き合いそうな女の子がいることを話した。ユキは大学院の研究がたいへんなこと、いまの彼が浮気をするから別れたいんだという話をした。ぼくを選ぶよりマシじゃないか、と笑い話をすると、それもそうだね、とユキは淋しげに笑ったように見えた。
2時間ほどビールを立て続けに飲んだだろうか。ぼくの足はもうふらついていた。しかしユキは昔から飲める口だから全然酔った風ではない。ただ、この日だけはぼくは正気を保っていなければならない。シオリの手前もある。雨は小止みになっていたが、あまり女性を雨の中歩かせるわけにはいかない。さっきは少しジャズバンドがうるさかったから、もう少し静かな店がいいねと言った。ユキも頷いた。
2件目に上がりこんだのはよく行く立ち食い寿司屋の2階で、この手の店にしては珍しく個室をもつ店であった。金曜の晩ということで混み合っていたが、個室は運良く空きがあった。ユキは煙草を吸わないので先程のビアバーでは多少気を遣っていたのだが、相当に酔いが回っていたのも手伝ってぼくは煙草をチェーンでもうもうとふかすことにした。
乾杯し、少ししてお手洗いに立った。戻ってくると、ユキがぼくの煙草を手にとってくるくると回している。
「吸ってみる?」
「わかった」
100円ライターで火をつけてやったら、それはもうものの見事に噎せた。ぼくは大笑いした。どうやらほんとうに初めて煙草を吸ったらしい。
「あなたは、わたしのハジメテノオトだよ」
煙草をひと吸いで捨てたユキが言った。みなまで言わなくても、ぼくには言わんとしていることがわかった。かけるべき言葉を失い、しばし沈思した。やはり、これは美しい思い出にしなければならない。そう強く決心した。学生時代の大きな忘れものをひとつ回収した気分だった。そう思うと急に気が楽になり、過去のぼくがユキを傷つけてしまったことをひとつひとつ、思い出しては謝った。ネタが尽きて沈黙が生まれ、そして彼女は控えめに歌った。
初めての音はなんでしたか?
あなたの 初めての音は…
ワタシにとっては これがそう
だから 今 うれしくて
高校時代は合唱部の部長を務め、大学の合唱団でもソプラノをやっていた彼女の声は透き通っていて、初音ミクがそこにいるような気がしたことをいまでも思い出す。
酒はビールから日本酒に変わったが、ぼくはみごとに酩酊し、ユキはまったくシラフのままで酒を飲み続けた。未成年飲酒を散々やった高校生の頃からたいして変わりのない姿であった。
やがて、どちらともなく別れのときがやってきた。外に出てみると、一昼夜の間降り続いた雨は止んでいた。別れには粋な演出だな、とふと思った。野毛の雑踏から桜木町駅に向かい、ユキの手を引いて横浜駅へ向かう。それはまるで高校時代に鶴見線で海芝浦駅から鶴見駅へ向かっていたときのようだった。もうあの頃に戻ることはない。そう思うと、急に寂しさがこみあげた。
ユキは京浜東北線でそのまま鶴見へ向かうらしい。ぼくは横浜駅で京急線に乗り換えて帰る。別れ際、とっていた手にキスをした。
「いつまでも、あなたはわたしのハジメテノオト」
そう言ったかどうかは、発車メロディと閉まる電車の音にかき消されてよくわからなかった。
それから、ユキには二度と会っていない。