銀花玉条
ひどく寒い朝だった。月並みな表現だが、吐く息も凍ってしまいそうだった。薄暗い空を見上げると、はらはらと、細やかな雪が降っている。おかげで足元がひどく滑りやすかった。今思えば、目当ての列車に遅れそうになって、慌てていた僕も悪かった。
「気をつけろ、バカ!」
あっ!?
と気がついたその時には、僕は尻餅を付き、背中を強かに地面に打ち付けていた。見上げると、スーツ姿の、髭面の巨漢が僕を睨みつけていた。
通勤前のサラリーマンだろうか。
僕も悪かった。前方不注意だったのだ。人のごった返したロータリーで、僕とその巨漢の周りだけ、ドーナツの穴のように円が出来ていた。
「すっすみません……」
「どこ見て歩いてんだ、このウスノロ!」
円の中で、巨漢が鋭い目つきで僕をギロリと睨め付けた。
「そうだそうだ、このマヌケ!」
「殺すぞテメェ!」
「死ねッ! ナメクジ野郎!」
「××××!」
「××××!」
僕らの様子に気がついた通行人が、待ってましたとばかりに辛辣な言葉を投げかける。殺される。四方から投げかけられる礫のようなそれに、僕はたちまち縮み上がった。散らばった荷物を掻き集め、半泣きになりながら、逃げるようにその場を後にした。背後からは、僕を罵る声が矢のように飛んできていた。
誹謗中傷が合法化してはや数年。
人々は拳で殴り合う代わりに、言葉で殴り合うようになった。暴力の禁止……だがどんなに法律で犯罪を禁止しても、殺人事件は無くならない。
僕も含め、大抵の人間は善性や正義感の裏に、悪意や狡賢さを兼ね備えている。そうでなければこの現代社会、到底生きていけないからだ。世の中は悪意の落とし穴で溢れている。悪はとかく悪者にされがちだけど、しかし悪意を識らない人生など、雪山に裸で登るようなものだ。
もちろん世の中、善人だって少なくないとは思う。だけど、もし100%の善人がいるとしたら、そんな人間はとっくに悪い人たちの喰い物にされていることだろう。
1%未満か、あるいは人によっては10%かはたまたそれ以上か……とにかく決して表には出せない、腹の底に溜まり続ける黒黒としたもの……そのガス抜きをするために、政府は誹謗中傷を合法化することに決めた。刃物や銃を手に取って、殺し合うよりはマシだという判断だった。
いつもの列車には乗り遅れたが、何とか遅刻せずに教室に着くことができた。危ないところだった。僕は自分の席に滑り込み、冷や汗を拭った。遅刻なんかすれば、正義感の強い先生や、不特定多数の善きサマリア人たちに攻撃の口実を与えかねない。
この現代社会、後ろ指を指されたら負けだ。一度悪いことをした(実際にしたかどうかは別にして)と流布されたが最後、直ちに世界中から関係のない人間が大勢押しかけてきて、あっという間にペシャンコにされてしまう。
チャイムが鳴った。
定刻通り、担任の先生がのしっと現れる。と、その時、
「すみません!」
大汗を流しながら、Y君がその後から教室に飛び込んできた。
「ご、ごめんなさい! 昨日部活で遅くまで練習してて、それで……」
Y君はほとんど泣き出しそうになりながら叫んだ。彼とは対照的に、教室はシン……と静まり返っていた。先生の、皆の雪のように冷たい目がY君に注がれる。
「分かってるな」
先生は咳払いして、半ば憐れむような視線をY君に送った。彼は、まるで死刑宣告を受けたかのように膝から崩れ落ち、これから自分が受ける仕打ちを想って口から泡を拭き始めた。
先生はY君を黒板の前に立たせた。それから数分間、僕らは徹底的にY君を罵った。彼の所業を世界中に拡散し、尊厳を踏み躙り、奈落の底まで貶めた。ホームルームが再開される頃には、Y君は救急車で搬送され、そのまま帰らぬ人となった。そう、死んだのだ。最近では珍しくない事例だった。
だけど……中には疑問に思う人もいるだろう。
たかが言葉如きで、人を殺すことができるのか?
と……確かに僕らは、「バカ」とか「ドジ」とか、一言二言投げかけただけに過ぎない。
偉人賢人の名言じゃあるまいし、僕らの言葉に大した重みがあるとも思えない。その中に明確な悪意があった訳でもない。じゃあどうやったのか? 僕は雪のようなものなのだと思う。
雪というのは一粒一粒、1gにも満たない重さしかない。だが積もれば積もるほど、時間が経てば経つほど密度は変化して、一坪の屋根に1mの雪が積もると、1トン以上の重さにもなる。
爪や牙のように鋭くもなく、触れたら溶けて消えてしまう程度の、冷たい言葉の一粒。塵も積もれば何とやらで、そんな悪意なき1gが、Y君をペシャンコにしてしまったのである。
僕は正直、ホッとしていた。一歩間違えれば、Y君のようになっていたのは僕の方だったかもしれないのだ。これからも他人には隙を見せないように、心を許さず、常に気を張って生きていこうと思った。
午後には雪は止んでいた。放課後、家に帰ると、早速Y君のニュースが地元のローカルTVで演っていた。
「一体どうしてこんなことになったんですか!?」
TV画面の向こうでは、厚かましくも「私は100%善人です」と言った顔をした女性が、涙ながらに訴えていた。
「学校に遅刻をするだなんて! 許せない!」
「遅刻を法律で禁止にするべきだ。時間を守らない奴は、死刑にしたらどうでしょう?」
「遅刻した生徒は、アニメやゲーム、漫画が大好きだったという話です」
「何だって!? アニメやゲーム、漫画が!?」
「またか!」
「悪書追放は喫緊の問題、それからアニメやゲームは即刻禁止にするべきよ」
「後はとにかく、ネットが悪い。漫画やアニメの時と同じで、悪い人はみんなネットをしているんだ。諸悪の根源はインターネットだ。直ちに基地局を爆破しよう。これは正義の爆破なんだ。僕たちは正しいことをしているんだよ」
そうだそうだ、と番組が結論付けようとしたところ、
「いい加減にしてください!」
これまた「100%善人」顔の女性が、怒りに任せて皆の話を遮った。
「遅刻した罪よりも、誹謗中傷の罰の方がおかしいでしょう!? 一体いつまで目を逸らすつもりなんですか?」
「そんな……目を逸らすだなんて……」
「誹謗中傷を法律で禁止したらどうですか? 明らかにこっちの方が原因でしょう?」
「し、しかし……」
「それでは言論の自由が……」
「それともあなた方は、平気で他人を傷つけ合う世の中をお望みですか!」
「うぅ……!」
「正論だ……ド正論だ……」
この女性の発言が注目を集め、100%善人顔の人々に支持された。やがて社会問題となり、政府は誹謗中傷の合法化を取り下げた。こうして数年ぶりに、人々は言葉で傷つけ合うことを禁止された。
数年後。
『地球の未来のために! 僕らの未来のために!』
『悪い奴をやっつけよう! 愛を、正義を世界中に広めよう!』
『皆で手を取り合って! 分かり合おう、僕らは皆仲間だ。仲間は分かり合える。逆に言えば、分かり合えない人は……』
数年後。言葉は禁止された。
僕らは言葉で傷つけ合う代わりに、美しい言葉を言葉を掲げ、ナイフを掲げ銃を掲げ、武器を掲げて互いに傷付け合うことになった。
その日もひどく寒い朝だった。僕は遅刻しそうになり、慌てて金物屋に走っていた。何せ言葉で傷付けるのが法律で禁止されているから、言葉以外で分かってもらう方が手っ取り早い。
もはや言葉は通じない。たった1gでも凶器になり得るかも知れないのだ。ならば下手に言い訳をせず、これでカタをつける。
雪が降っていた。僕は購入したバタフライナイフを忍ばせて、数分遅れの列車に飛び乗った。